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「書評」は本を読む練習になる

ふと思ったことがあった。
例えば動画やSNSで本(小説とかエッセイとか活字の本ね)の紹介を見たり読んだりして、どれだけの人が興味を持った本を読み通すことができるだろうか、ということ。

「このあらすじめっちゃおもしろそう!」と思って、いざ本屋に行って、「これだ!」と見つけた本が五百ページだったら?三部作だったら?あるいは、もっと何冊も続くシリーズだったり、異常に字が細かかったり、二段組みだったら?
本を開く前に挫折するか、読めても途中で止まったりしないだろうか?
最近私はものすごくそれが心配なのだ。

もちろん読書人口は増えてほしいし、読み手が増えれば本の価格で下がるかもしれないし、作家さんにお金が入ることも大切だし、何より手軽に見れる動画やSNSで本に興味を持ってもらう「きっかけ」はすごく大事だと思う。
でも、活字の本は当たり前だけど字ばっかりだし、ライトノベルは挿絵はあるけれど基本的には活字が中心なのである。
「よし、読書しよう!」と思ったときに、このギャップで逆に読めなくなったりしないかな?とふと思ってしまった。

読書とは文字通り「書を読む」という行為。InstagramやTwitterの投稿のような短い物語もあるけれど(ショート・ショートと言います)、それでもやっぱり本という体裁を取っている以上短い物語が何編も連なったり、ページ数は百をきっと超えるだろう。一分で読了、のようなSNSの投稿では終わらない。何ページも何ページも物語は続いていくのだ。
SNSの投稿だけで興味を持ってしまうと、「三百ページもある……」と本そのものにビビる可能性もあるのだなと思った。

決して動画やSNSで本を紹介することを否定したいのではない(私もSNSで本の感想は書いているしね)。
私が言いたいのは、読書という行為は何百ものページをめくる行為だということ。時短が声高に叫ばれているけれど、動画やSNSの投稿のように一分で読み終わる本はないし、ペロッとジャンクフードのように食べられる物語なんて存在しないことを覚えておいてほしいのだ。

その上で、本の紹介と文章を読む練習を兼ねられる「書評」というものがある。本のあらすじが分かる上、プロは書評本を出版しているから信頼もおけるし、アマチュアの書評を書く人はごまんといるから(私のようにね)一般読者目線でも本のことを知ることができる。
気を付けてほしいのは、プロでもアマでも書評を鵜呑みにはしないこと。
書評というのはあくまで個人の意見であって、「そういう風に読めるんだ」程度にしておくことが大事だ。
ただ、本を知るきっかけとしては書評はとても大切な文章のジャンルだと私は思っている。
そして私はその「書評家」という職業を目指している(余談だけどね)。

正直、書評というものを世の雑誌や新聞や出版社はもっと大切に、そして生かすべきだと私は思っている。なんだか軽んじられている文章ジャンルだなと感じるのだ。
本を売りたければもっと書評を大切にしろ!と心から思っている。

ぜひ、次の一冊を選ぶときは書評を参考にしてみてね。

最後に尊敬して止まない書評家・批評家さんのリンクを貼って終わります。
三宅さんの本は全部読んでいるし、文章が上手すぎて……。染みるんだ、これがもう。
ぜひ一度読んでみて!

西桜はるう



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