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私の文章が必要ない世界のほうが、きっと正しい。

昔から大好きなアーティストがいる。
Coccoというその人は、歌だけに留まらず演技や絵画、絵本など幅広く創作活動を行っている。

先日、そんな彼女の記事を読んだ。そこに書かれていた一文に、心が釘付けになった。

怒鳴っても人は話を聞かない。きれいな声で歌ったら人は聞いてくれる。それで私はいつも、きれいな声で歌おうって思う。


むごい現実をむごいままに語る。そういう語り部も必要だ。「受け止められない」と感じるのは、他人だからだ。話を聞くだけでも耳を塞ぎたくなる苦しみを、日常としていた人たちがいた。それは過去だけではなく、今現在も続いている。当事者たちは、「受け止められない」現実を強制的に押し付けられてきた。今も昔も、見ないふりをしていれば楽なのは部外者だけだ。

日本は今は戦時中ではない。しかし他の国に目を向ければ、戦や飢えで多くの命が毎日当たり前のように奪われている。肌の色が違うだけで理不尽に殺され、思想の違いでリンチを受け、貧富の違いで命を落とす。日本国内でもそれによく似た差別や偏見、貧困、虐待、いじめなどによる死者が絶えない。

父親に腹を蹴り飛ばされて吐き出した胃の内容物を「食べろ」と言われたとき、私はそれを「受け止められた」わけじゃない。それが私のリアルで、それが私の日常だっただけだ。選択の余地などなかった。


こういう書き方をして読んでくれる人は、正直あまり多くない。人は誰しも、温かいものの傍にいたい。痛みを感じるより、安らぎを感じていたい。それは一種の生存本能であり、自己防衛本能によるものだ。私自身、そういう感情は人並みに持ち合わせている。以前も他の記事で書いたことがある。

虐待されて地獄を見てきた私でさえ、すべてを直視することなんてできない。

自身の体調や精神状態によって、痛みやむごさを取り入れることのできる許容量は変わる。読んだものが映像で見えてしまう私は、流れる赤い血も腫れあがった皮膚の浅黒さも、容易に脳内スクリーンに映し出してしまう。他者のそういう経験を「知る」ということは、どうしたって痛みを伴う。そこから逃げたくなるのは人の性であり、誰にも責められるものではない。


記事の全文を読んでもらえばわかると思うが、Coccoはむごいものをむごいままに伝えることをすべて一貫して”怒鳴る”と表現しているわけではない。祖母が「忘れなさい」と言った内容を自身が伝えていくのだと決めたとき、彼女は必死に考えたのだろう。そして、祖父の姿からヒントを得て彼女なりの伝え方を見つけた。それが、きれいな声でうたう、という表現方法だったのだろう。

そのほうが耳を傾けてもらえる。多くの人に聴いてもらえる。多くの人に伝われば、何かが変わる。事実を無理に捻じ曲げてきれいなものにする必要はない。むごいものはむごいままでいい。ただ、伝え方を考える。声の色を工夫する。表現は幾通りもある。


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