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長谷部浩のノート お芝居と劇評とその周辺

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#中村勘九郎

【劇評329】勘九郎、長三郎の『連獅子』。名人、藤舎名生、裂帛の笛に支えられ、難曲を見事に踊り抜いた。六枚。

 勘三郎のDNAが確実に、勘太郎、長三郎の世代にまで受け継がれている。そう確かに思わせたのが、十八世十三回忌追善の三月大歌舞伎、夜の部だった。  まずは、七之助の出雲のお国、勘太郎に猿若による『猿若江戸の初櫓』(田中青磁作)。昭和六十年に創作された舞踊劇だが、江戸歌舞伎の創始者、中村座の座元、初世中村勘三郎をめぐって、その事跡をたどる。  七之助、勘太郎の出から、七三でのこなしを観るにつけても、すでに勘太郎には強い型の意識があるとわかる。型だけではなく、中村屋の核にある心

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【劇評328】鶴松の『野崎村』と勘九郎、七之助の『籠釣瓶』。一門の団結を見せ、よい勘三郎十三回忌追善となった。

 大間のやや下手側、追善興行のときは、思い出の写真が飾られる。今月の歌舞伎座は、十八世中村勘三郎十三回忌追善で、写真の前には、お香がたかれていた。手を合わせる。  昼の部は『野崎村』。七之助は久松に回って、鶴松がお光に挑む。児太郎は、お染を勤める。  鶴松のお光は、特に前半がいい。出から実に初々しい。久松との祝言を心待ちにして、気もそぞろな心の内がよく見て取れる。お染が出てから、嫉妬心にかられて、木戸から閉め出してからも、恥じらう乙女で一貫している。 底意地の悪さはなく、久

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【劇評322】玲瓏たる玉三郎演出の『天守物語』は、本年の突出した収獲となった。

 透徹した美意識は、どこへ辿り着くのか。  泉鏡花作、坂東玉三郎演出の『天守物語』を観て、この稀代の歌舞伎演出家が、絢爛たる言葉の競演に、削ぎに削いだ美術によって、独自の時空を作っていることに感嘆した。  鏡花の生前には上演されていないこの戯曲は、レーゼドラマ、読む戯曲としてもすぐれている。特に幕開き、富姫の侍女、それぞれが、萩、女郎花、桔梗、撫子、葛と植物の名を持つ女たちが、秋草釣りを楽しむ件は、狂言綺語の応酬であり、白露を餌にするとの台詞によって、この芝居の幻想性は、

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鶴松がお光を勤める『野崎村』。勘三郎の思い出。

 猿若祭二月大歌舞伎。もう十三回忌となるのか。墓参りは欠かさないようにしているが、今も、献花やお香が絶えないのは、故人の遺徳だと思う。

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【劇評309】幸四郎、勘九郎の意気地。若手花形の成長を楽しむ『新門辰五郎』。

若手花形の充実が急がれる課題であるとすれば、真山青果の群像劇『新門辰五郎』を第二部の出し物とするのは、なるほどと膝を打つ、見事な企画である。

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【劇評286】觀玄改め、八代目新之助の『毛抜』は、荒事の本質に届いていた。

 堀越勸玄は、ひとかどの役者へと進み始めた。  十二月の歌舞伎座は、八代目市川新之助襲名、初舞台の演目として歌舞伎十八番の内『毛抜』が選ばれた。新之助は、弱冠九歳。大らかな荒事ではあるし、家の藝とはいえ、役と本人にあまりにも落差があるのではないか。演目と配役が発表されたとき、危ぶむ声があがった。  現実の舞台を観て、いらぬ取り越し苦労だとわかった、新之助は、現在ある力を振り絞りこの役に取り組んでいる。その誠実さに胸を打たれた。  以前、故十代目坂東三津五郎の聞書きをした。

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【劇評278】熱狂の平成中村座。勘九郎、七之助が若手花形を引き立てる。進境著しい獅童。五枚半。

 歌舞伎に、沈黙は似合わない。  客席にある種の熱狂があってこその歌舞伎であって、コロナウィルスの脅威が私たちを襲ってから、この興奮状態を忘れかけていた気がする。  久し振りに浅草、浅草寺境内の平成中村座を埋めた観客は、熱い歌舞伎を待ち望んでいた。  全身全霊を賭けて芝居をする役者を観たい、この緊密な空間に身をおきたい。こうした観客の願いが、強く感じられた。開幕を待つときのざわめき、役者の出に向けて贈られる拍手、いずれも、私たちが待ち望んでいた劇場のありかただった。  

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【劇評250】禍々しい人間の業を吹き飛ばす勘九郎の『天日坊』。

 邪気を吹き飛ばすには、何が必要か。    黙阿弥作 串田和美演出・美術 宮藤官九郎脚本の『天日坊』は、二○二二年二月に、もっともふさわしい疑問を投げかけている。  この作品は十年前、コクーン歌舞伎として既に上演されている。今回の再演では、三〇分の短縮が行われたという。すでに完成し、高い評価を得た舞台を切るのは、断腸の思いだったろう。けれど、コロナ禍で最良の解を出すために、スタッフ・キャストが全力を挙げて立ち向かったのがよくわかる。  メインキャストの勘九郎、七之助、獅童

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【劇評247】勘九郎、愛嬌に溺れぬ『一條大蔵譚』。

 勘三郎家にとって大切な『一條大蔵譚』。勘九郎は、父十八代目、祖父十七代目を受け継ぎつつも、自分なりの境地を開きつつある。  まずは「檜垣」。獅童の鬼次郎、七之助のお京が、檜垣茶屋で源氏の未来を憂えている。大蔵卿に使える計略を練るために、お京が女スパイのようになりがちだが、あくまで忠義本意に描く。舞が本格なので、筋目の通った人間であると説得力を持つ。  勘九郎の大蔵卿は、床几を傾けて、阿呆ぶりを強調するところも、あざとい笑いを避ける。品のよい育ちを守っている。お京をからか

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【劇評245】菊之助、勘九郎。哀惜こもる『ぢいさんばあさん』。

 目を瞠らせるスペクタクルばかりが歌舞伎ではない。  台詞を大切にした世話物が観たいと思っていたところ、十二月大歌舞伎の第二部に、『ぢいさんばあさん』を見つけて嬉しくなった。  森鴎外の原作、宇野信夫の作・演出だけれども、さすがに芝居巧者の宇野信夫だけあって、ある意味では荒唐無稽な話でありながら、観客の涙を誘う仕立てになっている。役者にとっては、宇野が作った虚構を、いかに活き活きと見せるかが課題となる。  まずは、若き日の美濃部伊織(勘九郎)とるん(菊之助)の初々しい若夫

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【劇評237】勘三郎が演じていない役を、勘三郎のように演じてみせる勘九郎。七世芝翫十年祭の『お江戸みやげ』。

 懐かしい演目が歌舞伎座にあがった。  北條秀司の『お江戸みやげ』は、十七代目勘三郎のお辻、十四代目の守田勘弥のおゆうによって、昭和三〇年十二月、明治座で初演されている。もとより私はこの舞台を年代的に観ていないが、先代の芝翫が、六代目富十郎と組んだ平成一三年、歌舞伎座の舞台を観ている。  吝嗇で金勘定ばかりしているお辻が、酒を呑むうちに気が大きくなり、ついには役者を茶屋によぶにまで至る話は、大人のファンタジーとして楽しむ芝居だと思った。  先代芝翫には、明治、大正、昭和

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【劇評235】七之助、真に迫る豊志賀の恨み。勘九郎の洒脱な狸の踊り。

 七之助が恨みの深さを存分に見せる。  『真景累ケ淵 豊志賀の死』は、明治を代表する落語家、三遊亭円朝の口演から劇化されて、歌舞伎の演目として定着した。  六代目尾上梅幸の豊志賀、六代目尾上菊五郎の新吉の顔合わせで、明治三十一年に市村座で上演され、当たりをとっている。  六代目梅幸は、五代目菊五郎の話として、 「化物と幽霊を一ツに仕ちゃアいけないぜ、化物の方はおどかすように演り、幽霊は朦朧と眠たいやうな心持で演らねばいけない」 と伝えている。  梅幸の『新修梅の下風』に

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【劇評224】勘九郎、七之助、松也が作りだすドラマの余情。串田和美演出の『夏祭浪花鑑』。

 活き活きと呼吸する人間として、ひとつひとつの役を見直していく。  串田和美演出・美術の『夏祭浪花鑑』は、芝居には完成形などはなく、常に先を追い求めていく精神に貫かれていた。    夏の入道雲が、空を覆っている。  上手には明るい日差しを浴びて鳥居が見える。よしず張りで囲われた辻に、遠くから祭り囃子が聞こえる。蝉時雨が降り注いでいる。  往来する人々がいる。材木を持った男は、運び損なって、地面に落としてしまう。三味線を持った男が通りすぎていく。  神主が現れると、人々は辻に立

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【劇評210】勘九郎、七之助による追善となった『猿若江戸の初櫓(さるわかえどのはつやぐら)』

 歌舞伎には、寺社が設立された経緯を構造として組み込まれている演目がある。『摂州合邦辻』は、大坂、四天王寺にほど近い月江寺建立。『三社祭』は、江戸、浅草、漁をしていて観世音菩薩像をすくいあげ、三社様の本尊としたという枠組みがある。中世の説話や説経節を日本の藝能は引き継いでいる証しだろうと思う。  ならば、江戸から綿々と繋がる歌舞伎の家系を寿ぐために、ある種の神話を新たに作ってしまおう。こうした新作舞踊ができたのは、先の伝統に連なる作劇の方法の流れがあるのだと思う。  今月

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