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夏目漱石「それから」

夏目漱石の「それから」を読んだ。日本の明治時代の文学作品を通して、彼らが疑念を抱いてきた西洋中心の近代社会について再考する授業を取っていて、その課題として読んだ。この時代の小説は、夏目漱石の「こころ」「坊ちゃん」くらいしか読んだことがなかったから、卒論のある身としては重すぎる課題にも目をつぶれる。英語と日本語で読み、比較するという体験も面白かった。こういう、自分の興味の少し先にあり、痒い所に手が届くというか、世界を広げてくれるような授業が好きだ。


そしてまた先生が、とっても親身な方なのだ。実は「それから」を読む前、私がメンタルダウンに苦しみ、これは休学をせざるを得ないなと思っていたのだけれど、ちょっと待ってと、とりあえず話そうと、たった一人の生徒に1時間も時間を割いてくれたのはその先生だ。そのときに何度も、来週から「それから」を読むから、そこで学ぶことがたくさんあるはずだ、というようなことをしきりに言われたのだけれど、読み終わった今、その理由が分かる。


もう100年も前の作品だというのに、まるで自分の代わりに書いてくれているような気さえした。近代社会に迎合できず、食べるために自分を殺して働くことを嫌う主人公の大助には、共感するところが多々あった。「大助が悲しい結末を迎えたことについて、彼が犯した過ちがあるとすれば、それは何だったか。」というような問いをなげられ、そういう視点で読んだから、まるで自分で自分を空から批判的に見ているような心地がして、どきっとしたのも一度や二度ではなかった。


「isolation(孤立)」ということを、先生はしきりに繰り返した。大助や近代社会に関しても、わたしへのアドバイスの中でも。私はアクティブな方だし、友達の数も多い方だから、自分が孤独を感じているなんて一ミリも思っていなかったのだけれど、「友達がいること」と「孤立していないこと」はイコールではないのだということを、今回学んだ。問題は数ではなく、大変なことを一緒に頑張ったり、不安を打ち明けたり、否定されないという安心感の中で言いたいことを言えたり、そしてやっぱり、実際に会ってエネルギーを与えあったり、そういうコミュニケーションがなければ、自分が、たとえその小さな社会の一単位の中でだけだとしても、ちゃんと存在している感覚を得るのは難しいのだと思う。大学生の孤立問題は、まったく他人事ではなかった。


それからもう一つ、「それから」から学んだことは、社会の明るいところに目を向け、何かしら行動を取り続ける方がいいということだ。近代社会を嫌い批判し続ける大助の気持ちや行動にはすごく共感したけれど、嘆いてばかりいても、きっとこの小説のように、何も前に進まないまま、ぐるぐると、じわじわと、深い沼に落ちていくだけなのだと気がついた。いつの時代も社会は完璧ではないのだから、欠点にばかり目を向けていたら、いつまで経っても自分だけが苦しいことになる。

「玉突き事故による不運な結果」を完全に避ける方法などありはしない。生きている人間にできるのは、起きたことについて対処することのみだ。

という、和田さんのnoteの一節を思い出す。


少し前までは、何にも意味や希望を見出せなかったけれど、もともと生きることに意味なんてないし、社会にはいつだって悪の側面がある。だから、自分にできることがあるとすれば、それは、生きる意味が天から降りてくるのを待つことでも、社会の幼稚さを嘆き続けることでもなく、ただ、自分で「明るいところに目を向ける」と決めることなのだと思う。暗い世界には人間をどんどんと引き込む力があるような気がするから、引っ張られやすい私の場合は特に、ちゃんと一定の距離を保っていようと思った。



「それから」の中でいちばん好きだったのは、「焼麺麭 ( やきぱん ) に 牛酪(バタ)」のところだった。



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