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【書評】積み上げていく希望という名の積ん読『好きになってしまいました。』(三浦しをん)

私はとにかく三浦しをんのエッセイが大好きだ。
クスリと笑えて、真剣味がある内容もどこかお茶目な雰囲気は壊れず、全体的に柔らかい文章が特徴的だと思う。「今月はどこにも出かけてない!」と言いつつも、面白いエピソードに事欠かない三浦しをんの日常が私はとても羨ましく感じる。

待ちに待った最新エッセイ集は、もちろん文句なんか出るわけない。コロナ禍以前に書かれたものが多いので、旅情エッセイもたっぷりだし、書評もあったし、ご家族のエピソードも本当に読んでいて楽しかった。
なかでも私が感涙したのは、著者が「積ん読」について語った部分だ。

しかしまあ、積み上がる本とは希望なのだとも言える。「明日も生きて、これらの本のなかから一冊読みたいな」とか「知らなかったことをまだまだ知りたいな」とか、自分自身や未来への希望の象徴なのだ。
このペースで行くと、とてもすべてを読みきれないまま死ぬにちがいないですけどね。
それでも、人々が積み上げる未読の本の山は、「たとえやり残したことがあったとしても、希望を胸に生きていくこと自体が尊いのである」という事実の表れなのだと私は思う。

本文より

私は蔵書が千冊を超えたあたりで数えるのをやめた。まあ千冊以上も積ん読があるという事実から巧妙に目を逸らすためなんですけどね!完全に読むペースと買うペースが合ってない。
「読まないのにもったいない」「読んでから買えよ」という声も聞こえてきそうだが、昨今の出版事情を鑑みると発売後わりと早めに買わないと結構手に入れるのが難しくなっている(最近もスティーヴン・キングのシリーズものを買おうとしたら一冊だけ古本でも手に入らないという事態に陥っている。まあ、外伝なんでたぶん今はなくても大丈夫なんですけど)。
だから買う。とにかく気になった本はすぐに買う。発売日がまだだったらAmazonや楽天などネットで予約をする(なので、Amazonや楽天の予約欄は毎月すごいことになっている)。
ゆえに、毎月積むことになっているのは事実だ。とんでもない量を積んでいることはちゃんと分かっている。でも積む。
それを三浦しをんは完璧に肯定してくれた。積ん読は「希望」だと!
そうなんだよ!積ん読は「これを読むまで私は死ねない」という、大切な希望なのだ。

特殊な事情になってしまうけれど、私は精神疾患を患っており、ふっと「死にたい」と希死念慮に駆られることがある。明日に希望なんてない。毎日を生きることに必死なのに、次から次へと悩みは尽きない。「私って生きてる意味ある?」「なんでこんなに頑張らないといけないの?」と自殺未遂まではいかなくとも「死んだら楽なんかなあ」と思ってしまうことはあるのだ。そんなときに、私の命を繋いでくれるのは未読の本の山。積ん読はだ(と、愛猫)。
「この本をまだ読んでない。だから死ねない」と思うことが、「来月はこの本が発売される。だから死ねない」と思うことがどれだけ生きる希望になっているか。積ん読は、命を繋いでくれる本当に「希望」なのだ。

私も、おそらくだけど、このペースで本を買い続けていると未読の本を残して死ぬことになるだろう。「あーまだ読んでないのに死んじゃう~」と臨終の際に思うかもしれない。でも、「読もう」とした事実は事実なのだ。「この本を読もう」とした事実は消えないまま死ねる。それに対して悔いはないのかな、と思う。

ただし、時として本好きは本に対して理性を失う。

食べきれないほどの食材をやたら買うのは愚かな贅沢だ、とだれしもわかっている。その理性が、なぜ本が対象だと働かなくなってしまうのか、本当に謎だ。

本文より

私もよく本に対して理性を失う。発売日が重なり、予約本が大量に届いた日には「よもや、こんなに予約しておったのか……」と呆然とする。しかしまあ、結局は「まぁた積ん読増えちゃったよ~」とほくほく顔で積み上げていくのである。いや、理性どこいったよ。

今回も存分に三浦節を堪能し、大いに笑い、大いに考え、大いに救われたエッセイであった。

余談なのですが、

本を日々買っているというのに、こちらの二つを定期購読しており、理性を失い過ぎなんじゃないか自分と猛省している(でも後悔はしていない)。

西桜はるう


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