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茶屋へゆくわたりの雪や初芝居 (久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第三回)

 万太郎は、明治二十二年(一八八九)、十一月七日、東京市浅草区田原町三丁目十番地に生まれた。

 自筆年譜には、
「父は勘五郎、母はふさ。一人の兄、一人の姉があつたさうだが、ともに早世、名まへも知らない。祖父、萬蔵の代より、袋物製造販売を業とした。」
とある。
 父、二十八歳。母、二十一歳。ふたりのあいだに万太郎が生まれたとき、祖父萬蔵は、五十八歳、祖母千代は四十五歳で健在だった。萬蔵夫婦は子供に恵まれず、千代の姪ふさに婿をとり、勘五郎とともに夫婦養子として家業を託した。

「久保勘」が製造していた袋物は、煙草入れの胴乱である。
 胴乱とは、長方形の革製品で、きせるとともに、腰に差す場合が多く、金唐革(きんからかわ)、印伝革(いんでんがわ)が使われた。一時は、住み込み、通いをふくめて、十五、六人の職人をかかえ盛んな店であったという。

 生家は残っていない。雷門を背に、現在は、雷門通りと名前を変えた広小路を渡る。雷門から数えて三本目、今はあさひ銀行のある角を左に入った横町に、久保勘はあった。浅草生まれと、胸を張って名乗るにふさわしい場所である。

 万太郎は、『雷門以北』をはじめ、明治二十年代の浅草について、記憶をたどった随筆を数多く書いている。

 その頃、広小路には「宿屋、牛屋、天麩羅屋、小料理屋がわずか一丁ばかりの間に、呉服屋、鰹節屋、鼈甲屋、小間物屋といつたやうな土蔵(くら)づくりの、暖簾をかけた、古い店舗(みせ)」が並んでいた。

 広小路を生家に向かって入ると、羽子板、お雛さま、五月人形、夏の盆提灯、廻り灯籠、お会式の増加、タコと羽子板など季節ものを扱う際物屋、豆腐屋、宮の湯という湯屋、野菜や果物を商う八百酉が立ち並ぶ「名前のない横町」に万太郎の生まれた家があった。(『淺草田原町』明治四十五年「三田文学」)

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。