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結婚の選択への疑問と最近わかったこの違和感の正体を『窮鼠はチーズの夢を見る』から紐解いてみた

※作品を見ていない方は、ネタバレにご注意ください。
※劇中のセリフを思い出して文字で羅列しています。
※一言一句が同じとは言えませんが、内容が伝わる文章が多くがあります。
※後半は作品の具体的なストーリーにも触れています。

* * *

お前俺のこと好きなの?

結婚しててもいいって彼女が言ったんだよ。そう言われたら断れなくて。

俺と付き合いますか?

なんで俺が男と付き合わなきゃいけないんだよ。

じゃあなんで仕事だなんて嘘ついたんですか。

ただ、お前とあいつはお仲間で、別の世界にいるんだなと思った。

女と男だよ?

お前を選ぶわけにはいかないよ。普通の男には無理だよ、わかるだろ。

あいつを悲しませたくないと思っていて。

これは開けません。

また来年もあげるからさ。

ファンデーション!!こんなつき方変だよ!なんですぐクリーニング出さなかったんですか?!

タバコを吸う女の人、どんな人かな。

彼女にバレないように、うまくやればいいじゃないですか。

人生には恋愛でジタバタするよりも、もっと他に大事なことがあんだろ。

彼女が帰って来たら、そのときは引きます。

帰ってくるかはわからないけど、待っていたいんだ。

* * *

もう少しあったはずだけど、いま思いつく映画の中でジェンダーやセクシャリティに触れるようなセリフたち。

私はこの映画の主人公、恭一くんのセクシャリティがどんなものであるか、という話をしたいわけではない。
そうではなくこの映画は、返歌のように、現代における結婚の制度に対してのアイロニーを含んでいるのではないかと考えると、とても腑に落ちたという話。

ーーー

周囲に現れる女性たちは、恭一がヘテロセクシュアルであると決めて話をする。出会ったことのない相手も女性であると思い込んだ上で話をしたり、男/女で線を引いて、自分を選ぶことが当然という態度をとったり。

恭一も、「普通の男」とか「別の世界」とか、見えもしない境界線をわざと、一方的に、今ヶ瀬に強く引いていく。流されやすい分、人一倍柔軟な彼は、自分から「別の世界」だと思っていた場所へ足を運んだりもするが、そこでさらに人を傷つけ、自分も傷つき、そして今ヶ瀬を傷つけるような経験をする。
それでも、無頓着に来年なんて、不確実な未来の話をしたりするやつだ。

自分の恋愛感情に真っ直ぐな今ヶ瀬は、食べて来たんでしょ?と皮肉に相手の行動を探り、ファンデーションのついた服への疑心で怒り、夜中に携帯を見てしまうほどの執着心を持っている。
それはもちろん、生来もつ執着心もあるが、男女の差を自覚しているからこその感覚もあるだろうと思った。
一番忘れられやすい存在であることを自覚している今ヶ瀬は、忘れられないように、相手の物理的なもの、そして匂いに執着する。ピンクのジッポ、黄色の灰皿と吸い殻、自転車、下着や部屋着、カーテンまでも。

恭一と今ヶ瀬が、どんなに相手を大事に思っても、どんなに好きでも、どんなに思いを伝えても、二人が選ぶことができないもの。
それは、結婚だ、と思った。
結婚という制度を選択できる関係性は、恋愛の延長ではない。戸籍上の性別で、男/女とされる、あまりにも個別の感情や現状とは異なるものによって決められている。

それでも恭一は今ヶ瀬に、一緒に暮らすことを提案する。
驚くほどに、無自覚に、無理解に、無頓着に。

今までも、そして今も選ぶことができる側にいる恭一。そして、二度もその権利を使って結婚をしたり、約束をしたりしている。
そんな恭一が、ひとりで待つこれからの時間に考えることは、制度の壁だ、とすごく現実的で、爽やかさを感じるのは難しいストーリーを想像した。

それでも私はそれが腑に落ちた。

ーーー

私の疑問は、世の中の結婚している人たちは、なぜ結婚しようと決めたのか。
周りの人たちは、制度についてたくさん話し合ったりとか、たくさん考えたりとかした様子もなく、そんな大きな決断ができたのか。
ということ。

この疑問の違和感は、きっと二人の関係のように選ぶことが叶わない人たちの存在を無視して、選択できる権利を行使しているように感じていたからだと思う。
そう、恭一のように、「まぁ、2年付き合ったしなんとなく。」と、選ぶことができる。
それはとても無差別に、無意識に、無自覚に、叶わない人たちに向けての差別となる。

恭一も今ヶ瀬も、普通の男であることに変わりはないはずであることと一緒。
二人の関係性が人生のパートナーになる関係であることは一緒。
しかし無意識にも「普通の男」という言葉で今ヶ瀬を普通ではないと傷つけるように、自分たちがなんとなく結婚を選ぶことで結婚を選ぶことができない現実を突きつけるように、誰かを傷つけているのではないか、置き去りにしてはいないか、という感覚が、この違和感につながっていたように思う。

だからこそ選ぶことのできる側にいる人が、選ぶことの意味や理由に向き合うこと、選ぶことのできない人の存在を知ることがまずは大事だと思った。

そんな生きづらいのかと思われるかもしれない。でも、今の状況で選択肢のない人たちがいる以上、選べる側にいる人間が自覚することで、変わることがある。
今までの無自覚への、行定組からの大きな訴えなのではないだろうか。

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