名もなき鳥ならば。曲に寄せて思うこと。
鳴き声もまた、知られることはないだろう。
元ちとせ「名前のない鳥」を発火点にした雑文を。
*この曲は山崎まさよしさんの曲を元ちとせさんがカバーしたものです*
纏めることをせず、以下散漫なるまま。
止めること≒忘れる事が下手、もっと言えばその術を知らぬ者。そんなことを思います、客観的に己を顧みると。
それは例えるならば。通信簿という憂鬱な(苦笑)お荷物を取りあえず向こう側へ置き、夏休みの計画に胸躍らせて家路を急ぐクラスメートを振り返りつつ、「引っ越し」「転校」の準備を始める幼い自分の姿に端を発するのやも知れません(拙宅は転勤族で2.3年毎には引っ越ししていました)。
クラスメートにとって、私は過去の存在となる。私にとっては絶ち切れたまま、消えることもなく心の奥底に仕舞われていく。その温度差です、補足すれば。
自分自身へと不器用に掛けてしまう圧に、願うことよりなすべきことをしてしまう自分に、自分で辟易して思うことは。
ふっと姿を消してしまえたら、どれ程に身が軽くなるだろうか。
出来もせぬことを考えていた幼稚な心を抱えた青い日々を省みる。
今の住居に移り住んだ日、観光で知られる高台の麓にあるこの土地で、少しだけ高い急な坂を登った向こう側に立ち、眼下の家並みとその灯を眺めつつ、苦笑いと共に振り返った時にも似て。
昔話を一頁だけ紐解けば、こんな言葉が聞こえてきます。
「独りで大丈夫なんだよな、お前は」。
そんな人はいないんだよ、どこにも。
返せず、言えなかった台詞は。最早、言うべきではない言葉へと変わりました。せめて今は、この手が伸ばすべきものであることを願い、拙き両の手を清めつつ、拙稿へと向かう。
時に希ってしまう。立っているこの地から、ひととき解き放たれることを。それは自由を渇望するものではなく、終わりを希求すること。
今はその願いを深く裡に潜めて。日々は平穏為るが至上のもの、掛け替えのないものだから。そして、為すべきことに向き合う時こそが、私が稚拙な孤独感・未熟な絶望から解き放たれることであると知っているから。
等々。これも詩編の如くに綴りました(具体的事象とは異なる)。
喚ばれるのです、こうした愚かな言の葉もまた。それをどう昇華させていくのか、問いは未だ終わりが来ない模様です。
曲そのものには全く触れず、でした💦
山崎まさよしさんは、元ちとせさんの(メジャー)デビューアルバムより曲提供等やプロデューサーを務めておられます(メインプロデューサーは上田現さんでしたが)。
YouTubeの動画を貼っておきます。
儚くて切ないですね。歌とはそういうものだけれど。
それは人の心なのか、それとも時か命なのか。どう思いますか?まさよしさん。ちとせちゃんには尋ねる必要がない気がするな。貴女は光だから。現ちゃんはそう言っていたでしょう……?
等々、散漫なままに、これにてお暇を。
拙稿をお心のどこかに置いて頂ければ、これ以上の喜びはありません。ありがとうございます。