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三浦春馬さん映画「天外者(てんがらもん)」を10倍楽しむために 薩摩藩と幕末の名君・島津斉彬

十人が十人百人が百人好む処に人物は絶てなきのみならず、古今少なしとす、人材は必ず一癖あるもののなかに選ぶべし (島津斉彬の人材登用についての発言)

多くの人材を幕末に輩出した、薩摩藩の藩主にふさわしい島津斉彬の発言です。

九州の最南端に位置する鹿児島県のあたりにあった薩摩藩。映画「天外者」をより楽しむために、五代友厚のバックグラウンドを語るうえで欠かせない薩摩藩のお国柄、彼が色濃く影響を受けた幕末の名君・島津斉彬(「天外者」では、榎木孝明さんが演じられるようです)について語りたいと思います。

お国柄エピソード:関ヶ原の戦い  島津義弘、正面突破で帰郷

薩摩藩が藩として置かれるより前、九州南部には島津氏という大名がいました。その主君島津義弘は関ヶ原の戦いに西軍として参加し、なんと家康軍のすぐ横を正面突破により退却し、生還するという離れ技を実現させています。こんなことができたのは、主君である島津義弘が人間味ある魅力を兼ね備えた武将であったことで、家臣団が非常に忠義に厚くなり、結束の固い集団だったからだと言われています。

その結束力と忠誠心、武力は家康も恐れていたようで、このような屈辱的なことがあったにもかかわらず、家康は島津の領地を減らしていません。

島津氏を中心として成立した薩摩藩は、士族が多く、高いモチベーションを保つ戦闘集団として当時名を馳せていたのでしょう。江戸から地理的に遠いことも手伝ってか、旧来の支配体制を残した独特の体制を保ちます。江戸時代の末期までは、幕府の有力藩弱体化政策の影響などもあって困窮しますが、琉球貿易の拡大などの政策により、幕末にかけて財政状態を回復させ、島津斉彬の政治につながっていきます。

薩摩藩を支えた琉球貿易

江戸幕府が成立して数年後、薩摩藩は琉球に出兵して併合し、服属させます。琉球貿易の内容は、主に砂糖の輸入ですが直接琉球の物資で儲けたというより、琉球を通じて中国と貿易を行うことが利益をもたらしていたようです。1827年から、調所広郷の政策により砂糖の専売制や琉球貿易の拡大で、それまでひっ迫していた薩摩藩の財政状況が好転します。薩摩藩の財政基盤を語るうえで、琉球貿易は欠かせない要素です。


幕末の名君・島津斉彬の思想と政治

1851年、島津斉彬は第11代藩主になります。同時の時代背景をざっと見ると・・・

・1842年にイギリスと清(中国)がアヘン戦争で争い、清が負けて賠償金を払わされた(当然、琉球貿易をしていた薩摩藩にこの情報は入り、斉彬に衝撃を与えたでしょう)

・1844年にフランスの軍艦が、さらに2年後にはイギリスの軍艦が琉球を訪れていて、通商を迫る(つまり、ペリー以前に薩摩藩は国際関係に対応していたことになります)

・1853年、ペリー浦賀に来航

このような状況でした。藩主になる以前から蘭学に親しみ、西欧文明に強い関心のあった島津斉彬は、政策として農業を振興し、工業団地とも言うべき集成館を作り、軍備を強化しました。それらを要約する思想として、諸外国から開国を迫られる日本には「富国強兵」が必要であることを提唱しています。

いわば、江戸幕府より前に国際問題に直面して対処せざるを得なくなった藩を率いるものとして、島津斉彬の思想と政策は先進的であったと言えると思います。「外国と通商を開くには、貿易品の第一は金銀なり、農工と鉱山は国の本なり」という言葉を残していますが、この言葉は恐らく、五代友厚の生涯を通じて、彼の頭の中にずっとあったに違いありません。五代は実業家としていくつもの鉱山採掘に携わっています。

まとめ

島津斉彬は藩主になってわずか7年後に病没してしまいます。幕末という激動の時代における薩摩藩(と倒幕)の舵取りは、この後、実質的に弟の久光が担うことになります。五代友厚の青年期に、島津斉彬の思想に触れたことが彼の実業家としてのありように強い影響を及ぼしていることは、五代の実業家としての歩みを辿れば明らかです。

「天外者」では、島津斉彬(榎木孝明さん)と五代友厚(三浦春馬さん)がどのように描かれるのか、とても楽しみです。


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