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森のみち・木曽路 〜二輪で駆ける、世界有数の温帯針葉樹林〜 その③

その②では、実際に森に入り、木曽の森の特異性を感じ取ってきました。ではなぜ、木曽の森の特異性は生まれたのか?
ここからは、木曽の森の成り立ちを深掘りしていきたいと思います。
かなりマニアックな内容になりますので、眠たくなったら読み飛ばしてください(笑)
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木曽の森に針葉樹が多い理由


木曽で針葉樹優占の森が広がっている理由は、大きく2つあります。

①気候的な要因
木曽地方の気候は、ちょっと特殊です。ただ、”特殊”というのは、”人間にとって”ではなく、”樹にとって”です。これを理解するためには、話を本州全体に広げなくてはなりません。

樹木の視点に立つと、本州の気候は「冷温帯」「暖温帯」の大きく2つに分けることができます。冷温帯は、東北〜中央高地、西日本では高海抜の山岳地帯に分布する気候帯で、ここにはブナ、ミズナラなどの落葉広葉樹林が成立します。一方、暖温帯は関東以西〜西南日本にかけて分布し、ここにはカシ、シイなどからなる照葉樹林が成立します。

↑冷温帯の落葉広葉樹林(上、長野県小谷村)と、暖温帯の照葉樹林(下、奈良県奈良市)。樹冠のフォルムがなんとなく違う。

冷温帯と暖温帯の境目は、はっきりとした数値で定義されており、冷温帯は暖かさの指数(WI)85以下の地域暖温帯は寒さの指数(CI)ー10以上の地域、となっています。冷温帯の数値基準は、ブナが生育可能なWIの限界値、暖温帯の数値基準は、カシ・シイが生育可能なCIの限界値をもとに定められています。(※WIは、各月の平均気温のうち、5℃を越える月の数値を足し合わせたもの。CIは、各月の平均気温のうち、5℃を下回る月の数値を足し合わせたもの。CIには、マイナス符号をつける)

上記のWI、CIの境界線を地図上に表すと、以下の地図のようになります(↓)。

↑本州中部の冷温帯・暖温帯の境界線の分布。②のエリアは、照葉樹林が成立するには寒すぎ、ブナ林が成立するには暖かすぎる、という絶妙に中途半端な気候なのである。(清水善和著 「日本列島における森林の成立過程と捉え方」をもとに作成)

地図を見ると、1本の境界線を境にして暖温帯・冷温帯が分かれているわけではない、ということが分かると思います。東日本太平洋側では、冷温帯(地図上①のエリア)と暖温帯(地図上③のエリア)の間には帯状のブランク(②のエリア)が生じるのです。このブランク帯には、常緑広葉樹も、落葉広葉樹も進出できません。こういった空白地帯は、「中間温帯」と呼ばれます。

じゃあ、中間温帯で勢力を握るのは誰?となりますが、ここで登場するのが例の温帯針葉樹。
冷温帯・暖温帯で広葉樹に押されて細々と暮らしていた温帯針葉樹たちは、ライバルのいない中間温帯では一気に調子に乗り、広大な森を作っちゃうのです。木曽も、この中間温帯に属する地域。それゆえ、ヒノキ・サワラが、通常ではあり得ない規模の大群落を作ることができるのです。

木曽谷が、気候的な”隙間”に位置していることが、当地への広葉樹の進出を妨げた。そして、代わりに広大な温帯針葉樹の森が出来上がった……。木曽の森は、気候と植生のミラクルの現場であると言えます。
(中間温帯に関して、さらに詳しく知りたい方はこちらのリンクの論文をお読みください↓)
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33916/kci027-02-shimizu.pdf

②厳格な保護
木曽ヒノキを利用した先人達の歩みも、木曽の森の成り立ちに深く関わっています。

木曽を舞台にした小説「夜明け前」(今回何回か触れた、島崎藤村作の小説)の第1部には、こんな描写があります(↓)。


どうして桧一本でも馬鹿にならない。陣屋の役人の目には、どうかすると人間の生命よりも重たかった。
役人が吟味のために村に入り込むという噂でも伝わると、猪や鹿どころの騒ぎではなかった。あわてて不要の材木を焼き捨てるものがある。囲っておいた桧板をよそへ移すものがある。多分の木を盗んで置いて、板にへいだり、売り捌いたりした村の人などは特に狼狽する。
背切りの吟味と言えば、村中家探しの評判が立つほど厳重を極めたものだ。

島崎藤村「夜明け前」 新潮文庫
(※背切り→違法伐採のこと)

これは、木曽谷を支配していた尾張藩の役人が、集落に入ってヒノキの違法伐採を取り締っているシーン。村人達のパニックぶりが伝わってきます。
「人間の生命よりも重たかった」という表現通り、木曽ヒノキの盗伐はかなりの重罪でした。実際、尾張藩政下で、ヒノキの皮を無断で剥いだ者に死刑が執行された記録が残っています。「檜一本、首一つ。枝一本、腕一つ」という言葉通り、ヒノキの盗伐者には、厳罰が待っていたのです。
この厳格な保護こそ、木曽の森が今日まで残ってきた理由です。近世に、ここまで厳重な森林保護を行なっていた地域は、世界中を見渡してもあまり例がありません。

では、どういった経緯で、木曽の森がここまで厳しく守られることになったのか……?

↑油木美林のヒノキの大木。

木曽ヒノキ利用の歴史

花粉分析によると、木曽谷にヒノキが生育しはじめたのは1万年前。
しかし、木曽のヒノキ林が日の目を見るには、長い長い時間がかかりました。
というのも、中山道が本格的に整備される江戸時代以前は、山奥深い木曽谷にわざわざ入ってくる旅人は少数派だったから。それゆえ、木曽の山を覆う広大なヒノキ天然林は、人知れず原生的な状態を維持し続けたのです。

この状況が大きく変わったのは安土桃山時代。かの有名な豊臣秀吉が、大坂城・伏見城などの大規模な城の建材供給地として、木曽ヒノキ天然林に目をつけたのです。1590年、天下統一を成し遂げた彼は、木曽谷を自らの直轄領に編入し、ヒノキの伐採を開始します。

しかし1598年、秀吉が死去。その後の天下分け目の関ヶ原合戦で勝利し、権力を握った徳川家康は、秀吉が持っていた木曽谷での木材権益をそのまま引き継ぎます。
幕府開設後は、江戸の街の建設や、城の建造、戦乱復興のため大量の木材が必要となり、木曽谷でのヒノキ伐採は瞬く間に加速。伐採の波は木曽川の上流へ、上流へと進んでいくことになります。


↑ヒノキ伐採のようす。三方向から斧を入れ、伐倒方向を確定させる「三つ紐伐り」という手法。当時、大木の伐採は危険極まりない作業だった。https://www.rinya.maff.go.jp/chubu/kiso/morigatari/unzaihou.htmlより画像を引用

1615年には、徳川御三家のひとつであった尾張藩に、木曽の森の支配権がゆずり渡されるのですが、伐採のスピードは変わりませんでした。
1600年代の中頃には、ヒノキの大木がいよいよ枯渇。木曽の森は禿山ばかりになります。
意外なことに、木曽の森は一度完全に荒廃しているのです。現在わたしたちが見ているヒノキの天然林は、その後に再生した森。木曽の森に生えているヒノキが、皆樹齢300年前後であることも、この裏付けとなっています。このことから、「木曽の森は天然林ではあるが、自然林ではない」と言われることもあります。

↑木曽の森は、数百年の時間をかけて作られた壮大な二次林である、という捉え方もできる。(夕暮れの赤沢自然休養林、ヒノキ群落)
↑油木美林のサワラの大木林。この山も、300年前は禿山だったのだろう

さて、1600年代の山の荒廃に危機感を抱いた尾張藩は、木曽ヒノキの保護に取り掛かります。

まず尾張藩は、1665年、木曽の山を「巣山(すやま)」「留山(とめやま)」「明山(あけやま)」という、3つの区画に分割します。このうち、巣山と留山は保護林で、住民の立ち入りは禁じられました。一方明山は、住民の薪炭林。日常的に利用する森と、保護の対象とする森を明確に分け、ヒノキ伐採を藩の監視のもと行うようにしたのです。

↑ヒノキの稚樹。倒木更新により世代交代を行う。いま目の前に立っている大木たちも、300年前はこんなんだった。

そして1708年、有名な「停止木制度(ちょうじぼくせいど)が導入されます。
これは、ヒノキ、サワラ、ネズコ、アスナロ、コウヤマキを「木曽五木」とし、その伐採を禁じるもの。明山の中であっても、木曽五木に手を出すことは絶対にダメ〜というルールが制定され、森林保護は一段と厳しくなりました。

↑馬籠宿・島崎藤村記念館前には、木曽五木が一種類ずつ植えられている。左から、ヒノキ、コウヤマキ、アスナロ、ネズコ、サワラ。コウヤマキ以外全部ヒノキ科なので、よく似ている。

木曽の森を実際に歩くとわかるのですが、木曽五木メンバーの出現頻度は、均一ではありません。森での遭遇頻度が高いのは、圧倒的にヒノキ、サワラ(特にヒノキ)。ネズコ、アスナロ、コウヤマキは、岩場や尾根でたまに見かける程度です。3日間木曽の森を歩きましたが、後者の御三方とお会いした回数は、数える程しかありません。

おそらく尾張藩も、このことを理解していて、一番保護したかったのはヒノキだったのでしょう。なのにも関わらず、木曽のヒノキ科樹種すべてを禁伐としたのは、「他の樹種だと思って伐採したら、たまたまヒノキだった」という、誤伐を騙った言い逃れをできなくするためだった、と言われています。(もちろん、ヒノキ以外の針葉樹も、木材資源として重要であることは確かです)

実際、コウヤマキ以外のメンバーは、全員樹皮・葉・樹形がよく似ているため、地上から梢を見上げて識別するのは至難の技。盗伐者が、「樹種の識別ミスりました。わざとじゃなく、過失です」と言ったとしても、まぁ筋は通ってるっちゃ通ってる。
これをしっかりと予見し、その手段を封じるとは…尾張藩の森林保護政策の精巧さがよく分かります。


↑上から、サワラ(赤沢自然休養林)、ヒノキ(赤沢自然休養林)、ネズコ(水木沢天然林)。いや、似すぎやろ。

木曽五木制定後は、木曽谷で広葉樹の伐採が加速してゆくことになります。尾張藩は、ヒノキの稚樹の成長を促進するため、森の中に生育していた広葉樹の若木(ミズナラなど)を積極的に除伐しました。
また明山でも、住民はルール上、木曽五木以外の樹種(つまり広葉樹)しか薪として利用できなかったため、自動的に針葉樹だけを残し、広葉樹を伐採することになります。結果的に、明山からも広葉樹が排除され、針葉樹一強の森が出来上がったのです。

↑油木美林のヒノキの森。ヒノキを1本伐採した後は、ヒノキの苗を1本植えろ、というお触れ書きも出された。


↑木曽檜は、伊勢神宮の式年遷宮の際の用材としても重宝されてきた。写真は、1985年に伐採され、伊勢神宮へと運ばれた木曽檜の切り株。2017年には、2033年の式年遷宮で使うヒノキの伐採が、木曽で行われた。

気候的な隙間で、もともと針葉樹の比率が高くなっていたところで、当時としては類を見ないほどの、高度な森林保護が行われたこと。これが、木曽に深い深い温帯針葉樹の森が形成された理由だったのです。

温帯針葉樹林の貴重さ
さて、尾張藩による厳しい森林保護が功を奏し、数百年かけて森を復活させた木曽の針葉樹たち。
彼らは、とてつもなくラッキーな奴らだと思います。

文明誕生以来約3000年間、世界各地で原生林の破壊が行われてきましたが、その煽りを最も強く受けたのは、温帯針葉樹なんじゃないか、と僕は考えています。

温帯針葉樹林は、地球上に点々と分布しますが、その範囲はごく狭いエリアに限られています。


↑世界の温帯針葉樹林の分布。それぞれの地域で、優占種となっている樹種も表記しています。寒冷地と暖地の境界線上の、”隙間”にあたる地域となると、どうしても面積は狭くなってしまう。(※この地図は、WWFの定義に基づいて作成していますが、一部の山岳地帯に局地的に分布する針葉樹林は、北方針葉樹林に近いと考え、この地図からは除外しています。)


↑アメリカネズコ(Thuja plicata)。北アメリカ西部の森で大木に育ち、優占種となる。(北大植物園にて)

世界的な視点でみると、温帯針葉樹林は、①降水量が十分にあり、②夏は涼しく冬は暖かい地域で成立する傾向があります。温暖な冬が落葉広葉樹の進出を妨げ、冷涼な夏が常緑広葉樹の進出を妨げるからです。(このことを数値化したのが、冒頭で触れたWI、CI)

こういった安定した気候が成立するためには、海の存在が必要不可欠。海水が、気温の変動を抑え、一定の降水をもたらしてくれるためです。それゆえ、温帯針葉樹林は多くの場合海岸沿いに成立します。

しかし実際のところ、これら諸々の気候的条件を満たした場所は、地球広しといえどかなり少ない。上の地図を見ても、温帯針葉樹林の分布は大洋の周縁部の、ごく狭い範囲に限定されていることがわかります。

木曽をはじめとする日本の中間温帯は、ちょうど上記の2条件に合致するのです。木曽の温帯針葉樹林が、いかに貴重かが分かります。




↑ツガ(上、高知県津野町)、モミ(中、京都市)、ヒノキアスナロ(下、青森県むつ市)。日本の温帯性針葉樹の面々。この他にも大勢のメンバーが控えていますが…。狭い島国に、ここまで多種類の針葉樹がそろっている例は世界的にみても珍しい。日本の中間温帯は、世界で最も温帯針葉樹の多様性が豊かな地域だと言われている。

さらに、日本のヒノキ、台湾のベニヒ、オセアニアのアガティス、アメリカ西海岸のコーストレットウッドなどなど、多くの温帯針葉樹は、有用材を産出します。それゆえ、彼らは皆伐採の憂き目に遭ってきました。もともと分布域が狭い温帯針葉樹林に、一度人間の伐採が入ってしまえば、あっという間に森は壊れてしまいます。

実際、有史以前の西日本には、広大なヒノキの天然林が広がっていたという記録が残っていますが、現在の西日本にヒノキの森なんて殆ど残っていません。アメリカ西海岸でも、過去200年間で、コーストレッドウッドの原生林の約90%が伐採されたと言われています。温帯針葉樹林は、非常に脆く、崩れやすい森林なのです。
地球上で、原生的な温帯針葉樹林が見られる場所となると、いまや数える程しかないのが実情です。

このことを踏まえると、温帯針葉樹林が良好な状態のまま数百年間保護されてきた、という木曽の森の歴史は、世界的に誇れるものだと思います。

↑滋賀県大津市の田上山。1000年前には、ヒノキの大木が生い茂る天然林が広がっていたといわれているが、現在はご覧の通り禿山。

木曽の温帯針葉樹林は、①広葉樹の進出を妨げる”気候的結界”(中間温帯)が成立していた、②厳格な森林保護が行われた、という、2つの大きな偶然が重なった結果、今日まで持続してきたのです。
”気候”と”人間”という、森の様相を決定づける二大要素の両方を味方につけたところに、木曽の針葉樹たちの運の良さが滲み出ていると思います。周りを見渡してみると、日本に生えている樹種は、だいたいどっちかと折り合いをつけれず、いくらかの災難に見舞われています……(たとえばブナは、気候には恵まれたけれど、人間からは散々な扱いを受けました。)

やっぱ、針葉樹林はイイ!


木曽の森に行って以来、僕はすっかり温帯針葉樹林中毒になってしまいました。ブナ林や照葉樹林とはまた違った美しさが、クセになってしまって困ります。あんなにも洗練されたデザインの森林景観を見せられたら、好きにならない方が難しいだろ。

木曽の森歩きが終わった日の夜も、「次はどこの温帯針葉樹林に行こうかなぁ〜」と、世界地図を眺めながらワクワク。温帯針葉樹林を巡りながら、太平洋を一周する一筆書きの旅、なんてのも面白そうだなぁ…

ここでふと我に帰る。

そういえば、僕はいま金がなくて原付に乗っているんだった。海外とか、そんなことを考えられる身分じゃねえ。
アメリカ西海岸まで行かずとも、見事な温帯針葉樹林を見れたのは、木曽ヒノキのおかげです。
実家からたった300キロの木曽谷で、森を作って待っててくれるなんて、ほんとに感謝しかありません。

今回の旅は、木曽ヒノキたちのファンサービスなくしては実現できないものだったのです。アクセスしやすい場所で、世界有数の温帯針葉樹林をご用意いただける…針葉樹ファンにとって、これ以上のサプライズはありません。

こんなに素晴らしい樹木たちと、同じ国に住んでいるのだ。金欠のあいだは、しばらく日本産樹種に甘えるとするか……。

 番外編 <木曽の森ミニガイド>


今回僕が行った森3箇所を、ご紹介させていただきます。ご興味のある方は、参考にしていただけると幸いです。

①赤沢自然休養林
所在地 長野県上松町
車でのアクセス 上松市街地の国道19号から県道を辿って17km、40分
公共交通機関でのアクセス  JR木曽福島駅からバスで45分
駐車場 あり。普通車600円
遊歩道の整備度 観光地なだけあって、非常によく整備されている。運動靴で可。バリアフリールートもあり。
遊歩道の体力度 平坦で歩きやすいコースから、階段が連続するタフなコースまで、さまざま。お好みに合わせてルートをお決めください。
冬季の立ち入り 不可(オープン期間4月29日〜11月7日)

・一番行きやすい木曽ヒノキ天然林です。森の美しさは超一級。ヒノキの巨木が生い茂る、格式高い天然林をお楽しみあれ。
・かつて木曽谷で木材運搬のために用いられていた森林鉄道が「赤沢森林鉄道」として復元されており、実際に乗車することができます。列車の中から森林浴、なんてのはいかが?


↑赤沢自然休養林内の歩道。歩きやすい平坦な遊歩道が、美しい森の中を縫っている

②油木美林
所在地 長野県木曽町
車でのアクセス 国道19号「元橋」交差点から県道20号を経由し、17km。30分
公共交通機関でのアクセス ー
駐車場 あり。無料
遊歩道の整備度 登山靴が必要
遊歩道の体力度 急登が連続。序盤では、崖っぷちにつけられた階段を登っていく。踏み外すとマジで危なそうな感じだったので、ご注意ください
冬季の立ち入り 不可

・御嶽山の斜面に広がる美林です。急な登りの連続ですが、ヒノキの古木が立ち並んだ、神秘的な純林を楽しむことができます。
・美林の遊歩道をそのまま進むと、御嶽山の登山道につながります(メインルートではないですが…)。コメツガ、チョウセンゴヨウ、ダケカンバなどが生える、中部山岳の亜高山帯の森も一緒に楽しめます。
・遊歩道入り口では、カツラ、サワラなどが立ち並ぶ、原生的な渓畔林を観察できます。
・遊歩道入り口から行ける「不易の滝」は超オススメ。

↑ヒノキ林を抜けたところにある、コメツガの大木。(写真ー不易の滝)


↑不易の滝。RPGのワンシーンみたいな世界観。

③水木沢天然林
所在地 長野県木祖村
車でのアクセス 名古屋方面からの場合、国道19号「藪原」交差点から12km。松本方面からの場合、国道158号「奈川渡」から23km。
公共交通機関でのアクセス ー
駐車場 あり。無料
遊歩道の整備度 登山靴が望ましい
遊歩道の体力度 ところどころに急登あり
冬季の立ち入り 不可

・木曽川の源流にある森です。木曽谷の最奥に位置しているためか、ブナ、ミズナラなどの冷温帯系広葉樹が林内に混じります。針葉樹の比率は比較的低めですが、原生的な状態に近い森を鑑賞できます。

<参考文献>

・学研グラフィック百科 「週刊日本の樹木」
・「ものと人間の文化史 ヒノキ」有岡利幸著 法政大学出版局
・「木へんを読む」       佐道健著  学芸出版社
・林野庁ホームページ「木曽式伐木運材法」

・「日本列島における森林の成立過程と捉え方」

http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/33916/kci027-02-shimizu.pdf

・「木曽谷の森林・林業の歴史」

・只木良也・鈴木道代著「物質資源・環境資源としての木曽谷の森林」
・「西太平洋湿潤地域の植生帯と針葉樹優占の生物地理学」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/seitai/67/3/67_313/_pdf




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