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他者を介さない形で得ることができる充実感を私は探していた。

私が生まれてから今、約30年という月日が目の前を流れている。
それだけ生きていると、否が応でも、自分が何をしているときに「楽しい。」とか「今、幸せ。」みたいな充実した感情に浸ることができるのか、だいぶわかってくるように思う。
私の場合、その答えはシンプルで、「おいしいごはんを食べること。」「誰かとおしゃべりして同じ時間を過ごすこと。」この2つをしているときが、一番楽しくて、幸せを感じる瞬間だなと、物心ついたころから自覚していた。

さらに言えば、1つ目に挙げた「おいしいごはんを食べること。」も、よくよく深く考察してみれば、「おいしいごはんを、楽しく誰かと一緒に食べること。」に、私は一番充実感を得ることができるわけで、何度かそれを経験しているうちに、どんなに1人でおいしいと言われる話題のグルメを食べていても、「あぁ、1人か。」とつぶやいてしまって、せっかくのおいしさが半減してしまう。みたいなことがあって、結局のところ、私の人生の充実感って、他者を介さないと成立しないのではないかという結論に陥ったときに、何度もため息をついてきた人生だったなと思う。

他者を介さないと現れない、私の人生の充実感というものはいつだって危うかった。まず、誰かに会わないといけないというスタートの時点で、自分の都合だけではどうにもならないことだから。

学生時代はまだよかったように思う。誰だってそれなりに時間にゆとりがあったから、自分の都合に合わせて、誰かに会おうとしたときに、会える可能性がほぼ100%といっても過言ではないくらいに高かった。

けれど、社会人になって大人になるとそれがどんどん変化してくる。
そんなに簡単に人に会える可能性は、どんどんと各々の都合によって低くなっていた。

「このままではやばい。」

そう思って、まず私は目の前に自分の生活を大きく支配している「仕事」という存在から、充実感を得ようと奮闘してみたことがある。私は、3回も転職して、すべて異なる職種にしてみて、そのどれもで一生懸命、残業や休日出勤さえこなしながら、その充実感というものを探してみた。
もちろん、まったく充実感を得れなかったといったら噓になるくらい、楽しいと思える瞬間はたくさんあったし、「仕事」をすることは面白かったし、幸せを感じることだって多々あった。
けれどそれは「仕事」という概念そのものというより、それを通じて出会った仲間との共同作業みたいなところへの充実感がほとんどで、たとえば、ある大きなプロジェクトがひと段落して、みんなで居酒屋でおいしくビールを乾杯した瞬間とか、すごく難しい仕事を、お互いの長所を生かして、あうんの呼吸で、気の合う仕事仲間と一緒にその難しい仕事を乗り越えた瞬間とか、そういうものに対して私は充実感を感じていたわけで、結局のところそれも人間関係で、むしろ他者を介する形でしか得られない充実感だと、「仕事」そのものより、職場の人間関係について悩んでしまっていたときにその事実に気づいて、結局人間関係しか残らなかったと、あっけなく、とてつもない空虚感に浸ってしまって、その奮闘は意味がなかったとため息をついた。

「仕事」じゃだめなら、次は「プライベート」だ。
そう思ったときすでに、世の中はSNSブームで、インターネット上には、仕事以外の時間を、さまざまな形の趣味で楽しんでいる人たちの姿をたくさんみることができたので、私はとりあえず、その人たちの真似をして、さまざまな趣味を試してみた。
料理、家庭菜園、手芸などなど、手につけた趣味は数知れない。
けれど、結果としていきつく先は、最終的に他者だった。
料理だってそう。おいしい料理をつくったとして、それを1人で食べているだけではどう考えても充実感を得ることはできなかった。
おいしく作った料理を、誰かと一緒に食べたくなる。
家庭菜園だってそう。おいしく育ててできた野菜を誰かと一緒に共有したくなる。
手芸だってそう。自分が何かを作りたいという願望よりは、誰かのために作ることに充実感を得ることができるわけで、、、。と気づいたときには、その趣味に費やす時間はなくなっていて、結局他者を介することでしか成立しない趣味に、私はまた、ため息をついた。

という感じでいろいろ空振りをしながら、たくさんのため息をつきながら生きてきて、つい最近私はnoteを「書く」ということをはじめた。

とにかく何でもいい。つらつらと頭に浮かんだことを「書く」

エッセイや、最近は小説にもチャレンジしてみた。

「書く」ことは難しい。
頭には、ある程度こう書きたいという事象や言葉が浮かんでいるのに
それらをどう組み立てて、どう結論付けて、どうタイトルをつけて、それにはどの言葉を選んで、、、。みたいなことを考えているとあっという間に日が暮れる。
きちんと頭を働かせていないと、よくわからない文章や、言葉選びになっていたりするので、その度に落ち込むことも多い。

けれど、その中でも書きたいことがうまく書けたり、そしてそれを読んでくれる読者さんにも伝えたいことが伝わったりすると、とてつもなくうれしいし、楽しい。(読者のみなさま、いつも感謝合掌です。)

そして、「書く」ということを自分自身がしていると、改めて、世の中でそれを仕事にして、人の心を震わせて、人を感動させて、人を救うことができるような書き手の方たちの文章って本当にすごいのだと心から気づかされる。

だから、私自身も、自分の文章をさらに磨きたくて、また、たくさんの文章を、たくさんの本を私は「読む」
自分が書きはじめてからというもの、私の読書量は圧倒的に増えた。
「読む」ことで、またいろんな気づきを経て、自分の文章を顧みて、また私は「書く」

そんな毎日が、意外と充実していて、例えば、仕事で落ち込むようなことがあっても、そこまでへこたれなくなったし、休みの日の予定に悩むようなこともなくなった。
だって、書いて、読んでるから。

この間ふと、仕事のお客さんに、「休日は何してるの?」と聞かれて、今までは、本当に答えに困っていたのだけれど、そのときは本当に自信もって「読書して、書いてますね。」みたいなことを堂々と言ったら、だいぶ引かれていた感じはしたけれど、別にそんなこと気にしない。ルンルン。という感じの気分だった。

そんなループがここ数か月続いていて、今私は思う。
たぶん、これが私の探していたものなのかもしれないと。

「書く」こと、そして「読む」ことは、他者を必要としない。
自分が書きたいときに書けばいいし、読みたいときに読めばいい。

そこに他者の予定を確認して、自分の都合を合わせる必要もなければ、なんといっても素晴らしいのは、そこにコストがほとんどかからない。

「書く」ことはタダだし、「読む」ことも無料で読める文章なんて、今の世の中溢れるほどあるし、本だって、図書館で借りればタダで、買うとしても古本屋に行けば、コンビニでお菓子を買うくらいのノリで簡単に手に入れることができるので、本当に手軽だ。
その手軽さも、自分自身に合っていたのだと思う。

私は今日も書いている。
もちろん、その「書く」行為の先に、読み手がいればいいななんて他者の存在を願わないといったら嘘になるけれど、そこに読者がいようといなかろうと、「書く」ということで自分の思考を整理したり、自分が生きてきた記録を残すことは、自分の幸せを形にしている気持ちがしてきて、私はそこから大きな充実感を得ることができている。

私は今日も読んでいる。
「書く」ということを前提とした、読書はとても面白い。と思う。
もちろん、「書く」前から、読書はそれなりにしていた方だと思っていたけれど、自分が「書く」ということを前提にすると、その行為に深みが増す。
この書き手は、何を伝えたくて、この文章を書いているのだろう、とか、この言葉選びをすることで、とても伝わりやすい文章になっている、とか、文章そのものに感動することもあれば、その書き手がどんな背景をもとにこの文章を書こうとしているのか、みたいなことに思考を巡らして、まるでその書き手の人生が、すぐそばにあるような感覚に、楽しさと面白さを感じて、私はまた、大きな充実感を得ることができている。

私の探していたものは、これだったのかもしれないと
今日も書いて、読む。

飽き性の私のことだから、いつまで続くかはわからない。
けれど、他者を介さない形で、自分の中から自然に湧き上がってくるこの楽しさと、面白さと、幸せの形をした充実感に、しばらくの間浸っていようと思っている今日この頃である。

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