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ドナルド・キーンの食卓

「演芸画報」以来の長い歴史を受け継いでいた「演劇界」という雑誌があった。
その題名とはうらはらに、グラビアも劇評も特集記事も、歌舞伎が中心で、長年の愛読者を誇っていた。

 2022年の3月に休刊してしまってから、歌舞伎の世界はつっかえ棒を失ってしまったかのようで、専門誌があることがそのジャンルにとって、どれだけ大切なのかを身に染みて感じている。

 「演劇界」が健在だったころ、担当のWさんから突然電話がかかってきた。興奮した声で「キーン先生のインタビューができることになったんです。もう死んでもいい」とまくしたてるではないか。
 
 もちろんキーン先生の名前は、古代から現代に及ぶ、日本文学の泰斗としてよく知られていた。三島由紀夫はじめ第一線の小説家との交友も知られていた。その造詣の深さは、文学に限らない。能・狂言・歌舞伎についての著作があったから、Wさんが興奮するのも、なるほどとうなずけた。
 
 近頃、晩年のキーンが英語で書いた著作を、日本語に翻訳していた角地幸男の『私説 ドナルド・キーン』が出た。

 日本学の権威として知られながら、まとまった評伝がないことにきっかけに生まれたこの本は、キーンの著作を歴史の中に位置づけている。
 本書では、晩年にキーンが書いた『明治天皇』『渡辺崋山』『正岡子規』への詳細な読解が含まれている。

 評伝と名乗るからには、当然の仕事だけれども、私が面白く読んだのは、料理が好きで、角地を自宅に招いては、酒肴をふるまう様子である。

 そこには、アカデミックな学者というよりは、魅力にあふれた人間としてのキーンが垣間見える。

 「まず、ソファーで、シェリーとチーズとフランスパンが出る。チーズは二種類、前もって冷蔵庫から出して、とろけて食べごろになっている。フランスパンは切って、いつもオーブントースターで温めてあった。シェリーは幾つか試しあと「ドライ・サック」が旨いということになった。京橋の明治屋でしか手に入らず、いつも散歩がてらに買い置きしてくださっていた」

 キーンの客人を持てなす気持ちが、あふれている。新聞や雑誌でおなじみだった人なつこい笑顔が浮かんできた。Wさんはいいな。この笑顔を身近に見られたのだから、いいな。この本を読んだら急にうらやましく思えてきた。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。