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くまちゃんとの思い出

まだ父を失ってから日も浅かった小学生低学年の頃、叔父の友人が遊びに来た時にくまのぬいぐるみをもらった。

そのぬいぐるみは、ちょっとざらざらした硬くて短いこげ茶色の毛をしていて、つぶらな真っ黒い目、そして首に赤いチェックのリボンを巻いていた。

肌触りが特にいいというわけではなかったけれど、ちょうどよいサイズ感のそのぬいぐるみは、いつしか私の枕元で必ず一緒に寝る相棒になった。

その子はなんの捻りもなく「くまちゃん」と名付けられ、我が家のぬいぐるみの中でも常に一軍をキープし、穴が空けば縫い、私にとってなくてはならない存在となっていった。

当時私は倉橋耀子さんの「いちご」という動物と話せる女の子の小説を読んでいてひどく心を動かされていた。

ペットを飼ってはいなかったので、動物と話すことはなかったけれど、私はいつしか心の中で何かあると「くまちゃん」に話しかけるようになっていた。

そして、「くまちゃん」は当時の私の心に「ぼく」という一人称で話しかけてくれている気がしていた。

私はそんな想像の中での「くまちゃん」とのやりとりに大きく支えられながら大きくなった。

家に泥棒が入って夜が怖かった日も、初めて生理が来てドキドキした日も、家族が入院した日も、「くまちゃん」をぎゅっと抱きしめていたら「大丈夫」と私を守ってくれている気がした。

「くまちゃん」は、そんな風にしていつしか私の「お気に入りのぬいぐるみ」以上の存在になっていった。

中学生になってからも、一人部屋になった私のベッドの枕元にはくまちゃんはいつもいた。

私の灰色だった中学の学校生活のあれこれ、仲間はずれや裏切りの絶えなかった友人関係、私の涙も、鼻水も、淡い恋の悩みも全てを受け止めてくれた。

「なんでも打ち明けられる」というのはこういう存在のことなんだと思う。

人間のような心の裏の読み合いのようなこともなく、なんの忖度もなく、なんの見返りも求めない存在。

素直に自分を打ち明け、素直に受け止めてくれた(気がする)存在は、当時の私を本当に救ってくれた。

「絶対裏切らない」という人間ではなし得ない純粋で絶対な関係性が、当時の傷ついた私には必要だったのだ。

私は高校生になり、留学先のカナダにもくまちゃんだけは必ず持って行った。

パンパンのスーツケースに「狭くてごめんね」と言いながら毎回必ず詰め込み、初めてのような異国での日々を「くまちゃん」は支えてくれた。

悩んだ時は「くまちゃん」に心の中で相談し、「くまちゃん」は私が一人では出せないけど本当は出したい答えを私の心に投げかけ、私の背中を「ぽん」と優しく押してくれた。

もちろん、高校生にもなればもう私はそれが自分の頭の中の妄想に過ぎないことはとっくにわかっていた。

けれど、「くまちゃん」という存在に自分の気持ちを映し出すことで、自分の内面を整理したり、確かめたりすることが、私にとって大切だったのだ。

その役目は、他のぬいぐるみではできなかった。「くまちゃん」としかできなかったと言う点では、やっぱりこのぬいぐるみは私にとって特別な存在だった。

そして私はとうとう大学生になった。上京したその日も、スーツケースの中にくまちゃんを詰め込んで私は渋谷のホテルに到着した。

上京初日は偶然にも、カナダから送ったデモCDがレコード会社の耳に留まり、原宿での初ライブの日と重なった。

私はライブを終えて、レコード会社がとってくれた渋谷のビジネスホテルで夜を過ごし、翌日大学の寮に入寮した。

そして寮の部屋に入って荷解きをしたら、

「くまちゃん」がいない。

私は自分の目を疑った。何度も何度もスーツケースを見直し、持っていたカバンの中も見てみたが、やはり「くまちゃん」はいなくなっていた。

もしかしたら渋谷のホテルに置き忘れてきたのかもしれない。

私はホテルに電話して確かめようとしたのだけど、そのとき、あのいつも私に話しかけてくる「くまちゃん」の声が心に聞こえてきた。

「きみはもうひとりで大丈夫」

…結局、私は電話をかけなかった。
その日の夜、くまちゃんが枕元にいなかったのはすごくすごく心細かった。

私の子ども時代、青春時代の全てを知っている相棒とこんな形でお別れするとは思っていなかった。

けれど、「くまちゃん」はこれでいい、と思っている気がした。「くまちゃん」が言うのだから、きっといいんだ。と私は自分を説得した。

そして、私も年月が経つほどに「これでよかったんだ」と思えるようになった。

もし、あの時お別れしていなかったら、私は手放すタイミングを見失っていたかもしれないし、生身の人間に自分の心を開く勇気をいつまでも持てなかったかもしれない。

そう思うと、やっぱり、あの別れは偶然であり、必然だった。

そして、あれから更に20年ほどの時間が流れた。

今、私の子どもたちは3人揃って大のお気に入りのぬいぐるみを一体ずつ持っている。

毎日ぬいぐるみを介して3人で楽しそうになにやら声色を変えて遊んでいるし、私もよくその仲間に入れてもらう。

学校で何か困ったことがあった時、
素直に気持ちを言えない時は、私はぬいぐるみを通して「どうしたの?」と聞いてみるとすんなり子どもたちは答えてくれたりする。

そんな時、私は「くまちゃん」を思い出しては心がきゅん、となる。

絵本「こんとあき」を読む時も、同じような気持ちになる。

こんな風に、「くまちゃん」は私を支えてくれたなぁ、ありがとう。と心の中で今でも「くまちゃん」に話しかけることがある。

…もちろん全ては単なる私の妄想に過ぎない。

単なるお気に入りのぬいぐるみとのやりとりなのだけれど、それが私の子ども時代を、支え、救い、導いてくれたことは決してこの先も消えることのない事実だ。

そして、今も、こうして今日も、思い出しては少し胸が痛むほどに、
「くまちゃん」は今も私の心の中に確かに、いる。

ちょうどnoteを開いたら「しいたけ占い」のしいたけさんが、ぬいぐるみについての質問に答えていてふと書きたくなった、私の大切なぬいぐるみ、「くまちゃん」のお話でした。

山口春奈

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