【劇評238】街路灯が照らし出す人類の終焉。長塚圭史演出の『近松心中物語』。
現代演劇として、秋元松代の『近松心中物語』を演出する。
長塚圭史演出の舞台は、この姿勢に貫かれているところをおもしろく見た。
一千回以上もキャストを変えつつ上演された蜷川幸雄演出の舞台との比較は、どうしても避けられない。また、秋元自身が、文楽の『冥途の飛脚』を原作としたと明言しているが、現在でも頻繁に上演される『恋飛脚大和往来』(「封印切」「新口村」)もまた、観客によっては強く意識されるだろう。
こうしたさまざまな幻影をまとった『近松心中物語』を演出するにあたって、シンボルとして形象化したのは、舞台奥、下手寄りにある街路灯なのであった。
しかも、それは別役実的な電柱ではなく、おそらくはLEDを採用したモダンな街路灯である。
キャストは例外なく着物を着ているにもかかわらず、こうした相反する要素をあえて使ったために、この江戸時代の廓を描いた物語が、現代というよりは、近未来へと結びついた。
こうした演出のために、床の中央が異様に盛り上がり、両袖の何重にも出入りが可能な石原敬の装置も生きてくる。
あえていえば、長身腰高で、和服を着こなすのがむずかしい体型のキャストへの違和感も次第に解消されてくる。
つまりは、『近松心中物語』を時代劇ではなく、着物を着てはいるが、現代を扱う演出意図が明確になった。
また、田中哲司の忠兵衛、松田龍也の与兵衛、笹本玲奈の梅川、石橋静河のたたずまいと関係性も、江戸時代の古風な価値観よりは、自我が強く意識される。近代以降に、個人を規定するようになった自我が、頭をもたげてくるのだった。田中、松田は、むしろ封建時代の価値観に違和感を持ち続けるひとりの人間として、その役を演じている。笹本の梅川は廓の華であるよりは、下級女郎の悲しみ、未来を信じられない人間を描いている。石橋は、あっけらかんとした現代人のようでもある。お亀は、近松門左衛門が書いた『曽根崎心中』に憧れ、自分と与兵衛を重ね合わせている。心中を流行として捉えるお亀の傾きは、秋元の戯曲によく書き込まれている。この重い役を石橋は、軽やかに演じている。
石倉三郎の八右衛門、朝海ひかるのお今も、年齢相応の貫禄よりは、自らの意志が強調される。石倉は、敵役というよりは、世知にたけた人物で通す。お今は、家の存続をひたすら願う女性を演じてブレがない。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。