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時代を跨いだ対話の声〜戸田昌子監修『われわれはいま、どんな時代に生きているのか 岡村昭彦の言葉と写真』

今週はこの本のことを書こう。──と、1週間前から決めていたが、ゆっくり、ゆっくり読んでいるので、まだ全てを読み終わってない。読み終わってないと思う。思う、というのは、最初のページから最後のページまで順番に読み進めていないからだ。いまはおそらく9割を読んだくらいのところで、ここでは例によって(毎週のように)たいした準備もせず、だらだら書き始めています。

この本とは、戸田昌子監修われわれはいま、どんな時代に生きているのか 岡村昭彦の言葉と写真(赤々舎)のこと。

戸田昌子さんのことは、以前にも何度か、書きました。最近は、『音を聴くひと』のことを書いた時にご登場いただいていました。

その『音を聴くひと』のあとがきには、こう書いてあります。

戸田昌子さんからは、ぼくの書くものについて、ありがたいことばをいただいた。書かれた内容について言及されることはあっても、表現そのものについて言われることはあまりない。戸田さんは写真史の研究者だが、ことばのプロでもある。自分が音楽の奏者だとしたら、音を褒められたような嬉しさがあった。

いま書きながら手元に置いてある本は、その戸田さんの監修による新刊で、ベトナム戦争や北アイルランド紛争、ビアフラ戦争などの取材で知られる報道写真家・岡村昭彦の「言葉と写真」を編集したもの。

「エッセイ集」とも呼ばず「写真集」とも呼ばず、「言葉と写真」と呼んでいるところに、この本の性格がよく現れています。

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(上の写真は、仕事で日常的に行き来している蒲田の路上にて)

岡村昭彦という写真家のことは、2014年に東京都写真美術館(TOP MUSEUM)で行われた岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべてという写真展を観て、初めて知りました。

その時、彼の撮っている戦地・紛争地の一コマ、一コマが、思いもよらず身近にぐっと迫ってきたのが印象的で。たとえば死者を(死体を)撮っている写真ですら、悲惨な、目をつぶらせようとさせるものではなく、逆に目を開かせようとしてきた。そのことには、ちょっとびっくりしたことを思い出します。美術館の中で見たから? かもしれない。いや、それだけじゃないだろう。そこにある光景を、現実のもの、生活の中の明るさ(?)の中にあるものとして見ていた。

その時の企画展は、戸田さんによると「公立美術館で行われた岡村の初の回顧展であり、岡村が残した五万点の写真すべてを精査して行われた」ものだったそうです。

われわれはいま、どんな時代に生きているのか 岡村昭彦の言葉と写真は、その展覧会における仕事を経てきた戸田さんがあらためて対峙した岡村昭彦の写真と、彼の書き残した言葉とが響き合ったところにある何かが、コンパクトにまとめられているというよりも、あぶり出されるように置かれています。

ここに載っている岡村の文章の多くは、前後を省略した部分的なもののようだけれど、文章のかけらを拾い集めているという感じはしない。どれも、ひとかたまりのエッセイとして、じっくり味わって読みます。

その、ところどころに、戸田さんの文章も入る。たまに、ふたりが対話しているような錯覚に陥る部分もあります。

(響き合って、架空の対談くらい行われそうな感じがある。)

岡村さんはロバート・キャパ(と土門拳)を敬愛していたそうだが、キャパについて書いた文章を少しひくと

私はキャパに会ったことはない。私の知っているキャパは、『ちょっとピンぼけ』の中に生きているキャパであり、彼の写真の中に生き続けているキャパである。

この「キャパ」を「岡村」にして、『ちょっとピンぼけ』を何かに変えたら、戸田さんの文章と二重に見えてくる。

その文章の中で岡村は、キャパを白黒写真の中でこそ生きたカメラマンだったと評していて、もしキャパが自分と同じベトナム戦争の現場にいても、カラーではなく白黒で記録したのではないかと言っている。そこでは、岡村によるキャパとの対話がある。

一方で、戸田さんは「敬愛するがゆえに岡村は、キャパの仕事を超えるためにどうするかについて意識していたのではないだろうか」と問いかける。そして、岡村が使っていたカメラの話に入ってゆく。

この本はそんな感じで、流れるように進む(私はその流れに沿って読んでいないのだが、流れがあることはよくわかる)。やがて、戸田さんの文章は挿入されていないところでも、岡村×戸田の対話が聞こえてくるようになってくる。編集というのは、そういうもので、聞こえてくるものだ。

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本のタイトルは、あるエッセイのタイトルを使って「われわれはいま、どんな時代に生きているのか」となっている。──とすると、キャパの時代、岡村の時代があり、その先に戸田さんの時代がある。戸田さんの時代は私の時代でもあり、私たちの時代でもある。そんなことを意識します。

「SFは誰のためのものか」というエッセイでは、アメリカ軍の人たちが何やら話している後ろ姿を撮った「アメリカ軍事顧問の内の一人が、後手にジョージ・オーウェルの『一九八四年』というSFを持っている、白黒の写真」をめぐって、いろいろ書かれる。その中にこんな一文を見つけた。

本というものは、それが読まれる場所と時間と人物により、思いがけぬ光にさらされるものだ。

その写真が撮られたのは1964年で、その文章が書かれたのは1980年である。1964年には「この青年を生み、育てた。アメリカという国のSFの重みを、資本主義経済の発達の歴史の中で位置づけるという視点が、欠落していた」と岡村は書いている。

しかし写真は語り始める。「思いがけぬ光」の中で。

さて、いまは2020年の9月だ。この本が、どんな「光」の中にあるのか。もう少し書いてみよう。この続きは、また来週。

つづく

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