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【劇評259】海老蔵の復活。歌舞伎座で炸裂する『暫』の大きさ。

 六月歌舞伎座は三年ぶりの團菊祭。三部制を取っているために、大顔合わせは限定されるが、第二部は、菊五郎、海老蔵、菊之助が出演して令和歌舞伎の水準を示す舞台となった。

 まずは海老蔵による『暫』。團十郎家成田屋は、荒事の家だけに、海老蔵はなにより舞台で大きくあることを大切にしてきた。七ヶ月ぶりの歌舞伎座で気力体力ともに充実し、客席を圧する。

 江戸の顔見世には、なくてはならなかった演目であり、柿色の素襖、車鬢と呼ばれる鬘、白い奉書紙がぴんと張った対の力紙、すべての要素が「力感」のために奉仕している。こうしたしつらえを生かしていくのは、鎌倉権五郎に化身した海老蔵の肉体である。

 新之助時代の海老蔵が、東京の劇界をさらったのは、一九九八年一月、浅草公会堂で十代の終わりに演じた『勧進帳』の弁慶である。
 その野生美、限度をもうけないエネルギーの放出によって、観客を圧倒した。
 以来、二十余年、仁木弾正のような国崩しや民谷伊右衛門のような色悪にも、突出した才質を示してきたが、近年、なにかリミッターがかかったかのように、野生の奔出が今ひとつ見られないのを残念に思ってきた。

 今月の『暫』は、階段の踊り場から、また一歩、もう二歩踏み出した出来で、海老蔵の復活を予感させた。

「でっけぇ」の化粧声を全身にあびながら、その場をがんとして動かぬ不動のありよう。成田屋当主の誇りに満ち満ちている。片時も身体に隙を見せない胆力がある。邪を払う祝祭劇としての『暫』を見せてくれた。

 左團次の武衡は、古怪と大きさ。又五郎の震斎、孝太郎の照葉のやりとりに安定感。なにより、軽みがあるのがよい。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。