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東北フォレストジャーニー その① 青森ヒバを追い求めて 前編

ぼくが普段通っている奥入瀬渓流は素晴らしい森ですが、東北には、奥入瀬渓流以外にも、行くに値する魅力的な森がたくさんあります。せっかく青森に住んでいるのだから、行ける森には全部行こう。そう思って、おいけんの活動が休みの日、レンタカーで森巡りをすることにしました。

それでは出発。まだ見ぬ美しい森を求めて。

青森ヒバってどんな樹

今回僕が会いに行ったのは、青森県の県木・ヒバ。ヒノキ科アスナロ属に属する針葉樹で、植物学的な正式名称は「ヒノキアスナロ」(Thujopsis dolabrta var . hondae)と言います。

このヒノキアスナロは、本州北部〜北海道南部にかけて生育する分布の広い樹種ですが、特に分布が集中しているのは青森県。津軽半島・下北半島に広がるヒノキアスナロの森は「青森ヒバ」として日本三大美林のひとつに数えられています。

ヒノキアスナロは寒冷地系の樹種なので、ぼくが住んでいた関西には全く分布しておらず、憧れの樹種でした。だから、「青森に引っ越したらヒバの森は絶対見に行こう」と決めていたのです。
日本三大美林として賞賛されるほどの森をつくる樹。いったいどれだけ魅力的なやつなんじゃ。長年会いたいと思っていただけに、心の中に半端ない量のワクワク感が溜まっていました。

そのワクワク感を解放させるべく、5月初旬、青森ヒバ天然林を追い求める旅へと出発しました。今回はその模様を記事にしたいと思います。

いざ対面

ぼくが現在住んでいる十和田市には、野生のヒノキアスナロは全くと言っていいほど生えていません。
「青森ヒバ」という名前ですが、青森県ならどこでもヒノキアスナロが見れる、というわけではなく、実施に彼らが住んでいるのは下北半島・津軽半島(津軽海峡側に出っ張った2つの大きな角のような部分)のみ。
県の南東部にある十和田市は、これらの半島エリアからは結構離れています。そのため、ぼくがヒノキアスナロに会いに行こうと思ったら、1日つぶしてドライブしなければなりません。青森に来たからといって、ヒョイっと手軽に青森ヒバと対面できる、というわけではないのです。

簡単には会わせてくれない感じが、逆にドキドキしてくる。遠距離恋愛してるカップルって、多分こんな気分なんだろうな。

やばいぞ、ヒノキアスナロ。ぼくはもう君のことで頭がいっぱいだ。関西にいたころは、君とはとても直接会える距離ではなかったけれど、いまは君と日帰りでいける距離ぐらいしか離れてないんだね。なかなかその実感がわかないよ。
天然林を見に行く前日は、楽しみすぎてなかなか寝れませんでした。

そしていよいよ当日。十和田市内から車を2時間半ほど走らせて到着したのは、青森市にある「眺望山自然休養林」。津軽半島中央部の山中に広がる国有林で、手軽に青森ヒバの天然林を味わえる場所として有名なポイントです。

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↑眺望山自然休養林の位置。青森市内から20キロほど。

駐車場で車を降りてちょっと歩くと、いらっしゃるいらっしゃる。ヒノキアスナロの若木がひょこひょこと顔を出してこちらを向いています。

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やっと会えたね。まずは葉っぱを観察。


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↑ヒノキアスナロの葉っぱには、プラスチックで出来ているかのようなツヤツヤ感がある。レゴでつくったみたいです。
2021年5月11日 青森県青森市 眺望山

ヒノキアスナロは、かなり太い鱗状葉(主にヒノキ科の針葉樹がつける、細い糸のような葉っぱ)をつけるのが特徴です。
関西には、ヒノキアスナロと同じヒノキ科に属する針葉樹「ヒノキ(Chamaecyparis obtusa)」が多く分布していて、ぼくはこちらを見慣れているのですが、ヒノキの鱗状葉は結構細め。だから、ヒノキアスナロの豪快な鱗状葉が新鮮に映りました。


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↑上がヒノキ、下がヒノキアスナロ。比べてみると鱗状葉の太さにはかなりの差がある。ヒノキの葉は2020年3月29日に奈良県宇陀市で、ヒノキアスナロは2021年5月11日に眺望山でそれぞれ撮影。

また、ヒノキの葉は触ると柔らかいのですが、ヒノキアスナロの葉は結構硬いため、ガシガシした手触りです。その質感がかなり独特で、ヒノキアスナロの葉を撫でている時は、「植物の葉を触っている」という感じがあまりしません。「最も造花に近い生きた植物」という称号を与えたくなります。

この、おもちゃのような葉っぱがとても愛らしい。触っていて気持ちいいし、濃い緑が美しいし。おもわずほっぺたでスリスリしたくなります。
「恋をしたのあなたの 指の混ざり 頬の香り……」
津軽の山奥で、星野源の「恋」のサビの歌詞と、まったく一緒の状況に陥ってしまいました。

自分と他人の境界はどこにある

さて、くどくどと植物の葉の特徴の説明をされても眠たくなってくると思うので、ここで少し哲学的な話題に移りたいと思います。(いや、もっと眠たくなるよ、と思われた方もいるかもしれませんね、すいません)

哲学の世界に、「私はなぜ私なのか」という有名な問題があります。
この問題、いったいどういった疑問を提起しているのかというと、『私はどうして「私」という存在なのか、どうして「他の誰か」という存在ではないのか』というもの。
哲学の世界では2000年以上、この問いについての議論が繰り広げられていますが、いまだに答えは出ていません。あまりにシンプルで当たり前な問いであるがゆえに、答えに辿り着くのが超絶難しいのです。

ぼくの友達に、マクドナルドでハンバーガーを食ってる最中に宇宙の始まりと終焉について語ってくれるような筋金入りの哲学オタクがいたのですが、彼も「私はなぜ私なのか」問題に挑戦した人物のひとりでした。

彼によると、「自分が自分である一番の証拠は『記憶』である」とのこと。
自分が今まで何をしたか、そこでどう感じたか、というのは自分にしか分からない。そういった記憶は、誰にも奪われないし、自分しか持つことができない。
だから、「自分のこれまでの人生の流れを誰よりもよく知っていること」が自分が自分自身である一番の理由だと言える、というのが彼の理論でした。(たぶん)

正直ぼくはこういった頭がおかしくなりそうなややこしい話題は苦手だったので、彼の話を聞いた当時は「へー」ぐらいで聞き流していました。しかし、先日津軽の青森ヒバの森を訪れたのをきっかけにして、彼の理論をフッと思い出してしまった!

下の写真をご覧ください↓

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写真の中で茂っている個体、一見なんの変哲もないヒノキアスナロの若木に見えます。しかし、彼らの生い立ちは結構特殊です。

………多雪地帯で過ごすヒノキアスナロは、冬の間、雪とひたすら格闘しています。そんな中、彼らの枝は時々雪の重みで大きくしなってしまうのです。そこで彼らは、しなった枝が地面に接触したときに、地面と枝の接触ポイントから新しい根を出し、新しい個体を生み出す、という画期的な対策を編み出しました。雪にまつわるトラブルを、繁殖のチャンスへと変えてしまったわけです。

上の写真に写っている個体は、こういったヒノキアスナロの雪対策の過程で生まれた子供だったのです。

もう一度先ほどと同じ写真をご覧ください。

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写真の右上に、黄色い線で囲まれた幹が見えると思います。こちらが「親木」にあたります。そして、その親木から葉が茂った部分にむけて、地面きわきわの位置を這うようにして伸びている枝(赤の線)がありますが、実はこの枝が根っこの出発点。写真ではわかりにくいですが、よく見ると数本の根が枝から土の中に向かって伸びているのです。この根っこは結構しっかりと地中深くまで伸びていて、枝を強く引っ張っても地面から枝が浮き上がらないほどです。
そして、この根っこが、枝の先端の若葉たちに向けて栄養を送り届けているのです。

さて、ここで前述の「私はなぜ私なのか」問題に戻ります。
この、枝の途中から発根したヒノキアスナロの若木にとって、「私自身」とは一体どこからどこまでなのでしょうか。植物の「一個体」を、根っこから茎や幹の先端までの器官が一通りそろったもの、として定義するなら、この若木はすでに「一個体」としてカウントされます。しかし、この若木は完全に独立しているわけではありません。親木ともしっかり繋がっているし、親木の根と茎を通して栄養分を吸っているでしょう。そう考えると、「親木と若木は別の個体だ」とは言い切れないような気もします。

途中発根で生まれたヒノキアスナロたちにとっての、「自分自身」と「他人」の境界線は非常に曖昧なものなのです。となると、もし彼らが「私はなぜ私なのか」という疑問を持ち始めたら、どういう答えにたどり着くのでしょうか。

先程の哲学オタクくんの理論を適用しても、少々おかしなことになります。
「自分の人生の記憶」が自分が自分である証拠だとしても、途中発根で生まれたヒノキアスナロにとっての「自分の人生」ってそもそも何なのか。
前述したように、根っこ〜枝の先端までの器官がそろったものを「植物の1個体」とするなら、例の途中発根の若木は「独立した個体」であるとみなされ、彼は「自分だけの人生」を歩んでいるといえます。
しかし、彼は親木ともしっかりと繋がっているので、彼を「親木のからだの一部である」として見ることもできます。となると、彼が「自分だけの人生を歩んでいる」とは考えにくくなるのでは。

後者の考え方の場合、途中発根の若木と親木で、人生を完全に重複させていることになります。2個体で1つの人生を共有しているのだから、「人生の記憶」が自分だけのものではなくなっちゃうのではないか。そうなると「自分が自分である証拠は記憶」説は成り立たなってしまうんじゃないか。
ヒノキアスナロの生態を目の当たりにすると、例の哲学オタクくんの説に異論を唱えたくなってしまいました。

しかし、そもそもヒノキアスナロと人間では生き方が全く違います。別の個体どうしで全く同じ人生を共同で歩むなんて、人間では考えられません。そういった全く異質なものを引き合いにだして哲学オタクくんに文句をつけるのはナンセンスでしょう。

ただ純粋に、「人間では成し遂げられないことをやってのけるなんて、すげえやつだなあ」と彼らの生き方を覗き見するのを楽しむことにしました。

後編へ続く

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