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【本】理不尽への対処法ー私たちにはことばが必要だ

フェミニズムのトークショーに行ってから、今までにもまして、自分から情報を取りに行くことで、今まで理不尽だと気づいていなかったことを自覚させられることや、SNSにあふれる女性の主張に対する罵詈雑言が目に触れるようになったことなどで、少々気持ちが落ち込んでいた。

当然、海外のアクティビストや日本での活動の発信者など、パワーある人の言動に勇気をもらうことのほうが多いし、そういう活動をよく目にするようになったことだけでも、ものすごく喜ぶべきことだと思う。

ただ、対処法を理解していないと、自分に向けられた言葉じゃなくてもキツイ。そして、体験談を見ることもキツイ。

そういうときに、この本があってよかった。

韓国で運動が盛んになったときに、消耗していく女性のために、どういう心持ちで、どう相手に伝えるべきか、伝えないべきか、を手助けするために書かれた本です。

一番腑に落ちたのは、「理解してもらうために説明する責任を負っていない。相手が理解したいと教えを請うて来るのであれば、教えてあげればいい」ということ。
どうしても、理解してほしくてこちら側が一生懸命言葉を尽くしてエネルギーを使って説明しても、相手が「聞いてやる」というスタンスであれば、すでにそれは差別者と被差別者の関係であるということ。

誰もが必ず言われてきた
・女性なんだからニコニコしたほうがいい
・男性の中で仕事をしてきた感じの人(ネガティブな意味で)
・気が強い(ネガティブな意味で女性にしか使わない形容詞として)
こういう言葉も、説明しても「そんな意図ないよ」「被害者意識強すぎるんじゃないの」当たり前のように跳ね返される

そういう人も、アメリカ人に日本人というだけで、
・日本人なんだからペコペコしたほうがいい
・アジアの中で先進国って言われてきた国の人(ネガティブな意味で)
・くそ真面目(ネガティブな意味で日本人にしか使わない形容詞として)
と言われたときに、どう思うかどうか、
と言いかえればわかるだろうか。
「そんな意図ないよ」「被害者意識強すぎるんじゃないの」と言われたときに、説明する気が起きるだろうか。その発言者を、差別主義者だな、こいつとは話したくないなと思うのであれば、女性も上の言動にそう思っている。

そういう差別主義が根底にある人に、どうして心を尽くして言葉を選んで、理解してもらわなければならない責務を被差別側が負っているのだろうか。
それは、教育の段階での問題ではないだろうか。

何を誰に話すかは、あなたが選んでいいし、理不尽な会話に消耗しなくていい。
歩み寄れるのは、相手が理解しようと自分から調べたり意思を提示してきたときだけでいい。
そう言ってもらえるだけで、救われるような気がする。

もちろん、主張をしなければ変わらないこともみんなわかっている。
だけど、不毛な議論にエネルギーを使わずに、有用な活動に時間を使えるような土壌ができたらいいですね。

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