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「フランスと私 ー遠藤周作と須賀敦子はフランスで何を経験したのか」


フランス留学の体験をモチーフにした遠藤周作の『留学』と須賀敦子の『ヴェネッツィアの宿』は、彼らのように実際フランスに留学生として来て、すでに20年もパリに住み着いた私にとって特別な書物となった。まるで私の気持ちを汲み取って書いているかのように思えたからだ。

もう一度これらの本を手にとって、私は2人の偉大な著者が、フランスで何を見て何を経験したのかを、2人のフランス留学での共通点と相違点に焦点をあてながらまとめてみようと思う。

2人の共通点と相違点

1.  バックグラウンド

遠藤周作は、戦後初のフランスへの留学生として1950-1953年に、ルーアン、リヨン、パリでフランスのカトリック文学を学ぶ。
研究テーマは、「フランソワ・モーリアックの作品における愛と吝嗇(りんしょく)」。

須賀敦子は、1953-1955年に政府援助留学生としてパリ大学文学部比較文学科で学ぶ。新しい女性の出現と新聞に報じられた。
研究テーマは、「レジスタンス運動から生まれた新しい神学を見出す」。フランス・モーリアックらのカトリック知識人グループのドミニコ会の学者司祭について。

*カトリック作家のフランソワ・モーリアックは、第二次世界大戦でレジスタンスとして活動する。1926年にアカデミー・フランセーズ賞を受賞し、1952年にノーベル文学賞を受賞している。

遠藤は12歳で、須賀は18歳で洗礼を受けている。
2人とも夙川教会にゆかりのあるカトリック作家。
2人は慶応義塾大学出身で、渡仏時に遠藤は仏文科に在籍、須賀は社会学研究科を中退していた。

2.  フランスでの苦悩と挫折

1) 言葉と文化の壁

まず最初にぶつかるのが、フランス語という外国語。須賀はこう語る。「はじめてのヨーロッパは、日本で予想していたよりずっときびしかった。言葉の壁はもちろん私を苦しめたが、それよりも根本的なのは、この国の人たちのものの考え方の文法のようなものへの手がかりがつかめないことだった。自分と同じくらいの年齢で、自分に似た知的な問題をかかえているフランス人との対話が、いや、対話だけでなく、出会いさえが、パリの自分にはまったく拒まれているように思えて、私はいらだっていた」。131頁

日本では仏語の成績もトップクラスだった優等生な彼女だけに、もしかすると初めての挫折なのではないだろうかと想像する。

遠藤は、フランス語の発音 「r」が上手く出来ず、よくからかわられたようだ。一部だがフランス人は今も昔も、聞き取れないと顔をしかめて"バカ扱い"することがあるので、留学生のほとんどが最初は落ち込み傷つくのである。


2) 夢と現実の相違への戸惑い

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須賀は当時のフランスに馴染めなかった。それは、インドシナ植民地戦争が尾を引いた暗鬱な雰囲気のフランスに違和感を覚えたのが、まず一つの原因であると見られる。
「戦後、10 年たっていたが、日本でもフランスでも、まだまだ、貧困からの解放ということが、社会の大きな課題だった」(133頁)と述べている。当時のフランスは、外国人を暖かく迎入れる余裕がなかったのだろうと想像する。

その上、日本がまだそれほど知られていなかった時代なだけに、日本人はインドシナ人や中国人、または黄色人と呼ばれた。また、フランスで出会う朝鮮・韓国人やベトナム人らに例えば、「眼鏡をかけると日本兵に見えるから外して」といった言葉も投げかけられたようだ。

遠藤は『留学』3部作で、夢を抱いて訪問したフランスへの愛情と違和感との間で身を裂かれる留学生3人を描いている。自身の体験をもとに、外国で留学生として暮らす現実と、留学という意味を正面から見据えようとしている。


3) 帰国のきっかけ

須賀は、フランスの硬直したアカデミズムに行きづまりを感じていた。これについて、「岩に爪を立てて登ろうとするのだが、爪が傷つくだけで、私はいつも同じところにいた」と描写している。198頁 
須賀は、「化石のようなアカデミズムにがんじがらめになって先が見えないままでいるよりは、もっと自然にちかい状態に自分を解き放ってみたい。あたらしい展開をとげるためには、強力な起爆剤が必要なようだった。イタリア語を勉強することによって、なにかが動くかもしれない」。199頁
このように1954年の夏休みをイタリアで過ごし、一度日本に帰国して3年後にイタリアへ旅立つ。

遠藤は、留学2年目で肺結核の病魔におそわれ、入退院を繰り返す。その間フランス人女性、フランソワーズと恋に落ち、プロポーズまでするが、病気が悪化したため結局日本に帰国する。彼女はパリで日本語を学び、遠藤を追って日本に渡り獨協大学などでフランス語を教える。遠藤は結婚し家庭をもち、フランソワーズは乳癌で41歳という短い生涯をとじる。

遠藤の日記にこう記されている。
「弱い性格と卑怯な心をもったけれども、やっとこのフランスで初めて自分が人間の幸福に仕える仕事を見出したのだ。生きたい」。(オヴニー・パリ新聞N°809「遠藤周作、リヨンの青春より抜粋)


3.  フランスで得たもの

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遠藤は、リヨンで人種や戦争責任など、人間の根源にかかわる問題に直にさらされて暮らしていくうちに、みずからの信仰するカトリックへの思い入れが強くなっていった。研究者としてではなく、作家として人生を歩もうと決意する。
すると、2日に一冊のペースで文学作品を丹念に解剖するように分析して読み込んでいく。

ノート参照 芥川賞受賞作品の『白い人』の下地となった。

遠藤の持ち前のユーモアのセンスは、フランスでさらに磨きがかかったに違いない。Fête (パーティー)によく顔を出し、縦横無尽にフランス社会に入り込んだ。フランスに来た理由を「親愛なる友人たちよ、実は日本でふたり人間を殺しましてね。警官に追われてここに隠れに来た。」と言ったりもして、いたずら心も発揮していた。

須賀は遠藤とは対象的で、自分たちの国や文化を世界の中心と自負する傾向があり、フランス語を正しく話さないとならない重圧を感じさせたフランスで挫折をしたが、そのおかげでイタリアに渡り、そこで自分の育ちたがっていた芽がやっと出て、才能を開花できたのではないだろうか。


遠藤にしろ、須賀にしろ、こうして甘くも苦い経験がなかったら、文学やエッセイといった人間的で優れた作品は生まれなかったに違いない。
月並みな言い方だが、フランス留学は彼らにとってかけがえのない経験となったと言えよう。

最後に『留学』から引用。(81頁)
「…巴里みたいだ。住みつく。時々イヤになる。そのくせ何処かに出かけると、むしょうに恋しくなる」。

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