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「なぞる」という表現〜佐藤雅晴の"尾行"をして水戸までゆく

風景の惹きつける力は、そこに、見ているぼくがいなくて、また、そこに、それを制作している人の自己がいないことから来る(加藤典洋「風景の影」)

昨日、書いた通り、今日という1日を自分にプレゼントすることにして、朝、電車に乗って昼頃、水戸駅に着いた。水戸へゆくのは初めて。というより上野から常磐線の先へ乗り入れるのが人生初であり、すっかり旅気分。何だか妙に楽しかった。
水戸へ行こうと思った理由はただひとつ、水戸芸術館現代美術ギャラリーで開催中の(今週末に閉幕する)「佐藤雅晴 尾行──存在の不在/不在の存在」を観るため。
往復の移動時間は約7時間、水戸での滞在時間(水戸駅に着いてから再び水戸駅を出発するまでの時間)が4時間、そのうちギャラリーにいた時間が2時間強というスケジュール。
昨年の11月にゆきたいと思っていたのだが、とてもそんな余裕はなく諦めていた。でも、と。佐藤雅晴さんの作品の全貌を、こんなふうに観ることができる機会は、もしかしたらそうない。今日の、この日なら思い切って行けるのではないか、と思った。

2016年に原美術館で出会った「東京尾行」は、いつまでも忘れられない作品だ。どうしてだろう? と思っていた。

その佐藤さんが亡くなったことを知ったのは、没後1年がたとうとしていた頃で、その情報を見て驚いた。だって、自分と10歳は離れてない、何があったんだろうと思った。「東京尾行」の頃、すでに癌で闘病していたなんて、知らなかった。あの映像をトレースした絵の花が、どうしてあんなふうなんだろう? と思っていたのだ。

今日、彼の初期作品('90年代後半)から最晩年(と言っても40代ですけどね)に至るまでの作品を、ある程度俯瞰して観ることができた。
はっきりわかったのは、彼の創作が花開いた背景には、2010年代という、あの時代があったということだ。
あの作品を前にして、私は同時代を少し俯瞰して見られていることに気づいていた、ということではないか。

そして、あの映像のある部分だけを「なぞる」という行為には、シリアスな理由があったということなんだろう。ただ、面白いよね〜、っていう感じではない。でも何だか妙に面白い。
それは、映像の全体を「なぞって」いる作品群を見ながら、じわじわと感じられてきた。

佐藤雅晴さんの(作品の)ことは、こんなふうにnoteで、1日の終わりに眠い目をこすりながら書くのでは到底、書ききれない。いつか、彼の作品について書きたいというか、いや、そうじゃなくて、彼の作品に影響を受けたことを隠そうともせずにあからさまにして、何か書けるようになる日を私は待っている。

(つづく)


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