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棒演技と言う勿れ 『真夜中の五分前』

ミュージカル『ヘアスプレー』の曲「You Can’t Stop The Beat」の日本語訳詞の中に、こんな一節がある。
「時計の針は止められるけど 時は止まらないってみんな知ってる」

誰にとっても平等に流れていく「時」。だがあまりにショッキングな出来事があると、ひとは自分だけが時の只中に放り出されてしまったような気持ちになる。自分の時計の針だけが、止まってしまったかのような。

本作の主人公・リョウ(三浦春馬さん)は、日本人だ。上海で時計の修理工をして暮らしている。止まってしまった誰かの時計を動かす仕事。彼自身の針もまた、そうなってしまったことがあるのだろう。

静謐な映画。旧市街でもギラギラした最先端の都会でもない上海の裏路地には、ひとびとの日常が息づいている。その街でひっそりと生きる異邦人のリョウ。彼のたどたどしい中国語で出来る仕事は限られる。時計と向き合い、ただ静かに、丁寧に、修理する。まるで、かつて恋人の死で止まってしまった自分の時計の針を動かすかのように。

双子姉妹の姉ルオラン(リウ・シーシーさん)との出会いが印象的だ。プールで彼女の泳ぐ姿の美しさに見惚れる表情も、視線に気づかれ目を逸らすさまも、どこにでもいる日本人の青年。感情をあまり表に出さないリョウが、ルオランといるときは、ほんのりと楽しげ。しだいに恋に落ちてゆくリョウを、三浦春馬さんはリョウが時計を直すように丁寧に丁寧に演じている。

社交的ではないが、ちょっと性格的に不器用で、やさしくて、誠実。亡くなった恋人と同じ「5分遅れ」の世界を自分と生きてほしいというのはやや独りよがりではあるけれど、三浦春馬さんの体現するリョウのまとう空気に、強引さは微塵もない。僕の隣にいてくれませんかと、お願いされている感じ。ティエルン(チャン・シャオチュアンさん)との対比も効いている。

忘れられない場面が2つある。

ひとつは、ルオランとルーメイが行った旅行先のモーリシャスの病院で、目を覚ました彼女がティエルンの手を握る場面だ。ルオランからの手紙を見つめながらのリョウの回想。目覚める前の心配げな表情は、彼女の目に自分が映っていないと気づいたとき、わずかに、ほんとうにほんのわずかに変わる。「ぁ・・・」声にならない声がわたしに聞こえてくる。彼女とティエルンが見つめ合っているのを横目に、リョウは病室を出る。

わずかな表情の変化で伝わる感情は、高橋一生さんが演じた『おんな城主直虎』の小野但馬守政次でずいぶん観たと思っていた。けれど、それよりずっと微細な変化で役の感情は伝わってくることを、三浦春馬さんは教えてくれた。

もうひとつは、ラストシーンだ。ルーメイ(ということになっている)が置いていった時計を手に、リョウは勤め先の時計店を飛び出す。ルオランに渡した5分遅れの世界が「いま」になって戻ってくる。

次にあなたに会う時は
私は今を生きてみたい
5分前でも 5分後でもない 今を

ずっとリョウの中に残っているだろう、ルオランからの手紙に書かれた言葉。リョウは自分が渡した腕時計が「いま」を指しているのを見て、目の前の女性と向き合う。彼女の時間と、リョウの時間が重なる。ほんとうの意味で腕時計が修理された瞬間だ。止まっていた彼女の時間とリョウの時間が、再び動き出す。

セリフはない。あるのは音楽と時計が午前0時を示す音だけ。夜の静寂のなかでリョウと対峙するのは、ルオランであり、ルーメイ。三浦春馬さんとリウ・シーシーさんの、頑ななほどに感情を抑えた芝居と芝居がぶつかり合って、わたしの心を震わせる。

感情の抑揚が明確に分かるようなお芝居が「名演」で、抑揚が分からないお芝居は「棒演技」と言われることがある。だがそんなにしょっちゅう感情を乱高下させている人ばかりじゃないだろう。リョウという「にんげん」、ルオラン(ルーメイ)という「にんげん」を体現するとき、感情をあらわにする「名演」はむしろ邪魔だ。三浦春馬さんもリウ・シーシーさんも、そのことを十分すぎるほど理解している。

リョウと彼女がともに生きる時間が、長く続きますようにと祈っている。

『真夜中の五分前』フルネタバレレビューはこちら。


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