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邪馬台国と倭国の卑弥呼 改訂:24/01/19

3ヶ月に一度の眼科健診に行ったあと書店に寄った。先日聴講したセミナーで講師が紹介していた本を入手するため、岩波文庫の書架を探していたが見当たらず。在庫切れのよう。そのとき背表紙が薄っぺらい本のタイトルがたまたま目に留まった。「魏志倭人伝」。この本は初見で買う予定はなかったのだが、手に取りレジに並んでいた。

魏志倭人伝については、これまで古代史関連の本やセミナーでしばしば見聞きしていたが、そういえば全文をじっくり読んだことはなかった。邪馬壱(台)国の所在地など諸説論争があり、九州説を聞けばそう思い、畿内説を読めばそうだなと思っている状態。自分で読めばどう解釈できるのだろうと思っていた。

書き下し文を読んでいると、なるほど、読み方によって色々解釈できそう。諸説ある謂れが分かったような気がする。
ただ読むだけでは、位置関係がよく分からないので、自分なりに読みとった通りに図を描いてみた。

図をざっくり見ると、女王国 = 倭国 でそこに卑弥呼が居る、そこから遠く離れた場所にかなり大きな規模で邪馬壱(台)国がありそう。

あくまで根拠のない推測だが、中国からの使者は、里程表現のある所は実際に行ったが、日数のみ表現されている所は実際には行かず、倭人から聞いた情報だけだったのではないか。
里の数値が切りのよい大雑把な数字であり、そもそも距離をどのように測ったのかという疑問もある。ひょっとしたら自分で歩いたり船に乗っていたところは、その時間や日数をもとにして感覚的な距離を示しただけのようにも思う。
そして、当時の倭人が今の日本語に近い言葉(発音)を使っていたとすれば、仮に倭人が「ヤマト」に相当する発音をしたときに、中国からの使者は正確に「yamato」と聞き取り、その音を表す漢字を当てることができたであろうか。聞き取れた音に「邪馬壱(台)」の文字を当てのかもしれない。

この 5月から毎週末聴講している市民講座「世界地図に描かれた日本」と「はじめての万葉集」で、へーっ、と思ったことが 2つある。

ひとつは、15世紀に朝鮮で描かれたという「混一疆理歴代国都之図」で、日本列島が九州を北にして90度右回転していたり、そうかと思えば写本によっては正しい向きで描かれたものがあるということ。15世紀ですら、中国や朝鮮では、日本列島が東向きなのか南向きなのか、正確には理解されていなかったのかも。

もうひとつは、万葉集巻十五 遣新羅使等の歌をテーマに講座が進められているのだが、その参考資料「遣新羅使旅程図」を見ると、8世紀当時でも、瀬戸内の各地に泊まりながら進む摂津から筑前までの船旅は一ヶ月程度かかっていたこと。魏志倭人伝が伝える 3世紀の頃からすると船の構造も進化(準構造船から構造船へ?)しているので、もちろん単純に比較はできないが、動力が人手の船ならば一日に進める距離(長くて30kmぐらい?)はそう大きくは変わらなかったかもしれない..

上記のことを踏まえて魏志倭人伝図をもう一度眺めてみると、卑弥呼の居た倭国(女王国)は北部九州のどこかに所在し、それとは別に、仮に東や南に拘らず時間的なことだけを考慮すると、邪馬壱(台)国は、瀬戸内もしくは日本海沿いに出雲や丹波を経由して、畿内方面のどこかに所在したのかもしれない。

即ち「邪馬壱(台)国の卑弥呼」ではなく両者は分けて考えて、卑弥呼は九州、邪馬壱(台)国は畿内のように考える方がよいように思う。

魏志倭人伝の書き下し文を読むだけでは何が正解かなのかよく分からないのが実際のところだが、逆にそれだからこそ色々空想ができて面白い読み物なのかもしれない。もう少し自分なりの解釈を楽しんでみよう^^

2023年6月23日参考追記:
上記市民講座「世界地図に描かれた日本」の講義で、16世紀後半に西洋で描かれた地図、オルテリウス地図帳で日本は次のように描かれていることを知った。

アジア新図
タタール図

西洋からすれば東の果てある日本列島のことは、大航海時代後でさえよく分かっていないのが実際のところのよう。
西洋と東アジアの視点の違いはあるが、地図という概念さえまだなかったかもしれない 3世紀の魏志倭人伝に、朝鮮半島から日本列島まで、あるいは日本列島内の旅程で記述された、方角や距離、日数は改めて興味深く感じる。
後世の地図に倭人伝の記述を当て推測、比定するのとは別に、倭人伝の記述から白紙の上に倭人伝図を復元してみるのも面白いかもしれない。

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