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サンハイツの思い出

一番古い記憶というのは、ぼくはその頃住んでいたマンションの三階にある部屋から、通りを隔てた向こうのマンションの窓の連なりを眺めているというもので、昼間だったが、薄暗い天気だった。

そのとき、ぼくはなぜか1人で、1人にされ、さみしい気持ちだった。

子供の頃、ぼくはいつも何か不安な気持ちを抱えていたような気がする。

そこは鹿児島市の鴨池にある、14階建てのマンションが9つだったか、たくさん並んでいる中のひとつで、「サンハイツ」という名前で呼ばれていた。

太陽集合住宅──かつて、そこは飛行場の滑走路だったらしい。

幼稚園に通う頃から小学4年生の頃まで、ぼくは家族と共にそこに住んでいた。両親にとってぼくは最初の子供で、そこに住んでいる間に妹が生まれ、そのあともうひとり妹ができた。

棟と棟の間には、公園があったり、広場があったりした。

公園と広場の違いは何かと言うと、公園は土の地面で滑り台やブランコなんかの遊具や砂場があり、草木が生い茂っていたりしているのに対して、広場はコンクリートの地面で座るところがあったり意味不明の台があったりした。

公園と広場のあるその空間を、子供だったぼくは友達と毎日のように走り回って遊んでいた。

いい壁があちこちにあり、その壁をバックネットに見立てて野球ごっこをしたりもしたのもいい思い出だ。

普段はあまり意識しないが、ところどころに背の高いヤシの木が並んでいた。台風の日には大きく恐ろしい音を立てて揺れる。しかし台風が来るといつもワクワクした。

雪は、そこに住んでいる間には、一度しか降らなかったような気がする。

大雪のあとの朝、その日は学校が休みで、父と妹と三人で下へ降りてゆき、人生初めての雪だるまをつくった。そのときの写真が残っているはずだ。家に戻ってベランダに出ると、その雪だるまが見えた。昼頃になって、父親が「こら!」と突然大きな声を出すので行ってみると、雪だるまの顔は崩れてしまっていた。

歩いて数分の距離に、「グリーンセンター」と呼んでいた巨大な芝生の広場があり、その周囲には小さな森や竹林もあった。

幼いぼくはそこでバッタを追いかけたり、キャッチボールを覚えたり、長距離走の訓練をさせられたりした。

ぼくの家族がそこから車で15分ほどの場所にある家に引っ越してから、「グリーンセンター」は消え、県庁が移転してきて巨大なビルが出来た。

車で15分と言えば近そうだが、小学生だったぼくには、大きな移動だった。あのマンションの空間と、グリーンセンターの風景から、ぼくは抜け出た。

同級生たちとの別れは、あんなに仲の良い友達がいたのに、それほど悲しくなかった。むしろ、ワクワクしていた。どうしてだろう。

サンハイツの下の、雑然とした自転車置き場、エレベーターに向かう小さな階段と、スロープ、エレベーター前にある集合ポスト、階段、ドア、全てが懐かしい。

大学生になって鹿児島を離れた後、帰省した際に久しぶりにサンハイツを訪ねてみたことがある。

そこにはもう走り回る友達の姿も、子供たちの姿もなく、全てのものが記憶よりずっと小さくなっていた。

(つづく)

「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"、1日めくって、3月24日。今日は、大きな落下物の話。

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