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『地球儀』を聴いて思い出した歌【再録】。

米津玄師『地球儀』。CDをネット購入したのにも関わらず、すぐに聴きたくなってDL購入もしました(苦笑)。DAP・ウォークマンで聴いています。


さて。歌、と書きましたが、Songではなく短歌です。まずは引用を。引用以下は文語体にて綴ります。


逆立ちて視る風景よわたくしは芯まで熱き地球儀の脚

鈴木英子『淘汰の川』(1992)

『淘汰の川』は、同人誌の関連で同人代表を通じ、頂戴した歌集である。本来なら書店にて買い求めるべきそれをご送付頂いた感謝と共に、今も時折手に取る一冊だ。主立った歌は諳(そら)んじることができるほど拝読したが、その1首が引用歌である。鈴木英子さんの歌について優れた批評を見つけた。以下にリンクをしようと思う。

時は1992年。鈴木さんも若者から熟す途中、熱い情熱を抱いて己を真摯に見つめておられたと感じている。余談であるが、筆者の私と鈴木さんは同年代。才を比べる愚を犯すつもりは露もないが、生きた社会は共通しているだろう。あの頃、種々の問題を抱えた社会にあって、私たちは醒めつつも熱かったように思う。以下、人物名につき敬称を略する。そのご無礼をお許しいただきたい。

米津玄師『地球儀』を聴きながら、懐かしい1首を思い出している。思い出しながら、米津玄師の言葉を思ってみよう。胡乱な行為ではあるが、二十世紀後半のあの頃と、21世紀の今を並べることにも繋がるだろうから。

扉を今開け放つ 秘密を暴くように
手が触れ合う喜びも手放した悲しみも 飽き足らず描いていく
地球儀を回すように

米津玄師『地球儀』 作詞作曲:米津玄師より 歌詞聞き起こし

21世紀は、どこか孤独で哀しい。(以下敬称略)鈴木英子において己の脚であった筈の地球儀は今、米津玄師の目の前にあり、彼の手で自転する。それを諦観と呼ぶか否かは聴く私たちが決めることなのだろう。私は、この地球儀をこう定義しよう。それでも生きていくのだ、われわれは。私たちの星が廻る限り


等、過ぎた実験をいたしました。ここでお詫びしても詮なきことですが、鈴木英子さんには無名の歌詠み、その愚行を伏してお詫びしたく(滝汗)。鈴木さんのご活躍を尊敬と感謝と共にお祈りしております。そして、ここまでお目通しくださった方へも、同様に感謝申し上げます。ありがとうございました。

最後に、歌詞引用について留意点をまとめたサイトをリンクします。


拙稿をお心のどこかに置いて頂ければ、これ以上の喜びはありません。ありがとうございます。