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悪人

「お前、面倒くさい」
「面倒くさいから、浮気したの?」
「そういう返答が面倒くさいんだよ」
 つい昨夜まで恋人だった男は、捨て台詞を吐いて部屋を出ていった。荒い足音を立てるでもなく、怒鳴り散らすでも物に当たるでもなく。当たり前みたいに、この部屋からいなくなった。

 彼の気持ちが冷めていくのを、毎日ただじっと見ていた。どうでもよかったからじゃない。どうしたらいいのかわからなかったからだ。引き留めたいと思ったし、気持ちが再びこちらに向いてくれるのを心から望んでいた。でもそのためにどうしたらいいのかが、絶望的にわからなかった。


「欲しいなら欲しいって言いなさい」
 子どもの時分、母親によくそう言われた。でも、私はそれができない子どもだった。
 一度だけ思い切って言ったことがある。
「お母さん、これ欲しい」
 それに対して、母は疲れ果てた声でこう答えた。
「ワガママ言わないで」
 欲しいものを「欲しい」と言うのは、ワガママなのだと知った。それ以来私は二度と、誰にも何も求めなくなった。

 極端なのだと思う。一度言われたら決して忘れないし、同じ理由で叱られないように必死になる。それだって、たった一度の母の言葉が原因だった。
「同じことを言わせないで。同じことを言わせるってことは、反省していないってことでしょう。そんな子、お母さん要らないわ」
 不仲な夫との生活に疲れていた母が思わず溢した一言。それを真に受けた私は、同じ理由で二度怒らせてしまったら捨てられると本気で思っていた。


「なんでそんなに言葉通りに捉えるの?」
 みんながそう言って私から顔を背ける。その顔は一様に疲れていて、自分は周りと違うのだと否が応でも気付かされる。
 上手くやるために誰かの真似をしたのだって、一度や二度ではない。でもそれらはいつだって空回りで、みんなと同じようにできない自分をどんどん嫌いになっていった。


「お一人ですか?」
 いつもなら聞こえないふりをしてやり過ごす軽薄な声。だが今夜の私は、何もかもがどうでもよかった。あらゆる物事に投げやりになり、自分の存在が泡のように消えてしまえばいいとさえ思っていた。
「一人です」
「お隣いいですか?」
「どうぞ」
 ひょろりと背の高い、人の好さそうな男だった。その人は柔らかそうな物腰と手つきで、お酒のお替りをごちそうしてくれた。ジントニックの爽やかな香りが鼻腔をくすぐる。思わずこぼれた笑みを慌てて引っ込めると、隣の肩が微かに揺れた。
「もっと力を抜いて大丈夫ですよ。取って食おうなんて思ってないから」
 そう言って、男性はブラックルシアンをゆっくりと口に含んだ。その一言に、私は小さく落胆した。
 そうか、此処でお酒を飲んでおしまいか。
 その後のあれこれを勝手に想像して、拒む必要などないのだと流れに身を任せるよう自身に言い聞かせていたさっきまでの自分が、酷く滑稽に思えた。
「そうですよね。会ってすぐの女とそういうことをする気にはなれないですよね」
 言葉にした途端、居たたまれなくなった。鞄を手に取り、上着をぎゅっと握りしめる。
「帰ります」
 そう言って立ち上がった私を見て、彼は慌てたように言葉を付け足した。
「いや、あの、もちろん貴女が嫌じゃないのなら……」
 強引にもなりきれない、かと言って紳士のままでもいられない。中途半端なこの男の情けない様を、好ましいと思った。
 上手くできないくせに、上手くやろうとして失敗する。失敗した大人は、何故か皆笑う。泣きたい気持ちを堪えると苦笑いになるように人間を創った神様は、酷く意地悪だと思う。

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