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戦場の中の日常、日常の中の戦場

先週は『アフリカ』最新号(vol.30=2020年2月号)のことを書きましたが、毎日ように、ぽつ、ぽつとご注文をいただいていて──ありがとうございます。

お問い合せをいただく方とは、メールのやりとりもあり(いちおう事務連絡に徹しておりますが、なぜ買おうと思ったか書いてくださる方もあり、届いてから短い感想をくださる方もあり)楽しませてもらってます。それが面倒な方には、BASEのウェブショップもありますので、ご利用くださいね。

さて、新型コロナウィルスの騒動が、予想していた以上に大きくなり、えらいことになっている。政府の対応の遅れや甘さは、もうハッキリしており、腹もたつが、それ以上にいろいろと困ったことになってきた。

出店予定だった障害のある人たちの施設・横浜らいずでの「丘の上のマルシェ」が中止になったのは、まぁ、予想の範囲内だった。しかし、ありとあらゆるイベント事が中止になるとか(開催される方が希という状況)、図書館・美術館・博物館などの施設が軒並み休館に入ったり、ということまでは、予想はできたとしてもその前に何か状況が見えてくるだろうと思っていた。が、これからどうなるのか、その前に現状がどうなのか、イマイチはっきりしないまま、首相が全国の学校の休校を"要請"したのには耳を疑った。ウィルス感染の拡大状況には地域差があると聞いていたので、"全国一律"というのにまず驚いたのだった。しかし驚きはその後、どんどん膨らんでいった。報道などでご存知だと思うので、これ以上は書かない。

こうなると、ぼくの仕事にも影響は出てくる。まったくなくなるというわけではないが、減ってゆく傾向にはあり、普段から少ない収入がさらに減る見込み。息子の通っているところも当面の休みが決まり、中旬に予定されていた卒業式も延期になった。

ぼく個人にはどうしようもないところが大きい。いまは、できることをやっていようと思う。節約を重ねつつ(とはいえ虚しくならない程度に美味しいものを自宅でつくって食べ、安酒も飲んでいる)、外に出る仕事のない日には家での仕事に精を出し、書いたりつくったりすることをいまは精一杯やろう。

国会で何が行われているかには、いつも以上に目を注いでゆこう。いまは"批判"というと、何だかよくないイメージがあるとかないとか? でも、あのね、物事を批判的に見ることができなくなったらおしまいだよ。

批判は、議論を深める。批判は、必要なものだ。

この社会の様子を見て思い出すのは、やっぱり3.11の後で、被災地ではないが影響はあった関東地方はこんなふうだった。あの時、スーパーの棚からカップ麺やらパンやらが消えるということがあったが、今回もそれに近いことが起きている。ただ、みんなさすがにやりすぎだと思ったのか、近所のスーパーでは今日になって通常の様子に戻った。しかしマスクが入手困難になっている状況は変わっていないだろう(今日は未確認だが)。

3.11の後もぼくはそうしたのだが、いまこそ肉、魚や野菜を買って、美味しくいただこう。店は営業している。暮らしは、止められない。

つまり、いま、休止している営みは、暮らしにとって絶対になくてはならないものではない(少なくとも社会全体としてはそう思われている)ということなんだろう。

学校は休みにしても、電車は何事もなかったように走っている。通勤電車が一番危ないと思うが… しかしそれをなくすための"要請"は、いまのところ首相もしていない。「電車に乗り、会社へゆく」ということは、一部の大企業を除いて続けられている。

この社会(の人びと)が何を大事にして、何を大事にしていないか、この機会によーく観察しておきたい。

いま、山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)という本を読んでいる。40年以上前の本らしいが、これは自分にとって「いま読むべき本」の1冊になりそうだ(まだ最初の方しか読んでいないがそう感じている)。

一体、以上に記した「空気」とは何であろうか。それは非常に強固でほぼ絶対的な支配力をもつ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。以上の諸例は、われわれが「空気」に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのではないことを示している。だが通常この基準は口にされない。それは当然であり、論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と呼ばれているのだから。従ってわれわれは常に、論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の二重基準(ダブルスタンダード)のもとに生きているわけである。

「以上に記した「空気」」とか「以上の諸例」がどんなものかはあえて説明ぬきで引用したが、現在の安倍政権が「論理的判断の基準」よりも「空気的判断の基準」をかなり大きく見ていることは明らかだ。

しかし、ウィルスが「空気を読む」ことはしない。また、その「空気」はどうやら日本にしかない。まぁ、問題となることは他にもいろいろありそうだが、いちいち挙げてゆくのもアホらしいのでいまは止める。

それはしかし安倍政権の問題というより(それは大きいが)、日本社会全体の問題で、みんなで考えないといけない問題なんだろう。これまでそうだった、現在もその延長にある、ということを確認したうえで、これからどうしよう、ということを決めるのはいま生きている私たちではないか。たとえば、差別が蔓延した状況を放置するのか、変えてゆくのか。本当は「空気」とか言ってる場合じゃないんだよ、バカ、とか言いたくなるのをぐっとこらえて、放置するのか、変えてゆくのか、の両方を前に置いて話をしたい。とくに、こどもたちと話したい。

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SNSなんかをつかって「『アフリカ』はいらんかね〜」なんてウェブをつかった小商いも、いまはむしろ旬だから(つまり、家にこもれという感じもあるので)ボチボチやっています。

ぼくという編集人が書く宣伝文(?)だけでは、足りないような気がしている。読むひとの声が、本を(雑誌を)育てる。

『アフリカ』のことを、ふと思いついて、"日常を旅する雑誌"と呼んでみたのは2012年頃だったが、「"日常を旅する"をテーマにした雑誌をつくろう」と考えてつくったものではないし、いまもじつはそういうことを考えてつくっているわけではない。結果的に、なんかそんな感じ? と感じることをことばにしたキャッチコピーなのだが、ぼく自身はあまりそういうキャッチコピーを信頼していない。まぁ、アフリカだけじゃ、何が何やらサッパリわからないからさ… とふてくされたようにそう呼んでいるだけである。

しかし、「戦場にも、日常があり、日常のなかに、戦争はある」なんて言われると、ぼくが編集者として(また書き手としても)『アフリカ』と付き合う中で"日常"ということばを浮かべたのは必然のことだったというふうにも思えてくる。

読むひとの現場から、いただくことばも、時々ご紹介したい。他愛のない感想文で構いませんから、書いたらぜひ(もしよかったら)知らせてください。たのしみにしています。

(つづく)

オトナのための文章教室」は、とりあえず春までは横浜のみで開催中。次回は、3/28(土)10時からの約2時間。3月のテーマは、「音を書く」です。参加者、常に募集中。※新型コロナウィルスの感染拡大の状況によっては、どうなるかわからない情勢ですが、とりあえずは開催の方向で検討しています。

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