見出し画像

"無意味"にかんする覚書

今年はここ(note)では毎週・月曜に書こうと決めて書いている。昨年は毎日書こうと決めて書いて、365回書いた。ぼくはそういう人だ。中身には、それほどこだわっていない。書けることを書けばいい。「読む人に、こういうことを伝えたい」といったことをつくることも、ぼくはしない。伝わる人にはそんなことなしに伝わるだろう。伝わらない人にはそういうことをしても伝わらない──というより、ぼくは人にあらかじめ自分にわかっていることを伝えたくて書いているという気持ちがない。どちらかというと、書いてみて、それを見て(読んで)自分でも何かに気づく、といったふうだ。

とはいえ、先週までの3週分(3回分)は、ぼくの新刊『音を聴くひと』のこと、『ウェブ・アフリカ』最新号のこと、再開した「オトナのための文章教室」のこと、といったように、「そのことを書こう」として書くということをやった。

今週は、ひと息ついて、1ヶ月前までダラダラ書いていたことのつづきを書こう。──と思ったけれど、1ヶ月前に何を書いていたのか、忘れている。確認してみた。

ああ、『音を聴くひと』はその時にはもう入稿していたから、その「予告編」を書いたのでした。しかもこれは「続」なので、さらにその前の週も「予告編」だったんですね。ということは、ダラダラ書いていた(?)ところまで戻るには、6週間前まで遡る必要がありますね。

ちょうど学校が再開された時に、書いたもの。

この時のぼくは、初めて学校の授業というものを体験した我が子の「ぜんぜんおもしろくない」という感想にかんして、もっともらしいことを書いている。が、彼はそんな理屈っぽいことを考えて、「おもしろくない」と言ったのではないだろう。いろんなことが束となって押し寄せてきて、それを受け止めた。その感触が、「おもしろくない」という不機嫌そうなひとことになって現れた。

そのあと彼は学校へ行くと友達ができて、友達に会えるのは嬉しいという感じになったり、「大人が怖いから学校へ行きたくない」となったり(「大人」というのは先生のことかな、担任ではない、よくわからない先生のことだろう)、その間にもいろいろ波があって、揺れて動きつつ、なんとかやっているというふうだ。

我が子は、そこで何とか、折り合いをつけてやってゆけるくらいまできている、ということなんだろう。そのことには、ホッとするような、ちょっと心配になるような、微妙な感情を抱く。

彼に何か障害があったとしたら、そう簡単にはゆかなかったかもしれない。その苦労を思いつつ、しかし──本人の中には、しっくりこない、モヤモヤすることが、たくさんあるようだ。その感触を、手放さないようにしてほしい、とぼくは願ってもいる。

ぼく(彼の父親だ)自身は、どうだったか。手放せなかった、というべきか。手放そうとしても、向こうがついてきてくれた、そのことは幸運と言ってあげたいような気もするが、それによって社会的には相当に不利な、困難な道を歩んできたとも言える。──それを彼が子として「嫌だったな」と感じないような生き方をぼくはしてゆきたい。

あれこれ思い出して検証できる(?)のは、ぼくが書く人だったから、という部分も大きいのではないか、と最近は思うようになった。ぼくはけっこう何でも書いておく方で、それが作品(というふうなもの)にもなった。これといった専門があるわけではない。あえていうと、"ことば"が専門である。とはいえいろんなことばを知っている博識という感じでは全くなくて、むしろあまりよく知らない方かもしれない。専門家とは言えない感じだ。

しかし、ぼくの師匠(小川国夫さん)のことばを借りると、サッカーにどれだけ詳しくても名選手になれるわけじゃない、名解説者にはなれるかもしれないが…

話が逸れたけれど、「嫌だな」と思うのに、理由がはっきりしていないことは少なくないんじゃないか。というか、理由というものは大抵は後からついてくるものではないか。

だから「わかりやすい説明」ということが可能になる。あらかじめわかっていないことであれば、「わかりやすい」というふうにはゆかないはずだ。どうなるかわからないのだから…

音を聴くひと』には、ぼくがこの14年、出し続けている『アフリカ』という個人的な雑誌の編集後記が全て(29回分)載っているのだが、その最初の数年は、「わかりやすい」ことに流される日本社会(の風潮)への抵抗、ということを繰り返し書いているな、と今回の本の編集過程で思った。

わかりにくくていいんだ、と言いたいようだ。

いや、他人事のように言っているが(昔のことになるとそうなる)、いまでもぼくにはそういうところが継続してあり、わかりやすい言い方にぶつかると、警戒する癖がある。

物事は、多少わかりにくいくらいが、いいんだ、と。

わかりにくいものにぶつかると、スピードは、落ちる。だからいまの人たちはそれを嫌がるんだろう。速さへの信仰があるから。貨幣経済の思想が行き着くところとしては、充分だろう。お金を出したら、できるだけ速く品物が届く、というのが理想だからだ。ぼくだって買い物をする時にはそう思っている。気休めに「いつでもいいですよ?」と言ったところで、自分が死んだ後でもいいですよ、と思っているわけではない。

しかし書いたり、読んだりすることにかんしては、自分の死後に何か新しいことがわかる、ということが大いにあるわけだ。

昨日、とあるお笑い芸人(テレビ芸人)が、今回の東京都知事選の投票に行かなかった理由として「消去法的な選挙に意味があるのか」と言ったというウェブ・ニュースを見た。読んでみたらテレビ番組の中でのやりとりを紹介しているだけの記事なので、実際にどんなニュアンスで言われたのかぼくは知らない。その番組に出演していた別の人は、今回もやはり投票率が低かったことを嘆いていたそうだ。それを読んでぼくは考えてしまう。

選挙をすることに「意味がある」とか「意味がない」とか、そういうことを考えた結果として、大衆の人びとの投票行動が大きく変わるだろうか。

ぼくの中にも、この社会で行われているいろんなことにかんして「意味がないんじゃないか?」と思うところはある。選挙も、そのひとつになる場合がある。しかしぼくは「投票には何はともあれ行っておく」人である。意味があろうがなかろうが行くのは行く。「後々になって意味がわかるということもあるし…」というふうなことは考えられるが、だから行くという感じではない。「投票に行くこと自体に意味がある」と考えているわけでもない。ぼくの1票に意味があるかないか、本当のところは、わからないと言っておく方がいいような気がしている。しかしたとえ「意味がない」とハッキリしていても投票には行くだろう。意味がない選挙を社会を挙げて実施し、「意味がないですよー!」とやかましく言われるなら、やはり行くだろう。

投票所に行けば殺される、となれば行きたくないだろうが、しかしそれでも投票所に行かなければ守れない何事かがあれば(何かがあるから実施するのだろうし)、武装して行くのかもしれない。──ちょっと話が大げさになってしまった。話を少し戻すと、人は何か意味をもって行動しているばかりではないのである。

誰に、どの政党に投票するか、ということになると、少しは「なぜ?」を考えてはいる。しかし、いまの選挙はそれを考える材料を上手に提供しているとはまったく言えず、やはりそこもいい加減にならざるをえない。だからいまの日本人で、少しでも選挙を意識して見たことのある人なら、選挙に「意味があるのか」なんて野暮なことは今更言わないだろう。

その「消去法的な選挙に意味があるのか」と言った彼は自分の行動に、何かぴったりくるような説明を貼るのが好きなんだろう。もっと言うと、それを喜ぶ"客"がいるんだろう。"客"の質が、彼という芸人をつくっているわけだろうから。そしてもしかしたら、その大多数が、選挙が行われても投票に行かないような人なのだ。

いまの日本に何とかギリギリで張り付いているような上っ面な民主主義を自分なりに理解はして(いるつもりで)、投票には意味がないと言われても、ぼくは行ける限り行く。立候補している人の中に良いと思う人がひとりもいなくても行く。投票というのはその程度のものでいいと思っている節すらある。みんな意味もなく、何となく投票すれば、いい結果が出るんじゃないかという気もする。ただの直感で選ぶ、というのでいい。個人、個人はそれでいい。──もしかしたら本当はそれこそが正しい道なのかもしれない。と少し思わないでもないが、そんなものは空想、非現実的なことのようなのでいまは置いておこう。

今週は何を書こうと考える前に書き始めて、何となく書き始め、ここまでなりゆきで書いてきた。空想を書き連ねていると楽しくて、ついつい書く手が滑ってしまう。「投票に行けばお金がもらえるとしたら?」とか、逆に「投票所に入るには入場料がかかるとしたら?」という話を書きかけて、消したところだ。何の話をしていたのだったか… ふと思うんだけど、意味がない(かもしれない)と思われることには、何だか、とてつもない魅力がありますね?

(つづく)

先月、完成したばかりの下窪俊哉の作品集『音を聴くひと』(アフリカキカク)、のんびり発売中。

日常を旅する雑誌『アフリカ』のベスト・セレクション&モア『ウェブ・アフリカ』のvol.2(6/2020)は、メール・アドレス1本をご登録いただくだけで無料で読めます。ぜひどうぞ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?