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栄枯盛衰。高田屋嘉兵衛という男。

高田屋嘉兵衛について描いた作品の中で、最も印象に残っているのは上記ドラマ。竹中直人の熱演が光っていました。今観ても古びてはいない秀作ドラマだと思います。以下は司馬遼太郎の原作『菜の花の沖』関連について。

高田屋嘉兵衛については高田屋嘉兵衛顕彰館が詳しいです。



『菜の花の沖』を舞台化したわらび座さまのHPで、司馬遼太郎の言葉に触れることができます。

上記から抜粋して引用します。

 ロシアにいる間、ロシア人たちは嘉兵衛のことを「タイショウ」と呼びました。嘉兵衛とともに連れて行かれた日本人の連中が「大将」と呼んでいたからですが、ゴローニンが釈放され、ロシアの軍艦が箱館を去っていく。そのときリコルド艦長以下、すべての乗組員が甲板上に出てきて、見送る嘉兵衛に叫びました。「ウラァ(万歳)タイショウ」嘉兵衛はこの感動を生涯忘れませんでした。
 われわれは嘉兵衛のような人ではありません。けれども人は人なりに「大将、ウラァ」ということがあるといいですね。死ぬときに「大将、ウラァ」ということがあるかないか。あの瞬間がおれの人生だったという思い出を持つかどうかが、大事だと思います。

◆司馬遼太郎公開講演(1985年、5月11日洲本市民会館)より抜粋 わらび座/菜の花の沖
より

ゴローニン事件。歴史上有名な幕末の事件であり、歴史の転換点とも言える日露の外交的問題です。説明の余地もないとは思いますが、分かりやすい解説サイト様を見つけましたのでリンクします。

嘉兵衛にとって人生で最も過酷であった(筈の)カムチャッカ滞在。それがいわば人生の華でもあった。高田屋嘉兵衛という人物を象徴しているように思います。私的な感想ですが、嘉兵衛は海でしか生きることができなかった男である、と感じるのです。帰国後、生まれ故郷の淡路に戻り、健康を害して隠遁生活を送る。高田屋は弟・金兵衛が跡を継ぐものの、結果として幕府に取り潰される。晩年の嘉兵衛は人が皆味わうような物悲しい黄昏色を纏います。それでも、生まれ故郷の淡路の発展に尽くし、今も人々から顕彰されている。それが廻船問屋・高田屋の主、嘉兵衛という人間だと私は思っています。

高田屋嘉兵衛の名・足跡は以下の北前そば屋にも残され、受け継がれています。参考までに記します。

私の母方は出身が四国です。淡路ではなく徳島ですが。嘉兵衛の業績、努力研鑽=(当時の)箱館での活躍なくして、四国の人たちが蝦夷地であった北海道に船で渡ることはできなかったかもしれない。高田屋嘉兵衛は私にとっても恩人である。そう感じています、開拓農民四世として。
それでは、今回はこれにてお暇を。ここまでお付き合いいただきありがとうございました。

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