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河合祥一郎訳の『新訳 ドリアン・グレイの肖像』は、クリアな世界を構築する。

 すっかり忘れていたのだけれども、オスカー・ワイルドは、中学生時代に愛読した。今、思えば、ワイルドが好きな中学生などというものは、鼻持ちならないどころか、うさんくさく思える。私が読んだのは、新潮文庫版、福田恆存訳だった。

 その後、二○一二年には、光文社の古典新訳文庫から、作家の平野啓一郎訳が出ているが、私はこの訳を読んでいない。
 今回、角川文庫から出た『新訳 ドリアン・グレイの肖像』は、シェイクスピア学者として知られた河合祥一郎の訳である。一読して、その訳文は実に平易であることに驚いた。芸術至上主義、高踏的と思われていたワイルド像を一新している。過去の訳に対する痛烈な異議申し立てでもある

 翻訳だけはない。対象への読解が行き届いているとき、戯曲も翻訳も批評もクリアになる。視界に透明感がある。河合の翻訳は、学者としての矜恃にあふれていて、行き届いた訳註、そして「訳者あとがき」とあるが長文の論文が、訳業を支えているとわかる。

 今回、何十年ぶりに読んで、ワイルドの文章に、シェイクスピアからの引用がおびただしく見いだせたのも驚きだった。英国の知識人の小説だから当然と言えば当然のことだが、背伸びしていた中学生の私には理解出来なかった細部である。
 河合の訳註は、シェイクスピアばかりではなく、ギリシア神話のような西欧文学の語彙ばかりではなく、ワイルドの時代の風俗をも補っている。たとえば喫煙のように失われた悪習もまた、本文と訳註によって、英国貴族の生活として、そっと手渡されるのだ。

 また、老いという概念、いや老いという肉体的な変化が、いかに人間を脅かすか。
 そのリアリティが、全体を貫いている。屋根裏部屋に密かに閉まった肖像画だけが老いていき、青年の容貌は変わらず、世間知や苦渋もまた、隠されていく。この物語の怖ろしさを、改めて突きつけられたように思った。ここには、老いることの恐怖とともに、老いないことの恐怖もまた、描かれているのだった。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。