【劇評248】芯に立つ役者の力量。菊之助の『鼠小僧次郎吉』
鼠小僧すなわち義賊との思い込みがあるが、黙阿弥の『鼠小紋東君新形 鼠小僧次郎吉』は、義賊であり盗賊であることの矛盾を鋭く突いている。
黙阿弥が書いた世話物のなかでも特異な地位を占めていて、上演例が少ない。それだけに芯に立つ稲葉幸蔵を演ずる役者によって、造型を自在にできる。
今回の菊之助による稲葉幸蔵は、偽善によって自ら苦しんでいく人間像を造型している。
特に二幕目の第三場、歌六が演じる辻番与惣兵衛とのやりとりがいい。役目を果たせないから殺してくれと願う与惣兵衛に、そんなことは出来ないと押し問答の末、因果話へとつながる。
庚申の夜に生まれた子供は、盗癖があるとの言い伝えと、親子の証しとなるほぞの緒書が重なる。
子を捨てた親は、永遠の業火に焼かれているからこそ「殺してくれ」などと無理難題をいう。捨てられた子は、自らの出自がやがてあきらかになる予感にふるえている。
しかも、言い伝えは、幸蔵の場合、的中していたと認めなければいけない窮地に追い込まれていく。
こうした複雑な内面をえぐって、菊之助は、破綻を見せない。三幕目からは、さらに幸蔵を責め苛む出来事が重なるが、肚を割らずに、ひたすら耐えていく様子を克明に描写していく。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。