2020.06.16 水原希子「日本人感」発言と外国人の政治的発言・行動に対する問題意識について

(2020.06.16現在)Twitterのトレンドに「日本人感」という言葉が上がった。これはモデル・女優として活躍する水原希子さんのこのツイートから。

私がいつ日本人感出しましたか?日本国籍じゃなかったら何か問題ありますか?29年間、日本で育って、日本で教育を受けてきました。何が問題なのか全く分かりません。

これは他のユーザーのツイートを引用してツイートする、所謂引用リツイートです。なので、ツイートの原文には引用された方のツイートとユーザー名が記載されているのですが、公ではない方の匿名性の保持のため(特に今回は「炎上」という非常にナイーブな問題でもあるので)、そのまま表示することは控えさせていただきました。

そして予め断っておきますが、この記事は水原希子さん、及び特定の個人を攻撃する意図は全くありません。(個人的な意見ですが、この点において大勢の「正義」の名のもとに引用された方がネットリンチを受けることになりかねない対応をしたのは、彼女のミスであると思います。)
なので、この記事を読んで水原希子さん及びその関係者や問題のツイートのリプ欄にぶら下がっているユーザーに直接リプライをしたりDMを送る(凸する)ことはお控えください。
追記:現在執筆中のところですが(2020.06.17時点)、引用された方のツイートが表示されない(ツイートか、アカウント自体が削除された)状態になっています。発言を撤回されたということであれば、この記事を書くことで魚拓になってしまうのですが、それでも伝えたいことを書くため、執筆を続けることにします。


この記事では、そもそもどうして引用元のユーザーさんがこのようなツイートをしたのか、そしてどうして水原希子さんがそれに強く反応せざるを得なかったか、ということについて考えます。もしこの記事がその意図に外れた攻撃的的なものであるとご指摘を受けた場合、他に何らかの問題があるとご指摘を受けた場合は、当事者の方々に陳謝の上削除します。

引用元のツイートが訴えたかったこと

まず最初に、水原希子さんが引用した方のツイートを参照します。
重ねて言いますが、ならべく個人が特定されることを避けたいので、ツイートの原文をそのまま引用することは差し控えます。

水原希子、て日本国籍じゃないんだよね?
これ以上何かやるなら日本人感を出すのをやめてほしいと思う。毎度、私が日本の女性の代表感出すのが言ってることの是非でなく国籍的に引っかかることしかない。

水原希子さんが「日本国籍ではない」というのは、事実です。

彼女はアメリカ出身で、父親がアメリカ人・母親が日本生まれの韓国人(在日韓国人)です。最初に引用したツイートによれば、現在もアメリカ国籍のままであると思われます。ちなみに、日本では1984年の国籍法改正に基づき、22歳以上の人が二重国籍を保持することは認められていません。

「これ以上何かやるなら」の「何か」とは、ツイートの内容から考えるに、彼女が「日本の女性の代表感」をひっさげて行う「国籍的に引っかかる」行為というのが該当するのでしょうか。「国籍的に引っかかる」だけでは何のことを指しているのかが分かりませんが、続くツイートでこのように述べています。

アメリカ人が日本に来て、日本人っぽい名前使って「アメリカ最高!、日本ダメ!」とか言ってたらなんか引っかからん?

あと、国籍云々はあれ日本国籍無く政治に意見までなら別に良いけど、署名だのなんだのまでするのは内政干渉ちゃうの?
そこのラインは必要でしょ。

冒頭に述べているのは、日本に来たアメリカ人を例に、彼が日本人であるかのような名前を使って、日本を批判する(disる)発言をすることへの違和感を述べています。
そして、外国人の政治的発言はともかく、署名などの政治的発言をすることは、「内政干渉」なのではないか、という疑問と、そこに規制を設けるべきだとする発言で締めくくられています。

勘違いしている人が多いのかもしれませんが、「内政不干渉の原則」の条約的根拠として知られる「国際連合憲章第二条第七項」及び「国家間の友好関係および協力についての国際法原則に関する宣言」には、外国人の政治的発言及び政治行動が内政干渉に当たるというような表現はありません
ですから、水原希子さんがどんな政治的発言、どんな政治的アクションを起こしたとしても、我々が「内政干渉だ」と批判する根拠は存在しないのです。これは例えば、外国でひどい人種差別が起こっているとして、私たちが反対の声を挙げて署名を集めたりすることが、「内政干渉だ」で一蹴されることがないのと同じです。むしろ、当たり前の権利として認められているからこそ、#metooや#blacklivesmatterのハッシュタグが全世界に拡散されていると言えるでしょう。

一方で、外国人にどこまで政治に関する権利を付与するか、ということになると、これは国によって対応は異なります。
EUのマーストリヒト条約ではEU加盟国の外国人に対する地方参政権の付与の義務を課していますが、EU加盟国外の外国人に対しては各々の国で対応が異なります。それとは対照的に、香港では、全ての永住権取得者に対して香港特別行政区の参政権(被選挙権も含む)が付与されます。
日本はというと、外国人に対する参政権は認められていません。つまり、水原希子さんは日本の選挙に参加する資格を持ちません。

一方で、彼女は直接選挙に参加する権利は持たないものの、様々な署名活動・政治的運動に参加している、というのも事実です。
これをどう捉えるか、というのは個人の考え方にもよるのでしょうが、この匿名ユーザーのツイートでは、彼女のこうした署名活動への参加は批判的に映ったのでしょう。(それでも、その行為は「内政干渉」には該当しないというのは、先ほど述べた通りです)
確かに、「署名を起こして政府にそれを提出する」というのは国民の世論を直接政治に届かせて反映させる、という選挙でいう投票に近い行為のように見えます。その署名の中に外国人が混じっているとしたら、「外国人の参政権は認められていないのに、これでは間接的に政治に関与しているではないか」と疑いを持たざるを得ない人もいるでしょう。「オードリー・希子・ダニエル」という本名を持つにも関わらず、「水原希子」という彼女の芸能人としてのキャリアを象徴する日本人風の通名の方が当然ながら広く知られているために、一見見ただけでは彼女が日本国籍を持たない外国人とは見えない、ということも、一部の人が彼女の行動に対する心象を悪くする理由になっているようです。

ですが、そもそも外国人には参政権を付与しないというのが何も全世界の共通認識なのではなく、それは日本に於いて認められていないだけに過ぎません。なお、彼女が本来の国籍を有するアメリカ合衆国では外国人参政権は認められていませんが、母親方のルーツである韓国では、厳しい条件を課された永住権獲得者にのみ、地方参政権が認められています。「郷に入らば郷に従え」というスタンスもあるでしょうが、外国人が政治に参加することは「内政干渉」に当たらないことは言うまでもなく、地方参政権の付与など、より積極的に是認している国もある、ということは、彼女の言わんとしていることを理解する上でも、より広い視野でこの問題を認識するためにも、必要な知識であると思います。もちろん、「それを認めることが日本国籍を持つ私たちにとってもプラスになることなのかどうか」という事も、また同時に考えなければいけない問題になるのですが。

「日本人感」とは? 「国籍」とは何か?

さて、前置きが長くなりましたが、水原希子さんの引用リツイートに話題を戻します。


彼女のツイートは、「私がいつ日本人感出しましたか?」という、引用元の「日本人感」に対する反論から始まります。広い範囲も含めれば、「日本の女性の代表感」という言葉にも引っかかるでしょうか。
彼女のこの冒頭の反論は、今もなおネット上で数々のツッコミを受けています。確かにそうですね、彼女は「水原希子」という日本人のような名前でモデルとして活動してきましたし、今や日本の女性の代表(=モデル)として海外でも活躍されています。彼女を見て「Japanese model」と認識する方が圧倒的に多いでしょう。

また、それに関連して彼女が畳に土足で立ってポーズを撮っている写真、和式と思われる木製のローテーブルの上で下半身を大胆に露出してポーズを撮っている写真が出回り、「日本の文化を馬鹿にしている」といった批判が、今回の炎上に合わせて延焼的に盛り上がりを見せています。ちなみにどちらも欧米の雑誌に掲載する予定の写真だったそうです。
このような他民族の伝統や文化の特徴を限りなくアウトに近いような形で表現するのは何も彼女が考案してやりだしたのではなく、そもそも彼女をモデルとして起用する欧米の高級ファッションブランドのやり口でもあるのです。畳の上に土足でポーズをとらせる、というアイデアは2013年のシャネルの広告で既に扱われていますし、直近では口元まで伸びる黒色のタートルネックに大きな紅い唇(所謂「ちびくろさんぼ」と同じ表現)をデザインしたグッチのセーターのデザインが批判を受け、販売を中止しています。


どうして彼らが「多様性に欠ける」という批判を受けるようなデザインに敢えてチャレンジするのか、私には全く分かりかねますが、この点に関しては正直なところ、「日本に29年間(正しくは27年間だと思いますが)育って、日本で教育を受けてきた」自負があるのなら、少なくともこういうような写真を公開したら反感を感じる日本人がいると思わないのかな...と思わなくもないです。まぁ、個人的な考えでは、彼女がどんな意味合いを込めてこの写真を投稿したとしても、私には関係のない話だと思っています。
たとえ海外の人に
「日本人ってホントは畳の上にも土足で踏み込んで、パンティーを丸出しにしてローテーブルの上で股を開くのかい?」
と言われても、私は
「さぁ?もしかしたらそういうことをする日本人はいるかもしれないけど、少なくとも僕は畳の上には靴を脱いで上がるし、机の上でそういうことはしないね。お母さんに怒られるだろうから。」
と答えるでしょう。私にとっては、ただそれだけの話なのです。

完全に話題が横道に逸れますが、水原希子さんが女優デビューを果たした映画『ノルウェイの森』で彼女が演じるミドリの台詞の中に、このようなものがあります。

「私ね、この前お父さんのこの写真の前で裸になっちゃったの。全部脱いでじっくり見せてあげたの。ヨガみたいにやって。はい、お父さん、これおっぱいよ、これオマンコよって」「なんとなく見せてあげたかったのよ。だって私という存在の半分はお父さんの精子でしょ?見せてあげたっていいじゃない。これがあなたの娘ですよって」

この小説を読んだのはまだ小学生ぐらいだったので、このあまりにも性的にも倫理的にも強烈なセリフは、今でもミドリという人物をイメージするときに思い出されます。そして今、この炎上騒ぎの中で例の問題の写真を見た時に、このミドリの言葉が頭に浮かびました。私は映画『ノルウェイの森』を観たことがないし、ミドリを演じたのが水原希子さんであることをこの時に初めて知ったのですが、何だかミドリの強烈な生に対する向き合い方、ミドリの生きざま自体が、彼女のそれと重なるような気がしました。
これは単なる僕の妄想に過ぎません。私は彼女のモデルとして、一人の人間としてどういう生き方をしてきたかについては、ほとんど知りませんから。ただ、あの写真を公開した彼女の意図がただのファッションモデルとして指示されたことに従っただけに過ぎないのではなく、「これが私という人間である」という呈示の一つであるとしたら、それを「日本人」という民族観に基づいて否定することは、私にはできないだろうなと思いました。

話題をツイートに戻します。結局、彼女が引用したリツイートに反応し、訴え立ったこととは何なのでしょうか?
結論から述べると、それは
「国籍が違うだけで、どうして縛られることがあるのか?」
「外国人だからと言って、区別することはおかしい」
ということではないでしょうか。

そもそも彼女が一番最初に「日本人感」について触れて「いつ日本人感を出したのか」と反論したことは、彼女が「水原希子」という日本人風のモデルとして活躍していることを意図していたのではないのだと思います。
つまり、
「(女優としての)「水原希子」がいつ日本人感を出したのか」
という問題ではなく、
「(一人の人間としての)「オードリー・希子・ダニエル」がいつ日本人感を出したのか」

ではないかと考えるのです。
どうしてそうなるかは、以降に並ぶ文章で明白ではないかと思います。
国籍を持っているか持っていないかにも関わらず、「オードリー・希子・ダニエル」という人間はこれまでの人生の大半における27年間を日本で過ごし、日本の教育を受け、一人の日本人として生きてきたからです。そこには、「いつ「日本人(=「水原希子」)」になったか」という事自体、全く「問題」として存在しないからです。
そもそも、「水原希子」という名前自体、日本で活動する上で名乗る通名に過ぎません。日本で活動する外国人には、本籍地の本名を名乗って活動する人も少なくないです。しかしながら、彼女にとっては「私とは生まれながらにして日本人の一人である」という事実は、「水原希子」という通名を使わずとも、たとえモデル以外の選択肢を選んでいたとしても、決して揺るがぬ既成事実であり、「「水原希子」という偽名を使ってあたかも日本人であるかのように装っている」という批判に、強く反抗心を覚えこのメッセージを発信したのではないでしょうか。

むしろ、このメッセージを前者の意味(「(女優としての)「水原希子」がいつ日本人感を出したのか」)で捉えてしまうと、「そりゃアンタの名前が日本人感を出してるじゃないか」という堂々巡りで終わってしまいます。そのような意味のない主張を、彼女がしたかったとは到底思えません。

さらに、このメッセージから、彼女ではなく私たち自身が導かれる、あるいは到達しなければならないこととして、ある問題に行き着きます。
水原希子さんが積極的に署名活動や政治運動に参加しているのは、彼女が自分のことを「日本国籍を持たない外国人」ではなく、「日本に住む日本人」であると強く認識しているからです。
これに関しては、「そこまで日本人であることに括るのならば、日本国籍を取得すればいいのではないか」という反論もありますし、私も少しそう思う部分もあります。それに関しては、国際的に活躍するキャリア上の理由があってアメリカ国籍を保有し続けることの無視できないメリットがあるのかもしれません。あるいは、「地球人」「One world hone party」というTwitterのプロフィールの言葉のように、私は「日本人」である前に「地球人」であり、「日本人」を語るのに「国籍」はもはや必要ではない、という論理が成り立つのかもしれません。
国境線を取っ払った地球人、という一般的な地球人という言葉に対する「脱日本人」のイメージに反して、「29年間、日本で育って、日本で教育を受けて~」と「日本人であること」をその前提に置くのはいささか矛盾しているように感じますが、ここだけを追及しても揚げ足取りのようになってしまうので、あくまでも個人的感想の範囲に留めておきます。

問題の本質とは、外国人参政権を付与するか付与しないか、という現実的課題に対して取り組む以前の根本的問題として、「外国人が日本に対して否定的意見をしてはならない」「外国人が日本に対して意見することは内政干渉である」という偏見が蔓延っていること、そういった偏見の根本にそもそも「日本人が日本という国家に対して否定的意見をしてはならない」という思想的土壌が存在することの可能性が、この発言によって暗に示唆されていることなのです。この水原希子さんの発言に対して、「国籍がどうかという問題なのではないのは、確かにそうだ。だが問題なのは「日本を愛していない」ということなのだ」というような反応が飛び出してくることがその確たる証拠と言えるでしょう。

僕は個人的にも、その意見の是非を問わず、日本の現状を憂いて声を挙げたであろう人が発した意見や発言を「愛国心」の一言で切り捨てようとする人間が嫌いです。そういう偏見の上で捉えていることを、一つご理解ください。

そういった発言をする人の中で、何故水原希子さんに対して「日本を愛していない」という言葉が使われるか。それはこの記事で取り上げたように、彼女のモデルとして撮影した写真のことかもしれませんし、黒川検事長の定年延長に関して反対の署名を提出したことかもしれません。
前者に関しては、確かに日本の伝統的文化を否定する、あるいは侮辱する意図が含まれているかもしれません。これに関して言えば、彼女が「一日本人」であることを自明の理としているのならば、いつか向き合わなければならないことであるのかなと思いますし、彼女以外の多くの日本人にとっては「問題」となり得ることなのではないかな、とも思います。
しかしながら、後者については国籍を問わずに誰もが訴えることができることで、しかも彼らが言うような「愛国心」、この国をよりよくするために起こそうとしたアクションであることは、疑いようがありません。政治に対して反対運動を起こすことに対して、「反日的」であるとレッテルを付けるのは、その人たちのレッテルに限らないからです。無論、黒川検事長の定年延長を問題化することが本当に日本にとって利になることかどうかは、誰にもそうであると認定することはできない訳ですが、少なくとも建前上においては、その人たちはそうすることが「日本にとっていいことである」という「愛国心」を持って行動を起こしている訳です。
そこに、たとえば「韓国人の血が混じっているから」だとか、ましてや「実は反日組織による陰謀が潜んでいるから」といった無茶苦茶な陰謀論を持ち出して否定するのは、あまりに野蛮過ぎるこじつけに過ぎません。一有権者として社会問題を中立的に捉えるのであれば、社会に起こるあらゆる平和的な非暴力の政治的行動をあたかも「非愛国的」な、国家に対するテロリズム的挑戦のように捉えてはならない、と考えるべきです。
その割には、この国にはそう考える人が一定数いるようで、先ほど述べたように、今回の水原希子さんの発言が炎上した経緯は、そうした「日本人による日本への批判的言論の封殺」「外国人による日本への批判的言論の封殺」に飛び火したに過ぎません。もう一度、「愛国心」とは何かということについて、みんながもう一度よく考える必要があると、私は思います。
そういう意味では、「何が問題なのか全く分かりません。」の言葉の通り、この問題を投げかけられているのは水原希子さん本人ではなく、「日本人に対して日本人であることを疑う」という摩訶不思議な疑心暗鬼に陥っている私たち自身でしょう。このメッセージは、我々に対しての投げかけでもあるのです。

最後に

SNSで行われる発信とは、殊にTwitterにおいては伝えられる文字数がたったの140字に過ぎず、感情的になるならないに関わらず、本当に伝えたいことが伝わりづらい、というケースが非常に多いです。そして、もっと残念なことに、リプライやリツイートをして拡散した人たちの考えや思惑が混じることで、もっと最悪な方向へ事態が急転することが少なくありません。『テラスハウス』の木村花さんへの誹謗中傷が、まさにそうした「SNSの闇」とも言える部分を最も悪い形で現実に反映させてしまった事件であることは、恐らくほとんどの人の記憶に新しいことであると思います。

今回の水原希子さんの炎上に関しても、思わず感情的になってツイートしたのではないかと思わざるを得ないほど(少なくとも理性的であれば、自分より遥かに影響力がない人のツイートを、恐らくエゴサーチで見つけたのでしょうが、大勢の前に晒し上げるようなことはしないと思います)、ツイートの内容を一度見ただけではその意図や目的が正確に把握しづらく、また引用された方のツイートも、一見見ただけでは文中で指していることが何のことなのか分からないという事態に陥ります。
これは、「気軽にありきたりの日常を140字でつぶやく」ことを本来の目的とされているTwitterの機能範囲を大幅に超過した「言論」を主張したいが為に、その意図が、メッセージが、正しく相手に伝わっていないからです。

私も、最初にこの炎上について何か考えを述べようとしたとき、Twitterのスレッド形式を使って書こうかと思いましたが、普段大学でモノを書いて発表しているように、言葉をひとつひとつ丁寧に使って文章にし、ひとつひとつの文章を論理的に組み立てて一つの「レポート」にする、この「書く」ということの最も根本的なプロセスが、やはり人に最も効果的に伝達する方法ではないかと認識し、こうしてnoteに執筆しているわけです。
果たして、この文章が正しく伝わっているかは、皆さんの判断に任されます。後半は若干疲れて来たので、雑になっている部分があるかもしれません。

最後に、本題からは逸れますが、皆さんもたまには、何でもかんでも「つぶやき」で終わらせるのではなく、自分の考えたこと、あるいはささいな日常の発見や感情の起伏でも、こうして文章という「カタチ」にしてみては如何でしょうか。










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