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【追悼】近くて遠い人。写真家、篠山紀信の想い出。

 神出鬼没の人だった。

 篠山紀信と会った場所を思い出せばきりがない。青山のスタジオはもとより、パリの劇場やレストラン、NYの平成中村座周辺は、偶然なのか必然なのか、ばったり会った。

 かといって、親しく話したことは一度もない。

「どうも」といって別れるだけの関係だった。今となっては惜しいような気もするが、この不世出の写真家と何を話せば分からなかった。中村勘三郎や野田秀樹、興味の関心が似ていたこともあって、ばったり会うのは必然だったし、そのことは、きっと紀信さんもわかってくださっていたと思う。

 だからこそ、というべきか、同じ人物に入れあげることの気恥ずかしさもあってか、あえて近づかなかった。 

 すれ違いに終わった人生だけれども、二○一七年、野田秀樹の『足跡姫』のパンフレットの仕事で、水天宮のピットでお目にかかったときが、もっとも、想い出に残っている。このとき、すでに篠山さんは、決して若いとはいえなかったが、二台のフルサイズカメラとズームレンズを肩にして、稽古場を走り回っていた。

 私の知る巨匠たちは、アシスタントには、今、使わないカメラを持ってもらい、ときどきによって、入れ替え、渡してもらっていた。篠山さんは違った。おそらくは三人以上のアシスタントがいたにもかかわらず、彼らには、照明のアシスタントをさせるばかりで、ひとりで、敢然と被写体に向かい合っていた。

 こうした誠実な写真家を前にして、どれほどわがままな俳優も、異議を唱えるわけにはいかない。表現者としての誠実、果てしない欲望が全面に出ていた。私は二階のキャットウォークで観ていたのだが、宮沢りえらのキャストが、篠山さんに全幅の信頼をおいているのがわかった。

 このときだけではない。雑誌の仕事でも、ご一緒したが、常に、クレジットは篠山さんが先で、私があとであった。

 はじめは、慣例からすると、「文が先で、写真はあとなのにな」と思ったが、ページをくると説得させられた、それは表現者としての覚悟が私などとは比較にならない場所にいらした。そのことを思い知らされた。

 私にとっては、懐かしい人ではなく、近くて遠い人だった。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。