見出し画像

『夏映え』感想


『夏映え』感想

『夏映え』
著者:にゃんしー様

2024年文学フリマ京都にて購入。表紙の写真を一目見てジャケ買いでした。

舞台は、東日本大震災の被災地で、震災後十年ほどが経過した福島です。復興のシンボルとも謳われた聖歌リレーが記憶に新しいですが……ってもう3年も前なのか。私が歳くってるせいなのか月日の流れは異様に速くて、あの震災から今年で13年経ちましたが、体感的にはつい最近です。それくらい津波に流された街の映像をニュースで観た時は衝撃でした。

物語は、主人公の女子高生・夏美が、福島に住む叔母・愁香さんの家に滞在している(そして愁香さんに「本気の浮気」をしているかもしれない)父(=恋多き作家、その名も「恋」)を連れ帰るべく、尼崎から福島に赴く、という場面から始まります。冒頭をよむかぎり、夏美はふだんはインスタで制服姿を披露して万のフォロワーをつけたりSNS上の彼氏がいたりと、いかにもな「女子高生」の印象を受けましたが、そんなスマホ世代の女子高生が電源を切って、両親の離婚の危機をどう乗り越えるのか、防波堤がそびえたつ福島に降りて震災の何を感じるのか、己の内面にどう向き合うのか、答えは出るのか? てゆうか夏美は父を連れて帰れるのか、帰らないのか? そこで揺れに揺れて修羅場になる展開かと思いきや、もっと予想の上をいくダイナミックな展開で、後半は感涙しながら読了しました。泣かせようとしているストーリー展開ではないのだろうけど、なんていうのか、良質な映画を観た時に何がって説明できないけど劇場でボロボロ泣いてしまって、エンドロール終わっても席を立てないような、あの感動に似ていました。

そういや最近は映画を頻回には観ていないのだけど、直近でその感覚を味わった映画は2023年10月公開『キリエのうた』(岩井俊二監督)でした。あれも震災の話なんですが「キリエ」の歌声の迫力に泣かされたといっても過言ではない。ということは『夏映え』は文章に込められた迫力に心を揺さぶられたということなのかもしれません。福島を想う夏美の、もとい、福島を書こうとした著者の決意に感銘を覚えたのかもしれないし、あるいは、私の中にある何かがこの物語に連動して引き起こされたのかもしれない、「こうです!」とうまく説明できないですが、とにかく良かったです。

あんまりネタバレしたくないのですが、福島の愁香さんには息子の冬馬がいるんだけども、この子がとても良い味を出しています。『夏映え』と同時収録されている『オネエマン』を読んでも、冬馬がいいやつすぎて、でもやっぱりどこまでも「男の子」って感じがして、かわいらしいです。『オネエマン』ってどういうタイトルやねんと思っていたら冒頭でその謎はあっさり解かれますが、「オネエマン」に込められた気持ちがまたせつなくて、良いタイトルだなとこれまた冬馬を好きになりました。

タイトルといえば、にゃんしーさんの別の作品『メグミルクを飲むと降谷建志に優越感を感じる』は読み終えてからタイトルを見返すと秀逸!と思ったので、こちらもおすすめです。
(スーパーで牛乳コーナーの前を通るたびにこのお話を思い出しちゃいます)


震災について書くこと

『夏映え』は夏美や冬馬の物語であると同時に、福島、つまり被災地の物語でもあります。作中にもいたるところに震災の痕が描かれており、尼崎から来た夏美はその傷に否応なしに向き合うことになります。そして夏美を通して読者としても、もし被災地に足を運んだらどういう気持ちになるだろうな、と考えさせられる箇所がいくつもありました。

私自身は子どもの頃に阪神淡路大震災を経験しましたが、さいわいライフラインは保たれていたし、まわりに負傷者もいない環境でした。
布団脇の本棚が倒れてきて、間一髪でよけたので無傷で済んだのですが、揺れがおさまったあと、助けてくれ、助けてくれと空耳が聞こえたり無数の手が差し出されたりするのが見えて、恐怖で布団を頭までかぶり歯を食いしばって起床時刻まで耐えた記憶があります。夜になると虚空を指して「あの人がこっち見て何か言うてるんやけど」とか言い出す子どもだったので(当時はほんとうに見えていた)、あの地震直後に見聞きしたものが何だったのか、まぁたぶん妄想というか本棚の下敷きになっていたかもという恐怖心が見せた幻覚幻聴だったのかなと今は解釈していますが、たぶんもし被災したら、あの何倍もの恐怖が長いあいだ続いていたのだろうと想像しています。本能的というか生理的というか身体的というか。言葉では癒せないものなんだろうなと。
なんにしろ、家具の固定はしておきましょう。(大事!)

大地震や大洪水が起きるたびに、ニュースを見ていろいろ思うけど、今のところ身内や知り合いに大きな被害を受けた人がいないためなのか、その苦しみやつらさを想像できても実感するのは難しいです。やっぱり何事も、当事者じゃないかぎり、腑に落ちて理解できるのは百パーセントは無理なので。

でも私も、過去に震災にまつわる小説を2回書いたことがあります。当然ながら書くにあたって地震のことを調べることになるので、参考として3.11の津波の映像やら被災者のインタビュー記事やらに目を通したわけですが、調べれば調べるほど、私なんかが震災の話を書いていいのかな? という迷いはありました。架空の話だから、では許されないんじゃないかと思いました。のうのうとライフラインの整備された環境下でしか生きてこなかった私が、現実に苦しんできた人達の気持ちを物知り顔でどこまで代弁できるのか、私は私を許せるのかみたいな、そういう葛藤でした。もうそれを言い出すと、フィクションという嘘を書く自体がぜんぶその問題にぶちあたるわけですが。

なので、夏美が福島に来て感じた「ここに来てもよかったのかな」には共感したし、「不真面目に向き合ってもいい」も、そうするしかないのも、そういうことをきちんと書いてくれているところもありがたいと感じました。

同じ経験をしても感じ方は人それぞれ異なるわけなので、私は私の経験則から当事者感情を想像するしかなく、そうやって知ろうとすること、感じとろうとすることが作品と真摯に向き合うことだし、その向こうにいる読者に対しての誠意だと思っています。わからないから書かないというのはものを書く人間としていかがなものかと思うし、わからなくてもわかろうとして悩んで書くことにフィクションの意味があるんだろうなー、などと自分なりに結論づけています。




※にゃんしー様主宰のイロカワ文学賞について語りました


※熊本地震の時に義援金目的で発刊してくださった『関西魂・熊本大分編』に掌編参加しています(筆名・西谷丘晃子)↓


※映画『キリエのうた』

この記事が参加している募集

#文学フリマ

11,688件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?