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うつろなクリスマスイヴ

 ガザ地区で虐殺が起きているさなか、今年はイエス誕生の地ベツレヘムの教会ですらクリスマスを祝わないのに、「メリークリスマス」って何を祝っているのだろう。

 もし自分が子どもの遺体が地面に並んだ写真を見た後でも、お茶を一杯飲んでいる間にも人が殺されていると知りながらでも、いつも通りに好きなことを楽しめるような人間だったらと考えるとゾッとする。だからこれは人の感情の動きとしておかしくはないはずだと言い聞かせる。

 ただ、ツイッターを開けば、推しユニの新譜やMVに盛り上がっている人がたくさんいる。わたしもその一員であるはずだった。楽しみでたまらなかった。でも楽しめない。何より大好きなものなのに、全然盛り上がれない。いつもならいいねボタンを押すようなファン界隈のツイートに、激しい嫌悪感を抱きすらした。でもわたしもずっと楽しみにしていたのだ。そのことを誰かに伝えたいし信じてほしいと思う。

 わたしは趣味は誰かと繋がる手段、コミュニティを形成してみんなでワイワイ楽しむための方法ではなく、あくまで個人の心に属するものだと考えている。推しは祀りあげて搾取・消費する対象ではなく、一方的にならざるを得ないとはいえ、真正面から誠実に向き合うべき存在だろう。
 これは今に始まったことではないが、何かを好きだというのはどういうことなんだろうとずっと疑問に思っている。

 わたしは、わたしに対して優しい人が、他人に対しては冷淡さを見せる瞬間がものすごく怖かった。その逆でも同じだ。相手の立場によって物事の基準が変わることが嫌いだし、恐ろしくてたまらなかった。その恐怖を与えないことが何かを愛するということなのではないかと考えていた。
 あえて推しの文脈で表現すると、踏み絵を踏まされる時の葛藤って、きっとこの延長線上にあるものなのだろうなと思う。
 ていうかシンプルに、わたしの応援している推したちは、理不尽な惨事に心を痛める人たちだと思うんだよなあ。

 でも、言うて私も最近まで関心低かったじゃねえかという罪悪感がのしかかってくる。何も見ていなければ普通に楽しんでいたのだろうけど、その方がよかったとはまったく思わない。ゾッとする。
 にも関わらず自分の趣味なんてそんな小さなことにばかりこだわってしまうケチくさい根性も腹立たしい。自分が悩んでいるからといって周りに八つ当たりして巻き込みたいわけではない。ただ漠然と申し訳なさが日に日に増幅していく。罪悪感の範囲をどこまで広げたら、あるいは狭めたらよいのか、わたしが勝手に決めていいんだろうか。
 そういうバランス感覚がうまく取れてたら休職してねえのよな〜〜

 どう聴いたらいいかわからなくて未だにちゃんとアルバム聴けていないけど、ずっと楽しみにしてたし応援してるし大好きなんだ。信じてほしい……

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