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【私は私を幸せにする】

碧月はる

旦那と入籍をして、今年で13年目を迎える。5年ほど付き合って結婚したので、トータル18年も一緒にいる。私が実家で過ごした年数を越すくらい一緒にいたんだなぁ、と感慨深くもある。

当たり前だが、好きで結婚した。愛し合ったうえで一緒になった。おそらく旦那の側も、そのときの気持ちに偽りはなかっただろうと思う。

どこですれ違ったのか、思い返せば行き当たるのは、やはり妊娠がきっかけだった。入院するほど酷い悪阻になったとき、私は家事が全く出来なくなった。その頃から、彼の不満が少しづつ積み重なっていった。そんな姿を見るたびに、私の側の不満も積み重なっていった。

誰の子を妊娠していると思っているんだろう。

ずっとそう思っていた。好きで重い悪阻に苦しんでいるわけでもないのに、何故この人は不機嫌そうに文句ばかり言うのだろう。「あれをしてくれない、これをしてくれない、俺だって疲れているのに」と。単純に不思議だった。一人暮らしが長かった私は、どんなに仕事が激務であろうとも誰かに洗濯をしてもらったこともなければ、ご飯を作ってもらったこともなかった。自分のことは自分でやった。それが生きるということだと思っていた。旦那の言う「してくれない」を、ふらふらになりながらこなす。一口も食べられないカレーを吐きながら作っても、「実家のカレーの方が旨い」と言われる。

結婚したら、その”生きる”を支え合うのだと思っていた。でも現実は違った。ときめきや愛情を生活が侵食していく。お互いに感情をぶつけ合う。すれ違う。「家族をつくる」ということは、きらきらしたもので出来ているわけではないのだと気付いた。幸せな時間もちゃんとあったはずなのに、それらが灰色に塗り替えられていく。その過程を見るのが、哀しかった。


私にも悪いところはある。言いたいことを我慢し過ぎて爆発してしまったり、話すのがあまり上手じゃなくて苛立たせたり、家事を効率良くこなせないときもたくさんあった。

旦那は息子たちの父親で、息子たちは父親が大好きで。だから自分さえ我慢していれば波風は立たないのだと思っていた。そのくせ我慢しきれなくて、ストレスで身体を壊してはあちこちが痛いと泣いていた。

蕁麻疹が出たり、胃潰瘍になったり、血便が出たり、帯状疱疹になったり、不定期に謎の高熱を出したり、パニック発作を起こしたりしていた。それでも「仕方ない」と思っていた。私が敏感過ぎるのがいけないのだと思っていた。

長男が幼稚園の頃、授かったばかりの命を失ったことがあった。流産による出血で貧血を起こして台所で倒れ込んだ私に、彼は舌打ちをした。

「こんなとこで倒れんなよ。面倒くせぇな」

この頃にはもう、おそらく私は愛されていなかった。


されたこと、言われたこと、哀しかったこと、悔しかったこと、そういうのが降り積もる度に、離婚が頭を過った。そしてほぼ同時に息子たちの顔が浮かんだ。子どもの頃、「あんたたちのせいで離婚できない」と叫んでいた母の顔。あの顔が嫌いだった。あの台詞が嫌いだった。それなのに、その呪縛はしつこく私のなかに残り続けていた。

離婚したら可哀想。
再婚家庭の子どもはグレる。
片親じゃまともには育たない。

バカバカしい決めつけは、バカバカしいほどに勢いよく語られる。息子の同級生のママたちの中にも、こういうものを当然のように信じている人たちは未だにたくさんいる。

そんな人にどう思われるかなんてどうでもいいはずなのに、私は自身が離婚したら同じように話のタネにされるのだろうと怯えていた。偏見に腹を立てながら、偏見に晒されることが怖かった。


離婚したいと言ったとき、「それは逃げだ」と母に言われた。結婚式のご祝儀代を返せと言われた。

そんな親から逃げて逃げてここまで来たはずだったのに、旦那から逃げたいと願う私の足を必死に掴んでくるのは、どこまでも親だった。

「俺が外で性犯罪とかしたら困るでしょ?だったらそうならないように、ちゃんと相手してよ」

かつて愛した人からそう言われてことに及ぶとき、私の心はいつも静かに冷えていた。怒りとか、悲しみとか、そういうものは遥か彼方に消え去っていく。感情が薄くなる。その感覚は、父親に不定期に上に乗られるときの感覚によく似ていた。


粗末にされることに慣れてしまうと、それが日常になる。

”昔に比べれば”

そう思うと大抵のことは我慢できたし乗り越えられた。それを私は強みだと思っていた。でも、それは私の弱みでもあった。

本来なら我慢すべきではないものさえも我慢してしまう。”このくらい”と私が思っていた出来事は、客観的に見ると”許してはいけないもの”だった。精神科の医師に「旦那さんのそれらはDVに当たる」と明言されたときでさえ、「そうなんだ」と思っただけだった。危機感なんてまるでなかった。私のリトマス試験紙は、子ども時代の原体験より辛いか辛くないかでしか反応を示さなかった。


先日、旦那にとても嫌なことをされた。ここに書く覚悟がまだ持てないくらい、嫌なことをされた。翌日、私は家を出た。行く場所もなく、その足は自然と本屋に向かっていた。読みたいと思っていた本があった。平積みになっていたそれはあっさりと見つかり、すぐに購入して読み始めた。

「なんで僕に聞くんだろう。」幡野広志著作

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cakesで連載されている幡野さんの記事を、今までも何度か読んでいた。その度に心に残るものがあり、書籍化されたのを知ったときから絶対に読みたいと思っていた。


一つ目の相談への回答文を読んで、涙が出た。

配偶者って、自分が選べるゆいいつの家族です。親きょうだいも親戚のおっさんも選ぶことはできないけど、自分の夫や妻は選べるんです。家族選びに失敗したら、かえりゃいいんです。

幼い頃から、ずっと願っていたことがあった。

「温かい家族が欲しい」

自分の家庭を持てば、それが叶うと思っていた。そう思いたかった。


「用済みだからあっち行って」

旦那にそれを言われた私は下着すら身に着けておらず、裸のままだった。呆然とその台詞を聞きながら、3テンポくらい遅れて涙を流したのは、もう10年以上前の話だ。長男が0歳の頃のことだった。その一言だけで、本来なら十分離婚理由になるはずだった。「子どもがいるんだから」と我慢していたつもりだった。本音は、怖かっただけだ。家を飛び出して結婚するまでの数年間、経済的に困窮する生活が続いていた。中卒で学もない。仕事のキャリアもない。資格もない。貧困は、精神を蝕む。お金がなければ納豆も味噌も買えない。電気も止められるし、医療にかかりたくともそれすら叶わない。一人ならまだしも、子どもたちにあんな思いはさせたくなかった。その状況を、”私自身が”見たくなかった。


目を瞑り続けてきた期間のなかで、彼が変わってくれることはなかった。離婚を取りやめたときに交わした約束は何一つ守られることなく、そんな彼を私も随分と前から愛せなくなっていた。メッキのような結婚生活のなかで、「子どもの為だ」と念仏のように唱える自分がいた。

離婚=子どもが可哀想

この根拠のないバカバカしい方程式に誰よりも縛られていたのは、私自身だった。

離婚しても、私と息子たちは家族だ。旦那とは家族をやめるけど、旦那と息子たちだって家族だ。二人で育てていくことはこれからも変わらない。幸いにも旦那は息子たちには愛情を注いでくれている。その愛情を息子たちも真っ直ぐ受け取っているし、お互いの信頼関係も構築されている。息子たちは、私への不満は旦那に相談する。旦那への不満は私に相談する。毎日お日さまみたいに笑ったり、人のことで自分ごとのように泣いたり怒ったりしている。それで充分だと私は思っている。

父親としての彼は信頼している。旦那としての彼は、最低だ。

その二つを無理に結び付けようとしていたからややこしかったのだと、ようやく気付いた。


家に帰ろうとすると動悸がする。発作が起こる。それを友人に話したら、その人はこう言ってくれた。

もう、はるさんの帰る場所はそこじゃないんだね。
はるさんは母親のまえにはるさん、だよ。母親として、とか、妻として、とか、肩書きを捨てて、自分の気持ちを最優先させてあげていいんだよ。

真っ暗な車のなかで、このメッセージを読みながら声をあげて泣いた。noteで出会ったこの友人は、私に「逃げていいんだよ」と言ってくれた。


以前旦那とのことをここで書いたあと、他の友人からもこんな温かい言葉をもらっていたことを思い出した。このnoteを、迷うたびに読んでいた。どうするのが正解なのか、自分がどうしたいかも分からないとき、最後の一文に何度も何度も励まされていた。

この先のことは誰もわからない。別れるも別れないもこの先選択をしたとしても、それは幸せに向かうことと信じて一歩ずつ進むしかなく、時には後退することもある。立ち止まることも必要かもしれないし、前を向くことも必要かもしれない。
今はただ深呼吸して自分を愛でてほしい。


もう、帰りたくない。もう、あの人と一緒に暮らしたくない。

買ったばかりの本を握りしめて、海へと車を走らせた。真っ暗ななかで眠るのは危ないと知っていたから、車のなかで眠らずに夜を明かした。朝焼けがあまりに綺麗で泣きたくなった。どうして人は、哀しいときも悔しいときも綺麗なものを見たときも、同じように泣いてしまうんだろう。

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別居する為の新しい家を探した。それは案外あっさりと見つかり、おそらく今月以内に、私はこの家を出る。旦那がいるときは旦那が子育てをする。旦那がいないときは私がこの家に通って子育てをする。旦那の仕事の特性により、その割合はきっかり半分半分だ。
「そんなの母親失格だ」という聞き慣れた声が頭を掠めたけれど、それ以上に大きな声が「そんなことはないから、ちゃんと幸せになろう」と言ってくれた。その声は、一人のものではなかった。ここで出会ったたくさんの人たちの声が、綺麗に重なった。


親はもちろん、周囲の人間全員にいい顔してもらうことなんて不可能なの。そんなことよりも自分がいい顔になることを考えなくちゃ。
「なんで僕に聞くんだろう。」~幡野広志

幡野さんのこの言葉に背中を押してもらえた人が、きっとたくさんいるのだろう。


全員に理解されなくてもいい。親に罵倒されてもいい。なんならこっちが罵倒したいくらいの親だった。もういい加減、あの人たちの顔色を伺って生きるのはやめたいんだ。


「寄生虫」とまで言われて一緒に生活していくことに、無理に希望を見出すのも、もうやめる。私は、幸せになりたい。


お金がなければ働けばいい。働きながらでも、文章は書ける。ずっとそうやって生きてきた。そのなかで着実に、届けたい声を届けられる方法を考えていけばいい。


決断を知った息子たちは泣くだろう。でも、仮面を張り付けてこの生活を無理矢理続けていった先にあるのは、私という人間の破綻だ。身体の破綻と精神の破綻、どちらが先かは分からない。分からないが、どっちにしろそんなものは息子たちに見せたくない。そして私も、苦しいのは嫌だ。

言葉を尽くして伝えるしかない。息子たちが私をどう思うかより、彼らが幸せに生きられるかの方が余程大事だ。だから、父親の悪口は言わない。されたことも伝えない。伝えるべきことは、他に山のようにある。

父親は、彼らにとっての土台だ。母親と同じくらいに。それを揺るがすことに意味なんかない。旦那は私を傷つけはしたが、子どもを理不尽に傷つけたことは一度もない。はっきりいって大っ嫌いだけど、悔しいくらい良いお父さんだ。



「理不尽なものからは逃げていい」と書き続けてきたくせに、自分の現状からは違う意味でずっと逃げていた。ここで書き始めて、あと1か月ほどで1年になる。たくさん読んで、たくさん書いた1年だった。そのなかで出会えた人たちの言葉が、私の背中を押してくれた。


綺麗なことばかりじゃない世界を、それでも自分の足でしっかりと歩いていく。転んだり立ち止まったりしながら、時々空を見上げてその青さに泣きそうになったり。美味しいパンを食べて幸せになったり、息子たちの「みてみて!」の声に振り返ったら手に持っているのが泥団子で床ももれなく泥だらけで、溜息つきながらやっぱり笑ったり。

きっとそういうのが、生きていくってことなんだと思う。

そういうことを感じられる心のままに、私は生きていきたい。

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*追記*

書くことを仕事に出来たらとずっと願ってきました。自立する為にも、伝えたいことを伝える為にも、書くことで生きていく道を探しています。

プロフィール、仕事依頼記事を作成しておりますので、目を通して頂ければ幸いです。

たくさんの方々からの温かい応援メッセージ、サポート、本当にありがとうございます。

優しく背中を押してもらえたこと、心から感謝致します。

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碧月はる

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