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あの日から一年。二人の関係性の変化を振り返り感じた、パートナーシップのこと。

一年前の今日、私はこんなnoteを書いた。

あの日からまもなく一年…となる11月の中頃、結婚式を挙げたレストランから1周年をお祝いするメールが届いた。

「あっという間だね」と尋ねる夫に対して、「え?そう?」と答える私。

引き続き仕事に邁進する夫に、日々のアップダウンについていくのにやっとで、どこか疲れている私。当時思い描いた一年後の姿に答え合わせをする時期、残念ながら私はかすりもせず、変わらぬ現実にせいせいしていた。

二人の関係性の変化に何か希望を見出したい。

だからこそ一年経った今、振り返ってみたい、とこのnoteを書き始めた。

実は結婚式の準備期間でさえも、チームになれなかった私たち。それぞれのこだわりに基づき分担をしつつ、私が全てを追い切る。しかし当日が近づくにつれて訪れる「締切」に関係なく仕事に精を出す夫に、いつしか私は「夫担当の提出物を追い切る係」になっていた。(もう時効だと思い明かしてみるが、この「締切」は悉く守ることができず、追い切る係としての存在感は皆無だった…)

残念ながら記憶がいい私には、未だにそれらのシーンもさまざま蘇らせてしまう。何度言っても微動だにしない夫に対して、こうも伝わらない人がいるのか…!と思った記憶も鮮明だ。(単純に優先順位が低いだけの話だが、それでも、である)

特別な日なんてなく、全てが「かけがえのない大切な一日」。

私がとりあえず、と思って花嫁美容に取り組む傍ら、夫は前日だけでなく当日朝ギリギリまで仕事をしていたほどだ。そんな、いつもの週末よりも少し多くの人と共に楽しい時間を過ごしたくらいの一日が終わってからは、これまでと変わらぬ日常に戻っていった私たち。

二人で過ごす分には、それぞれの邁進したいことに精を出せばいい。そう思ってきたこれまでの日々は、ある日突然終わりを迎えることになる。そう「犬がやってきた」のだ。

よく、ネガティブな感情を伴う変化だけでなく、幸せな変化にもストレスがかかる、ともいう。

二人での生活を始める時にも薄ら実感したこの謂れは、二人と一匹暮らしでも同様だった。しかも言葉も通じない存在は余計に、だ。しかも夫は出張が多く、一人と一匹暮らしが多くなることも十分に想像をしていたけれど、それ以上に「大変なこと」も存在した。

私の体調が万全ならいいのだが、そうでもないこともある。先日、身体の不調が続いた時、散歩にも行けなかったことで犬もどことなく荒れ気味。そんななか出張を楽しむ夫にあたってしまったのだが、こんな言葉が返ってきた。

「『一人の時に、寂しくないように犬がいてもいい』と言ってたよね…?」

体調が悪いのはまた別問題…だと思いつつ、確かに「言った」事実にぐうの音も出なかった。

その瞬間、ふと、これからの二人に対して求められていきそうだ、とあることを思ったのだ。

重ねる変化と共に折り合いをつけながら、その時の最適解を見つけること。

結婚記念日にはさまざまな呼び名がついている。一年目の「紙婚式」に続き、二年目は「藁婚式・綿婚式」というらしい。藁には馴染みがないからこそピンとこなかったが、「人の関係が藁や綿のようにもろいこと」を示しているらしい。

確かに、この一年のさまざまな変化や出来事のなかで「もう無理かも」と思うこともあった。諦めが悪く、こだわりの強い私だが、こと人間関係(他者との関係構築)においては真逆。いってしまえば、諦めや見切りをつけるのが早い。もちろんそんな私自身に常に嫌気がさし、克服したい、と心のどこかで願う私もいた。

そんな私を近くで、そして時に遠くから(時に放置されることもあるが、それも夫なりの距離感の取り方なのだとも思っている)、待っていてくれる人がいた一年間、「無理かも」と諦めるのではなく「向き合い続けること」の大切さを学んだようだ

結婚式ではチームになれなかった私たちだが、犬が来て、少しはチームになっている気がする。なんせ早起きな犬を対応する夫と、夜ご飯や散歩の対応をする私。それぞれがいないと成り立たない。(なので、夫が出張でいなくなる日の朝には、「ふーっ」と深呼吸をして、気合を入れる私がいる)

ちなみに私は犬を飼い始めてようやく、自分の苗字が変わったことを認識するようになった。仕事も旧姓のままがゆえ、意識することがなく、病院でも呼ばれたことに気づかなかったこともある。それでも犬は新姓のフルネームで呼ばれ、さらに私は「お母さん」と呼ばれる。

この犬が、私たちをまた新たな関係性にもたらしてくれたのだ。

周りから言われることもさまざまあるが、全て「私が選択したこと」であり、一ミリも後悔はない。隣の芝やこれまで見えていなかった世界を見た瞬間、「間違ってしまったかも」と思っても、判断基準を照らし合わせることで、間違っていなかったことを再認識するのだ(自分でいうのもなんだが、私はどこかのネジが外れてしまっているのかも)。

ちなみに、まもなくやってくる3年目は「革婚式」というらしい。「倦怠期を迎えることが多いからこそ、倦怠期を革のように粘り強く乗り越えよう」との意味が込められている、と。なるほど、と来たるべき時を想像しながら、「二人と一匹で革ジャンでも着て、写真を撮ってみようかな」なんて今だからこそそんなことを考えてしまう。

「二人の関係性の変化に何か希望を見出したい」

こんな思いからスタートした今回、最終的に希望にするのか否かは全て私達自身にかかっている気がした(もちろん二人だけでなく、その周辺からも影響し合うのだが)。まさに社会構成主義にも通じる話だが、二人が向き合うことでようやく関係性は紡がれていくし、未来への一歩も同様だ。

時に過去の自分にさよならを告げながら、前に進む。それは決して一人ではできず、誰かのサポートが必要だ。そのサポートしてくださる方はさまざまいるが、一番近くにいる人と共に歩めたらいいな、と。

また来年の今頃、どんなことを言っているのか楽しみにしながら、この一年間の振り返りを終わりたいと思う。

***Xもやってます***


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