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『資本主義の家の管理人』~市場の時代を乗り越える希望のマネジメント③ 序章 市場の時代を生きる私たち 

序章 市場の時代を生きる私たち

土地を売る? もし土地を売るなら、なぜ大気や雲や大洋も売らないのか

(アメリカインディアンの英雄テカムセが、
「土地を売れ」と迫る将軍ウィリアム・ハリソンに言った言葉)

1.市場の時代とは何か

市場の語源はラテン語のフォルム(Forum)で、元々は「公共の広場」を意味する言葉でした。フォルムは、人々が集まり、物資や情報を交換し、経済と政治の両面で社会の目的を追求する場所でした。そこでは物資の交換に貨幣が使われ、知識や意見や情報の交換に言語が使われました。市場・貨幣・言語は、人々の交流を促進し、人間に高度な文明をもたらしました。

その後フォルムは、「公開討論場」を意味するフォーラム(Forum)と「商品取引所」を意味するマーケット(Market、市場)に分かれ、後者は経済という文脈の中でのみ使われるようになりました。しかし、マーケットとしての市場は、現代社会において経済を超えた価値を提供しようとしています。それは自由です。

自由には、生命・身体、思想・信条などに関わる自由と、政治参加や教育・医療などの豊かさに関わる自由があります。前者は束縛されない自由として「消極的自由(~からの自由)」、後者は自己実現の自由として「積極的自由(~への自由)」と呼ばれますが、両者は、建物の基礎と柱のように、束縛されない自由の上に自己実現の自由が立っているという関係にあります。

また、自由には個別的自由と全体的自由があります。生命・身体、思想・信条、政治参加、教育・医療、経済活動などはそれぞれ個別的自由であり、それらが集まって、全体としての人間の自由が成立します。

市場の時代は、こうした自由の関係が逆転した時代です。積極的自由が消極的自由に優先し、経済的自由という個別的自由が全体的自由に置き換えられるという、「柱が基礎になり部分が全体化する現象」が起きているのです。

物資の交換を通じて経済的豊かさを追求するマーケットとしての市場は、私的所有権と取引の自由という2つの自由を柱としています。積極的自由であり部分的自由であるこの2つを通じて人間の自由を実現しようとしているのが、私たちの生きている市場の時代です。

こうした認識を前提に、本書は、市場の時代が会社経営や私たちの働き方に与えている影響を考え、市場の時代の負の側面を是正するためにマネジメントが果たす役割を明らかしていきます。

この新しいマネジメントの視点を、本書では「希望のマネジメント」と呼び、その役割を担う経営者、マネージャー、マネジメントに関心を持つ人々を「資本主義の家の管理人」というメタファーで表現します。

本書は、経営の理論書ではなく、一人ひとりが希望のマネジメントを実践するための具体的なヒントやものの見方・考え方を提示することを目的としています。その背景にあるのは、私がこれまで企業人として感じてきた市場の時代への違和感であり、マネジメントの喪失が社会の歪みを生み出してきたことへの自省、そして良いマネジメントが良い会社を創り、良い会社が良い社会を創るという強い確信です。裏返しに言えば、それは、悪いマネジメントやマネジメントの不在は悪い会社を作り、悪い会社は悪い社会を作るという経験から得た実感でもあります。

2.市場の時代が加速した背景

市場の時代が加速したきっかけは、20世紀の最後の10年に起きた東西冷戦の終結です。東側諸国の社会主義体制が行き詰まり、長年抑え込まれていた人々の自由を求めるエネルギーが爆発したのが1989年11月のベルリンの壁の崩壊でした。

1992年に米国の政治学者フランシス・フクヤマが著したベストセラー『歴史の終わり』は、リベラルな民主主義が勝利し人類の歴史は最終段階に至った、冷戦の終結によって他者の認知を求めるという人類の歴史的な戦いは終わったと主張しました。当時30代半ばの商社マンとして香港に駐在していた私も、フクヤマの主張に結晶したあの時代の高揚感を今も鮮明に記憶しています。

国際政治の冷徹な現実を横に置けば、冷戦は、個人の自由か社会の平等かという、良き社会の理念を巡る対立でした。

民主主義国家は市場経済と私有財産制を通じて個人の自由を追求し、社会主義国家は計画経済と財産の共有と計画経済によって社会の平等を実現しようとしましたが、そのイデオロギーの衝突は、軍拡競争の行き詰まりという経済的現実によって終止符を打ちます。経済を豊かにするシステムとして、計画経済より市場経済の方が優れていることは誰の目にも明らかでした。

それから世界は一斉に市場の時代に突入します。グローバリゼーションとインターネットの登場が人、物、金の流れを加速させ、共産中国の指導者鄧小平が「黒い猫でも白い猫でも、ネズミを捕ってくるのが良い猫だ」と言って「社会主義市場経済」という奇妙な概念を打ち出したように、共産主義・社会主義の国も、宗教国家も、独裁国家も、皆が一斉に市場経済に参入し、経済成長を競い始めます。資本主義国に限らず、あらゆる国が「市場主義の国」になったのです。

冷戦が終わった30年前と比較すると、世界のGDPは5倍に増加し、貿易取引の規模は4倍に拡大しました。企業の活動も活発になり、世界の株式市場の時価総額は10倍に増加し、アップルやマイクロソフトなどの企業は、英国やフランスの国民が一年間働いた収入のすべてを充てても買えないほどに巨大化しました。世界最大の資産運用会社のブラックロックは、一社で日本のGDPの2年分の資金を運用しています。同時に、世界の貧困層は19億人から約7億人に減少し、マクロ的には市場経済の拡がりによって底辺の人々の生活向上も図られました。

その一方で、富の偏在と格差の拡大が著しく進みました。世界の上位1%の富裕層の収入は全体の2割、保有資産の額は全体の4割を占め、上位10%の収入は全体の5割強、保有資産は8割近くを占めています。これに対し、下位の5割の人々の収入は全体の8%、資産はわずか2%にとどまっています。

近年、米国のCEOと一般社員の年収の差は300倍程度と言われ、この30年で驚くほど広がりました。米国ほど極端ではないにせよ、欧州も日本も同様に、トップと一般社員の年収の差が著しく拡大しており、その主な要因のひとつが株価連動型報酬(ストックオプション)であるとされています。

富の偏りや格差がどの程度までであれば妥当かは人によって意見が分かれ、コンセンサスを見出すのは困難でしょう。冷戦時代の東側諸国の停滞で明らかなように、能力や努力、成果や貢献に明確な違いがある中で全員の報酬を一律にすれば、優秀な人ややる気のある人の意欲を削ぎ、結果として社会全体の活力を低下させます。しかし、現在の状況は、私たちが「上位1%の富裕層が全体の富の4割を保有すべきだ」とか、「下位50%の人々の富は全体の2%であるべきだ」と考えてそうなったのでしょうか。かつては50倍だった米国CEOと一般従業員の年収差は、「50倍が不適切であり300倍が妥当である」という社会的合意があってそうなってのでしょうか。

現在の極端な富の偏りや格差は、「結果として」そうなったに過ぎず、そこに人間の意思や判断、コンセンサスがあったわけではありません。

ここに今私たちが生きている時代を考える糸口があります。

もしCEOの報酬がすべて現金で支払われていたら、300倍の報酬を妥当だと考える人はどれだけいるでしょうか。本来、報酬額は何らかの妥当性があって決まるものですが、ストックオプションは付与の時点では金額が確定していません。300倍の報酬は単に「結果として」そうなったのであり、妥当性を判断するプロセスが欠けているのです。わずか1%の人々が40%の富を手にし、半分の人たちが2%の富しか持っていないことも、単に「結果として」そうなったのであり、そうあるべきだと考えてなったわけではない。誰かが意図したわけではないので、人間はその結果に従うしかない。こうして、人間が市場に従う社会が形成されていきました。

共産主義・社会主義の国も、宗教国家も、独裁国家も、程度の差はあれ中央集権的な統制によって、市場を利用しながら経済成長を目指しています。そして、富の偏在や格差の拡大を放置する民主主義の国も、「市場に従う」という点では一様に市場主義国家の一員なのです。

3.商品にしてはならないもの

問われるのは、商品にして良いものは何で、してはいけないものは何か、という線の引き方です。商品とは、誰かに所有されており、値付けされ売買されるものです。

経済を成長させるには、取引される商品の数を増やす必要があります。ソーシャルメディアのフォロワー数やオンライン広告のクリック数、ブログやYouTubeの閲覧数、購入履歴や閲覧情報などの個人情報。これらはインターネットの登場によって生まれた新しい商品です。物資の交換の道具だったお金(貨幣)が、株式、債券、投資信託、先物、オプション、不動産証券化など、様々な金融商品に姿を変えて取引されているのも商品化の一例です。

一方、かつては奴隷という商品だった人間は、今では商品にすることはできません。子ども、女性、命、健康、ノーベル賞やオリンピックの金メダル。これらも商品にしてはならないものです。市場は人間であれ、自然であれ、金メダルであれ、何でも商品にして売買することができますが、人間の倫理的な判断が「商品」と「商品にしてはならないもの」の境界を決めるのです。

冒頭のアメリカインディアンの英雄テカムセの言葉は、白人植民者の市場主義に対する強烈なアンチテーゼでした。白人植民者にとって土地は人間に所有され売買される商品でしたが、アメリカインディアンにとっては人間が勝手に商品にすることなど許されない神聖なものでした。テカムセの言った大気も今ではCO2の排出権というという形で商品になり、雲や大洋もやがてそうなる(すでになっている)かもしれません。所有権の拡大が人間を自由にするという考えは、自然という共有財産をも商品にし、地球環境に深刻な影響を及ぼしています。

手に入れるものが増えれば豊かになり、自由になるという考えは、競争を奨励し、より多く手に入れた者が勝者であるという価値観をもたらしました。市場は個人の自由競争を建前としているので、そこで勝つか負けるかは個人の能力次第であるという、能力主義の思想も広がりました。

市場で能力を証明することが求められる社会は、企業の不正や不祥事、他者へのハラスメントを誘発します。働く人々の間に広がる心の病も、その背景には連帯感の喪失や、競争を迫る能力主義・成果主義への忌避があります。

市場の時代は、利得や効用の計算を市場に委ね、市場の結果を受入れて生きる時代でもあります。しかし、人間の集団の繁栄を持続させるのは市場原理ではなく、人間としてのバランスの取れた価値判断です。ここに市場の時代のマネジメントの役割があります。マネジメントは、良いことと悪いことを見極め、人間の誇りを守り、価値を持続させる仕事なのです。

4.個人的な体験

私は長年総合商社に籍を置き、ビジネスの現場で働いてきました。

大企業と違う世界を経験したくて、定年前に社員100名ほどの非上場企業に転職しました。そこで役員として3年ほど経営に携わった後、二人だけの小さな会社を立ち上げ、「強く、美しい会社を創る」というテーマを追いながら、ベンチャー企業や第二創業期の企業の組織制度の構築やマネジメント支援の活動を続けています。

本書の内容に温もりを感じて頂くために、私自身の個人的体験のいくつかを時系列的に振り返ってみたいと思います。

大学を出て会社で働き始めて10年ほど経った頃、日本はバブル景気に突入しました。パリのシャンゼリゼの高級ブティックに日本人旅行者が列をなし、大手の不動産会社がアメリカの富の象徴であったニューヨークのロックフェラーセンターを購入するなど、ジャパンマネーが世界を席巻します。

当時労働組合の委員長をしていた私は、1ドル360円時代の海外給与制度の抜本的見直しを迫られ、連日徹夜に近い状態で会社と協議を重ねていました。バブルの到来で、日本の戦後社会の構造は大きな転換を迫られていました。

労働組合専従が明けて香港に赴任した1989年は、天安門事件とベルリンの壁の崩壊が起きた年でした。自由を求めて世界が大きく動き始めたこの時代の導火線となったのは、1980年代初頭に登場したマーガレット・サッチャーとロナルド・レーガンの新自由主義の思想でした。

当時まだ英国の植民地だった香港は、資本主義と市場経済の実験場でした。山頂近くの豪邸に住む富裕層と下界の密集地で湿った狭苦しいアパートに家族や親せきがひしめいて暮らす貧困層の生活が鮮烈なコントラストをなし、中間層の労働者は1ドルでも高い給与を求めて目まぐるしく転職を繰り返していました。私の会社でも、その日入社した社員が午後には転職していたという珍事もありました。

1990年代の香港は、中国の改革開放政策を追い風に右肩上がりの成長を続けましたが、香港を中心としたアジア圏のバブル景気は、1997年の香港返還の直後を襲った通貨危機で一気に底抜けします。

90年代の後半、買収した縫製工場に社長として出向していた私は、シーソーゲームのような景気の変動と家賃・人件費の高騰で膨れ上がる赤字に耐えきれず、やむなく社員を全員解雇し、工場のシャッターを下ろして失意のうちに帰国しました。

世紀を跨ぐ前後の20年は、アメリカが世界の一強の地歩を固めた時代でした。グローバリゼーションと情報通信技術の発展、金融経済の拡大がその流れを加速させ、日本企業の間でもLT(物流技術)・IT(情報技術)・FT(金融技術)という言葉が流行します。

バブル崩壊後の低迷が続く中、変化に遅れまいと必死の日本企業に新たな課題が課せられます。資本効率の改善、株価の向上、株主への還元です。M&Aや自社株買いを迫る海外投資家の声が高まり、経営者の意識は株主第一主義に傾斜していきます。

金融経済の拡大を背景に、私も自分の所属する繊維部門に今で言うCVC(コーポレートベンチャーキャピタル)のような投資専門チームを立ち上げます。足で稼ぐビジネスから金融で稼ぐビジネスへ。2001年のことでした。

この年、アメリカではITバブルが弾け、9・11の同時多発テロが世界を震撼させます。複雑な金融技術を駆使して時代の寵児ともてはやされた新興エネルギー企業のエンロンが、決算の不正操作で破綻したのもこの年でした。錬金術的な経済の金融化と、富と権力のアメリカへの一極集中に対する途上国の不信と憎悪。社会の大きな歪が顕在化していきます。

一時的な停滞をはさみながらも経済の金融化と情報化は互いに作用しあって一段と加速し、2008年のリーマンショックを迎えます。破綻のきっかけとなった複雑な金融商品のサブプライム・ローンについて、その仕組みや影響を正確に理解している人は、商品を取り扱う当事者も含め、ほとんどいませんでした。リーマンショックで世界の株式市場は4割ほど急落し、GDPはマイナス成長を記録します。

現地法人の社長としてミラノに赴任していた私は、出張先のロンドンで夕暮れの金融街シティを歩いていると、通りすがりの男性にお金をくれとせがまれます。薄汚れたスーツ姿の40歳前後のその男性は、私が財布から5ポンドを取り出して渡すと、小さな低い声でサンキューと言い、すぐにその場を立ち去っていきました。

日本企業も危機対応モードを高めます。海外拠点では事務所や社宅を売却し、家族の帯同費や住居費などコストのかさむ日本人駐在員を帰国させるなどのリストラが進みます。

私のいたイタリアの現地法人でも、拠点の閉鎖や縮小のうわさが飛び交い、後任もないまま次々と帰国する日本人駐在員の様子に、現地職員たちが不安を抱き始めます。そんな彼らに私はこう伝えました。「これまで私たちは日本だけを見てビジネスをしていた。だから日本人マネージャーが必要だった。これからはイタリアを起点にビジネスを作る。だから日本人よりもイタリア人が必要なんだ」。

経理、人事、営業など4つの部署に新たにイタリア人マネージャーを登用すると、彼らは互いに連携し、部署をまとめ、新しいビジネスを作り、店全体の視点からマネジメントを遂行してくれました。リーマンショック後の苦境も何とか黒字で乗り切り、内部監査では「現地職員の士気が高く、他店の範となる優れたガバナンスが行われている」と異例の報告がされるほど、職員たちの努力で気持ちの良い職場が形成されました。

金融化したグローバル経済の怖さとともに、人間の潜在力、人と組織のマネジメントの重要性を実感したイタリアの4年間でした。

帰国して数年後、知人の誘いで社員100名ほどの非上場企業に転職します。元々定年まで会社に残る考えはなく、50歳を越えたら次の仕事を探したいと考えていた私にとって、転職は既定路線でした。大企業と違う手触り感のある会社で働いてみたいという希望もありました。

5.事業と経営

小さな会社は、素早い判断が下せる反面、トップに権限が集中し、プロセス不在で朝令暮改の意思決定が繰り返され、社員の不信や疑心暗鬼で組織が硬直化する問題がありました。いわゆる人治主義の弊害です。

大企業は逆に、ルールやプロセスが柔軟性を失わせ、組織の活力を低下させるという欠点がありました。どんな組織にも必ずルールでカバーしきれない部分があり、その隙間を埋めるのが人間の判断です。社会の秩序と柔軟性を維持するには人間の判断が不可欠であり、その判断を機能させるために必要なのが公正さを担保する倫理や人格です。

市場は、この倫理や人格という物差しを持っていません。

事業と経営の本質的な違いがここにあることに気づいたのが、小さな企業の経営に関わった3年間でしたが、その後、数々のベンチャー企業や中小企業の人と組織の構築に関わる中で感じたのが、市場の論理に囚われた経営者たちの思考回路でした。

生きること、働くこと、協力すること、持続させること。人と組織のマネジメントはこうした要素が不可分につながっており、そのつながりが社会を形成しています。そして、人間は社会的動物であり、社会なくして豊かな人生を送ることはできません。

良きマネジメントの実践が人間社会にとっていかに重要か。本書を読んでそのことを感じて頂けたら幸いです。

それでは、一緒に希望のマネジメントの世界をのぞいてみることにしましょう。



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