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ルーツ的な話4

この題でよいのかわからないですが。

ここには、自分の主に写真に関しての考え方とか、それに行く着いたのはなんでなのかを書いてます。

で、今日写真雑誌を読んでいて、「日常の無意識化の状態でより多くの影響を受けておくことが、写真に置いての引き出しをつくる。」というようなことが書いてあった。

それを読んで、またまたやっぱり!と思った。

この間もそんなような話があったけど。

でも、これは無意識化でということなので、結局日々、何を見るにしても見る目を作ることができるよ、そしてそういう意識で見ていることで、自分が写真を撮るときに「無意識的に」頭の中にある、アイディア(構図とか、何をとるかなど)が引き出しから取り出して使うことができるよってことだと思う。

だから、この間は「写真以外のいろんなものを見て幅を作ることが大事」という話をしてたけど、これはもっともっと広く、例えば、コンビニ行った際の並んでいるパッケージや、POPもそうだし、景色からのインスピレーションだったり・・・なんでも「見よう」と決めれば見ることはできるし、それを取り入れることができる、でも、この文章はもっともっと、深くて、「無意識化」での影響なんですよ。

なので見るって思わなくても目に入ってくるもの全てから影響を受けてるわけで、そうなると自分の回りに一体何を置いておくかに繋がっているような気がする。

こう書いていてフッと思い出す。

私達はまわりにあるものはすべて自分や、自分の回りの人たちが持ってきた、買ってきたものである。だって、いきなり、家に帰ったら、頼んでもないものが「ぽっと」そこにあったなんてことないわけで。

そう考えると、自分が選んだものたちからの影響を得ている。ということになる。

だとすると、自分が適当に選んだもので囲まれている生活をしていた場合において、その適当✖沢山のものが私の無意識化のベースになる・・・と考えると何とも言えない気分になってしまった。

しかし、おそらく、そんな風な意味合いで書かれた文章ではないだろう。

話をすこしだけ前に戻す。

「意識して見た」ものというところまで戻す。

意識してみると自分が如何にいろんなことを普段「見て」いないことに気づく。これはきっとわたしだけではないだろう。

この意識せず、いろんなものを見るというのは、「とくになにをとりたいかもわからないけど、沢山撮った方がよいよね」といって、なにもかんがえず、連写でパシャパシャ撮るという行為に似ている気がする。

そこに意味もなにもない。そこからはなにも生まれない。・・と私は思う。

そうなると「無意識化の影響」に対しての矛盾が生まれる。

無意識化の影響・・・は必ずあると思う。

書いててまた、わからなくなってきた。

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