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【劇評250】禍々しい人間の業を吹き飛ばす勘九郎の『天日坊』。

 邪気を吹き飛ばすには、何が必要か。
 
 黙阿弥作 串田和美演出・美術 宮藤官九郎脚本の『天日坊』は、二○二二年二月に、もっともふさわしい疑問を投げかけている。

 この作品は十年前、コクーン歌舞伎として既に上演されている。今回の再演では、三〇分の短縮が行われたという。すでに完成し、高い評価を得た舞台を切るのは、断腸の思いだったろう。けれど、コロナ禍で最良の解を出すために、スタッフ・キャストが全力を挙げて立ち向かったのがよくわかる。

 メインキャストの勘九郎、七之助、獅童は、前回と変わらない。けれども、今回は、若さよりも成熟期に入りつつある歌舞伎役者の技芸が、確かな手応えで伝わってくる。

 前半、勘九郎は法策を演じるにあたって気弱な性格を強調する。内心には、疑問をかかえつつも、師匠の観音院(亀蔵)の放埒には逆らわず、兄と慕う下男久助(扇雀)には、情愛を持っている。巡礼娘のおかん(七之助)が現れてから、それぞれの人生が大きく狂い出す。法策は、お三婆(笹野高史)に、酒を届けるが、ふとしたことから、お三婆の娘が頼朝公の落とし胤を生んだ証拠の書き付けの存在を知ったあたりから、悪心が頭をもたげてくる。

 勘九郎は、魔がさした男が、次第に確信犯へと踏む出していく過程をよく描き出している。「このまま、無名の存在で、埋もれていっていいのだろうか」。落とし胤と同年、同月、同日に生まれた偶然が、法策をいっぱしの悪党へと押し出していく。
 
 勘九郎のおもしろさは、肚をくくって悪党に成り仰せたはずの天日坊が、フラッシュバックするように、元の法策へと戻る俊寛をあざやかに見せる件りである。何度となく襲ってくるこの疑いは、人間は他人にはなりおおせないことを示している。名前や育ちはどうでもいい。けれど、心のなかにある性向だけは、どんなに取り繕うとも変えることができない。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。