私の読書を取り戻す
読書が好きです。
小さい頃から図書館に通っていたし、中学生の頃はハリポタ一色に染まっていたし、高校生になり途中で不登校になった時も救ってくれたのは本であり、読書でした。
いつしか本に関わる仕事がしたいと思うようになり、書評ライターという仕事も経験しました。
残念ながら書評ライターの仕事は縁がなくなってしまい、辞めざる負えなくなってしまったのですが、本の魅力を文章で伝える仕事は今でもしたいという熱意は持っています。
しかし、ここのところ読書に対して発狂するほど苦しい思いをしています。
InstagramやXを覗けば、たくさんの人たちが思い思いに本の魅力を伝えようとしている投稿を目にします。
出版不況で本が売れなかったり、地方の本屋さんが次々に閉店していったり。
国が本屋さんの存続に動く事態にまでなり、「本」というものの存在が危ぶまれているのは確かで、そういう事態に対してたくさんの人が本の魅力を発信しています。
それはとても素敵なことだし、そういう輪がもっともっと広がっていけばもしかしたら出版業界や本の未来は明るいのかもしれません。
私もその一翼を担いたい。
私も本の未来を明るくする活動がしたい。
そんな思いでInstagramの投稿を工夫してみたり、おしゃべりは苦手だから(口で説明することが壊滅的に下手くそなんです)、V logみたいな読書動画を作ってみたり、「ここの部分いいな」と思ったらすかさず付箋を貼って書評を書くことに使ってみたりしました。
でも、なんか違う。
私の読書ってこんなだっけ?
私って、誰のためにこんなに頑張って本を読んでるの?読書してるの?
確かに書評を書く仕事はしていたし、今も書評を書くことも読むことも好きです。
でも書評を書く大前提として「自分のために読む読書」があったはずなんです。
面白いから読む。楽しいから読む。本が好きだから読む。
私はだんだんと「本の魅力を伝えたい」という強大な思想に呑み込まれ、自分のための読書ができなくなっていたのです。
InstagramやXでおすすめの本を伝えている人や、本の魅力を伝えてる人たちはきっと前提である「まず自分が楽しむための読書」が出来ている人なのだと思います。
そうでなければ、機械のようなレビューになってしまうでしょうし、何より魅力は伝わらないと思うのです。
私もそうでありたいと思います。
血の通った書評やレビューが書きたい。けれど、そのためには「血の通った自分のための読書」が出来なければいけません。
私は私の読書を取り戻さなければ!!
ガチガチにがんじがらめになった「本の魅力を伝えたい思想」からは離れて。
小学生の時に「怪盗ルパン」や「トイレの花子さんシリーズ」にハマったように、中学生の時にハリポタに夢中になったはいいものの、テスト期間中に新刊が発売されておあずけを食らって泣きそうになったように、不登校という現実を西尾維新が忘れさせてくれたように……。
まずは私がいちばん読書を楽しむ、ということを取り戻すための読書をこれからしていこうと思います。
「この本オススメ!」とか「本の魅力を伝えたいです」という言葉や文言に、少し違和感や疲れを覚えたら、まずが大前提として「自分が楽しむ読書」をするといいかと思います。
本は、読書は、自分が心から楽しんでこそ真価を発揮するものだと、私は思うのです。
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