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OD自殺備忘録③

こんにちは、hasamiです。死に損ないです。

更新怠ってたのは文章書く状態ではなかったからです、絵はしてました。

前回のつづき


https://note.com/hasami719/n/nf80930da2ddb


早速書いていきます。





前回で貼っている床ずれ写真の私は相当浮腫んでいる理由というかプロセスを説明して、どんな治療されて、その時の私の心情と思考を書いてゆきます。(写真が少しセンシティブなので見に行ってね)


浮腫みの理由としては主原因が急性薬物中毒と床ずれにあります。

血液中の薬物とアルコール濃度が臨界点超えているのに加えて、床ずれによって細胞が半壊しそれは不要物なので尿として出すために身体は自己防衛措置をとるが、血液濾過器の腎臓が薬物によって

「ワシもうムリ。」(爆上がりする炎症値)

となっているので排出できないし

けど吸収はするし

細胞は壊れてゆく。

その悪循環が起きているので、腎臓が機能できるように血液の相対的濃度を下げるためにソルラクト輸液(多分コレ)を約2時間半で500mlの点滴パックを血液に注入していってました、最初の3.4日はその勢いのままで、5日目くらいからは3~4時間で500mlまで落ち着いてきました。

それと私的にはほぼ症状の無かった、誤嚥性肺炎による炎症を抑えるためのユナシンs(多分コレ)も同時に点滴されていました、こちらはゆっくりと1日3回取り替えるくらい。

普通病棟に移っても日中も夜中も絶え間なく点滴パック取り替えてくれた看護師さん達、夜中は痴呆が始まってる年寄りを押さえ込むのに大変なのに人員は少ないのにすまん・・・といった気持と不眠で寝られず、横になると床ずれ痛いし点滴邪魔だし尿管邪魔だしでえぐい不快感。

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元々は右手甲の見える血管に刺されてた点滴の針は左腕に移してもらって、ICUでカタコトで言ってどうにか通じたバインダーと鉛筆で絵をかいてました、どう言ったのか自分でもよく分らないですが汲み取ってくれた看護師さんありがとうございます・・・。

同時に起きてたのは強制的に排泄を促すために意識ほぼ無い状態で尿管に管入れられて、オシッコ垂れ流し!状態にされてましたが、搬入から2日間の尿の量が1Lもなく、出ないね~とかを看護師さんと話してました。




これらが起きる前、搬入されてすぐされてたのはODする人には有名な胃洗浄です。

全くもって意識無かったのでされたのかすら怪しいですが担当医が胃洗浄したよと話してたし、書類にも胃洗浄していいね?の同意書類が含まれてたので多分されてますが記憶に一切無いので説明が出来ない・・・。

けど証拠として活性炭でしばらくの間クソが墨液と同じ色になっていたので、胃洗浄はされてます、写真は貼りませんが墨液見てもらったらそれがソレです。なんで活性炭にくっつく性質なんて付与して薬作ってんだよと思いました。


搬送された日のPM10:00頃には通常病棟に移ってはいましたが、残薬で眠く副作用で手足の震えと脱力でメラミン製のコップすら持てなかった

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(当時のメモ、看護師さんから廃棄する紙を貰って描いていた)


座るのも、立つのも、震えと脱力と力めない状態で完全に寝たきりやな・・・と考えていた。

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ナースコールも重かった。



通常病棟に移った朝、全身ダラダラですがどうにか1人で朝ごはん食べて、その時はまだ通常病棟でも特に経過を慎重に観察しておかないといけない患者が入る病室に居てました、その日の昼くらいに大丈夫だろうという事で、もう少し危険度の低い病室に移りました。

どの病室にも同年代のひとは居なかった。



死ぬ気満々でやったのに入院して、準備とか何も出来てなかったので服はよく見る患者服、スマホや眼鏡(近視と乱視で視界がやばい)、私物も一切無いし父にまた怒鳴られるわと絶望してたら急激な身体の変化で不正出血もしてて、辛いのミルフィーユされても・・・と5滴くらい泣いてから、ヨッタヨタでナースステーションに行ったら歩いちゃダメ!とお叱りを受けてから内容説明して電話借りて父のスマホに電話。


数回の呼び出し音の後



もしもし、どうしたん。 (私:どうもこうもねぇ)

生理来たのと眼鏡ないから見えんのとスマホとスケブと筆記具持って来て。

多いな、生理用品は妹に聞いとくから。

うん、わかった、明日くんの。

明日行くわ。

わかった。


とりあえず自分が必要とするものだけ言って電話を切った。


昼過ぎくらいに電話してから明日かぁ、明日。


そこからは明日どんな対応されても対策出来る様に言い訳や、シュミレーションしてやばい焦るどうしよう・・・また怒鳴られる可能性は高いし、逃げる場所が無いし身体はちゃんと動かない、どうしよう、の堂々巡りの思考をしてたらいつも通り希死念慮で「アーーーーーーーッッツッツ!!!!!!!!!!!!!!!」となりつつ、その日は終わりました。

残ってるメモにも大量のどうしたらいいか、死ぬか!!みたいなメモが残っている。

みると辛くなるのでこのメモは公開しないです。


なんとなく時間がすぎて翌日に。

AM7時くらいから朝食の配膳が始まって8時には終わる、そこから11時くらいに来るであろうこの約4時間が、薬飲んだ時よりICUで処置された時より点滴の針刺しかえるのよりも辛かった。

怒鳴られるのも何もされたくないし自殺否定もされたくない、生きてる事も嫌だし生きてて良かったなんて言われたくない、死んどけばこんな事考えなくて済んだのに、いつも悪口言ってくるのに救急車なんてもの呼んだん、恩師に絶望されないかとか色々考えて4滴くらい泣いてうとうとしてたら、病室に誰か来た。


巡回の看護師さんかなと思ってタカをくくっていたら少し早めの父が見えた。


びっくりするのと来ちゃったこの時間・・・、また絶望したけど普通にしとかな揚げ足取られて怒られる火種を蒔きかねないぞ、と強い意志でいざ戦場へ・・・の心意気。

怒られるつもり満々でいたら、めっちゃ今までに見た事ない優しい雰囲気を持って

調子どうなん

とか今まで高熱でても半月以上咳止まなかった(咳落ち着いてきてから怒り狂って病院に連れて行かれてマイコプラズマ肺炎治りかけ診断が出た)のに大して反応もしなかったのがD4Cの攻撃受けて対消滅して別次元から来た個体か?とか考えて、間もなく怒られなかった安心で


「死にたかったのに死ねんかった」


とか色々とりあえず私は死にたかった、とか話した後着替えや本来必要な物持って来るからと話して30分もせずに帰っていった。



そこからは私自身の肉体が頑丈なのもありみるみるうちに回復して6日目の夕方に退院しました。けど珍しいことに毎日父が面会にきてました、持ってくるものも無いし救急性の高い患者しかいない病院なので風呂毎日入れるわけでもない、まだ尿管に管入れられてる最初3日なんてベッドに磔でただの無駄、この時に


なんだ、この程度しないと妹と同じくらい体調に構ってもらえないのか。


と分りました。

生きてる事というか社会が怖くて逃げたくて死んだのに生きてるじゃん、馬鹿だなぁ相変わらず、とか堂々巡りしながら入院期間過ごしました。

搬入された6日後の夕方に退院しました。

その1週間後に血液検査にもう一度行ってまだ炎症値も高いけどこの回復速度なら問題ないです、と担当医に言われてOD自殺未遂は一応終わりとなりました。





一応入院から退院まではこれで終わりですが今現在(20201203)も問題は何も解決していないので、それらの事も書いていこうと思います。具体的内容は


・家庭環境による鬱 (家の人達は私の努力不足だと解釈)


・グレーゾーンの発達障害 (ピンポイントに発達障害の項目あり)


・精神疾患による障害者手帳の発行するか否か (絶対発行させたくない父、強行発行しました) 


・モラハラが酷いので家から出る計画(これは家の人間には話さず行政に頼っています)




半年経った今何も解決してない、書いた言葉は現実になりやすいので日記がてらに進行状況など書いて、数日置きに描いてる日記を載せていこうと思います。










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