【講義メモ】村上春樹『1973年のピンボール』(1) 「直子」という人物についての考察


『1973年のピンボール』は、「僕」という一人の青年が「喪失から再生へと向かう物語」だと思いました。
前作『風の歌を聴け』の続編ということであれば、冒頭に登場する「僕」の恋人の直子が、『風の歌を聴け』で語られた「三人目のガールフレンド」であろうということが察せられます。

だとすれば、『1973年のピンボール』という小説において、「直子」という登場人物の占めるポジションは、まさに「僕」にとっての「喪失」そのものであるとすることができます。

また、『1973年のピンボール』というタイトルが大江健三郎『万延元年のフットボール』のパロディであると度々指摘を受けているように、当時の時代背景との関連性という観点からも、「直子」という人物を掘り下げることができるでしょう。

まず、直子についてのエピソードは「1969-1973」という、本編に入る前語りとして短く語られます。安保闘争を繰り広げるキャンパス、直子が語る「僕」の知らない郊外の町、そしてそこにある駅のプラットフォームを往復する犬の話、そして1973年の「僕」がその町を訪れ、そして「双子の女の子」と出会うまでの話です。短い章でありながら、それぞれのエピソードが何かを暗示するかのように示唆に富んでおり、非常に難解な章であります。しかしながら、著者自身が「入口」と示すように、この物語において非常に重要な部分になるわけです。

まず、直子と二人の男たちが、それぞれの生まれ故郷のことを話します。
土星生まれの男は、故郷はひどく寒く暗い土地で、とても人の暮らしに向くような土地ではないが、大学を卒業して故郷に帰った時には「革命」を起こして立派な国を作るんだ、と言うことを語ります。しかしながら、その言葉はたどたどしく、彼の理想の脆さのようなものを感じさせます。これは分かりやすく、70年安保闘争末期の学生たちの、「故郷に「革命」をもたらすのだ」という崩れ落ちた理想の末路を表しています。

そして直子の語る故郷の話は、彼女がそこに移り住む前に(1950年代)、彼女が越してくる家を建てた年老いた洋画家、この町に井戸を建てていた職人、そして彼女がこの町に移り住んできた1961年から70年代に至る、「郊外」として改造される街の風景、という三つの話から成り立っています。
これはまさしく、戦後間もない50年代から、高度経済成長期を通して変貌する日本の姿そのものではないのでしょうか。

まず、直子の家を建てた洋画家の老人は、「酔狂な文化人が集った」コロニーの住民たちと共に、何もなく寂れていてしかし平和なこの土地に、周囲の自然を生かした思い思いの丈夫で広い邸宅を作り上げていきます。これはトロツキーとトナカイの寓話で例えられているように、戦争の弾圧の中で都会から追い出された文化人たちが、各々の理想を実現させた「革命」であると捉えることができるでしょう。

そして、彼が亡くなった後に降り注いだ雨は、井戸の職人が掘り出す豊かな水源を作り出します。これは、老人の作り出した理想の「継承」とすることができるでしょう。井戸の職人は、コロニーが遺していった家々と豊かな水源を活かし、彼らの家を引き継ぐ直子たちの家庭に、澄んだ美味しい水を届ける役目を果たします。

しかしながら、職人は鉄道事故によって不慮の死を遂げることになります。「鉄道」によって死ぬ、というのが一つのメタファーになっています。どういうことかというと、戦後首都圏の膨張しきった人口問題を解決するために、東京近郊における鉄道の拡張と都市開発が繰り広げられ、ベッドタウンと呼ばれる「郊外」が各地に建設されていったからです。まさしく、文化人たちの「理想」を受け継ぎ、彼らの目指した理想郷を築いてきた職人は、都心からの「郊外化」の波、その象徴である「鉄道」によって踏みつぶされることになるのです。
直子が語る「プラットフォームを往復する犬」とは、この街に移って来たサラリーマン一家の、「もどかしく電車に乗り込み、夜遅くに死んだようになって戻ってくる」日常の繰り返しを表現したものに他なりません。

直子という人物は、やや間接的にではありますが、日本の戦後から高度経済成長期までの歴史を目撃してきた人物である、ということになるのです。そして、1970年の高度経済成長の終わりと共に、彼女の人生も幕を閉じることになります。

そして物語の舞台は73年に移り、「僕」は彼女の故郷を訪れます。そこにはもはや高度経済成長を支えた「犬」の姿はいません。そこで、「僕」は「全ては終わっちまったんだ」と悟るのです。

しかしながら、それで終わってしまうのなら、「喪失と再生」というこの物語のテーマが描かれずに終わってしまいます。もし全てが終わってしまったなら、金星に生まれた男が語ってしまうように、この星は「悲しみで埋まってしまう」からです。レポートの本題からは逸れますが、ここで現れる「二人の双子」とは、そうした僕の二面性―全ては終わってしまったのか、それとも終わってしまっていってもなお、続いていく「何か」があるのかという「違和感」ーを象徴するものに他なりません。だからこそ、彼女たちとの語らいの中で、「僕」は彼女たちを「入口と出口」という風に名付けるのです。それは「絶望」という名の入口、「再生」という名の出口です。

そして、この物語は出発することになるのです。「直子」という人物は、『1973年のピンボール』という物語の「入口」に当たる人物であり、且つ「僕」という1973年を生きる日本人が失ってしまった、高度経済成長期を支えた「理想」の栄光と影、その二面性の象徴ではないかと思います。


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