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「しゃぼん玉に舞う」第二章 旅人①

 銀座駅から上がった江崎晴香はその暑さに深くため息をついた。地下から上がってきた地上は自動車と太陽の熱によって蒸されているように暑かった。もしかしたら「地獄に落ちる」という言葉は天から見た地上なのかもしれない。
 晴香はできるだけ日陰を通って駅から徒歩五分ほどのところにある高層ビルを目指して歩いていた。道を一本挟んだ先までのところで信号に引っかかってしまい、足を止める。目の前に高くそびえるビルを見上げていると、晴香の胸の内からふつふつと怒りが混みあがる。
 昨日、ホームページで晴香が応募していたフォトコンテストの結果が発表された。晴香は一週間前の電話で大賞に受賞したことを事前に知らされていたが、改めて自分の名前が載っているのを確認してしみじみと実感する。全国から一万点以上も集まる大規模なコンテストの大賞を受賞したと聞かされた時は飛び上がるほど喜んだ。選考期間、働いているスタジオの先輩にも「今年の大賞は晴香で決まりだな」とまで言われていた。別に先輩が審査員ではないので確証はなかったのだが、自分も信じて疑わなかった。
 そして、思い描いていた通り大賞を獲った。自分の名前と応募した写真が画面いっぱいに出てくることに感無量だったが、ホームページを見た晴香は気に喰わなかった。選評を審査員の数人が書いているのだが、その誰もが大賞の晴香より『特別審査員賞』を受賞した人を高く評価しているような文章だった。これではどちらが大賞か分からないほど、審査員の意識はその特別審査員賞受賞者に向けられていた。
 さらに、最終選考で落選した人の中にはすでにプロとして活動している人やSNSで反響を呼んでいる人もいた。その中で特別審査員賞に選ばれた人は名前も聞いたことなければ、検索をかけてもその人の過去の写真は一切出てこない。
 もちろん、写真は感性であり芸術であるので全くの素人が受賞しても何ら不思議ではないが、大賞を獲った晴香としてはその受賞者の写真を見ないことには気が済まなかった。だから、こうして休みをもらってコンテストを主催した会社に出向いているわけだ。不躾な気もするが、それくらい訊く権利はあると思う。
 やっと信号が青に変わり、晴香は誰よりも早く歩きだし、大股で横断歩道を横切る。
 暑さと苛立ちで余計に汗が噴き出てきた。

 ビルの中に入った瞬間、少しだけ涼しく感じたが、微弱な冷房のせいですぐに熱さが蒸し返す。奥にあるエレベーターが来るのを待ち、人の流れに負けぬように踏ん張って何とか箱の中に納まる。
 重力と箱詰めによる圧力と闘いながら、エレベーターはぐんぐん上がっていき、二十一階で晴香は降りた。エレベーターを出てすぐの扉を開けると受付の女性が見事な角度で出迎えてくれた。
「今日はどなたかとお会いするアポイントメントはしておりますか?」
 怒り心頭で出向いたため、事前に連絡をしているはずがない。焦った晴香は咄嗟に受賞の連絡をしてくれた女性の名前を告げると「少しお待ちください」と受付の女性はにこやかに言い、奥へ取次に行った。しばらく受付前で待っていると、黒のシャツにグレーのパンツを履いた三十代の女性が受付の人と一緒に現れた。胸上まで伸ばした黒髪は大きくカールして彼女が動くたびに大きく揺れる。
「えっと、申し訳ございませんが、お名前をお尋ねしても」
 女性は不審そうに晴香を見ながらも丁寧な対応をする。晴香は深く頭を下げた。
「遠山晴香です」と言うと、ああ、と口と目を丸くした。突然訪ねてきた目前の女の正体が分かった安堵と、その女がどういった用件で自分のもとに来たのか理解できていない、そんな複雑な表情をしている。当然の反応だ。
 困惑している彼女の前に一歩出て晴香は力強く話した。
「少し、お聞きしたいことがあって伺いました」
 彼女の眉尻が八の字に下がる。


 会議室に通された晴香は向かいに立っている女性、順子と名刺を交換して席に座る。
「アポもとらずに来てすみません」
「構いませんよ。ちょうど時間も空いていたので。しかしお電話でも話した通り、授賞式は来週ですが、今日はどういったご用件で」
 首をかしげる順子に持っていたスマホを操作してここの会社のホームページを表示して見せた。
 この、と言いかけたところに外からノックが鳴り、「失礼します」と言って受付の女性がお茶を持ってきて部屋から出ていった。タイミングを失った晴香はとりあえず持ってきてもらったお茶を一口すすった。今作ったのか粉が完全に溶けておらず、思わずむせてしまう。
「大丈夫ですか」と心配する順子に咳をしながら安否を伝える。
「それよりも、今回の特別審査員賞の写真家ってどんな方ですか?」
 順子は少し前かがみになって画面を覗き、
「申し訳ございません。実は私も実際にお会いしたことはないんです」
 と言って、首を振る。
 せっかく来たのに何の手掛かりもなしで帰るなんて晴香のプライドが許せなかった。晴香は立ち上がり、固めて並べられている机をぐるりと回って順子の隣に座った。
「だったら、その方について何か知っていることはありませんか。どんな事でもいいので」
 あまりの熱量に若干押されながらも「少しお待ちください」と言って順子は思いだしたかのように部屋から出ていった。
 すぐに帰って来た順子は持ってきたノートパソコンを机に広げてタッチパッドをなぞりながら画面上のページを動かしていく。
「個人情報ですのでお見せすることはできませんが、この方の働いている場所ならわかりますけど、それでもよろしいですか?」
 晴香は迷わずに「よろしくお願いします」と即答する。すると順子はノートパソコンと一緒に持ってきたメモ帳を一枚ちぎり、そこに住所を書いて渡してくれた。どうせなら自ら出向いてその顔を拝んでやろう。
「ありがとうございます。早速行ってみます」
 頭を深く下げて会社を後にしようとする晴香を順子が呼び止めた。
「もし会えたら『授賞式には来てください』と伝えてくれませんか。何度も電話をかけているんですが出られなくて困っているんです」
 わかりました、と言って晴香はタイミングよく来たエレベーターに乗った。
 下りるときのエレベーターには晴香しか乗っておらず、人が乗っていないのはそれで物寂しく感じた。


 北鎌倉駅に降りた晴香は順子から教えてもらった住所をマップに入力して、スマホを見ながら目的地へ歩き始めた。
 世界中から人が集まる隣の鎌倉とは異なり、北鎌倉は静かで素朴な雰囲気が漂っている。新しいカフェや雑貨のお店もあるが、それらも古都に溶け込んでいる。その森閑とした小道を歩くこと十五分、鼻の頭に大粒の汗を浮かばせながら晴香は小さな店の前に来た。
『目的地に、到着しました』とスマホからアナウンスが聞こえてポケットにしまった。目の前の店は白を基調とした家のような外観で、店の前の小さな立て看板には『笹崎写真館』と書かれていた。どうやらここで合っているようだ。
 彫刻の施されたドアノブを引いて開けると、チリンと涼しげな音が鳴り響いた。ドアを開けた拍子に部屋の中からコーヒーと、使い古した革製品のレトロな香りが風と共に流れてきた。部屋に入ってすぐの向かい合わせに置かれている革で作られたこげ茶色のソファー、その間にあるガラスのテーブル、そして右奥は赤い幕で仕切られていた。深みのある幕の隣、ドアから一番遠い場所にもデスクと椅子があり、白髪の男性が椅子にもたれて新聞を広げていた。デスクの上には飲みかけのアイスコーヒーが置かれている。彼が目当ての男性なのだろうか、緊張な面持ちで声をかけると男性は新聞から顔を覗かせた。
「おや、気づかなくてごめんね」
 低いが、耳にすんなりと入ってくる心地いい声だった。温厚そうな男性に緊張が一気に解けた。男性は新聞を半分に折ってテーブルに置き、かけていた眼鏡をはずした。
「今日はどういったご用件かな。記念撮影、それとも就活用の写真かい」
 晴香が止める間もなく、男性はデスクの引き出しから様々なカタログを見せてうれしそうに話し始めた。しばらく相槌を打っていた晴香だったが、終わりそうにないので話を遮るように口を開いた。
「今日は写真の依頼ではなく、あなたにお会いしたくて」
 まくし立てるように話していた男性がぎょっとして首から提げている眼鏡をかけなおしてじっと晴香の顔を見つめる。
「君とどこかで会ったことがあったかな。いやあ、歳をとると覚えが悪くてね」
「いえ、実際お会いしたことは。このコンテストに応募されましたよね」
 そう言って、晴香はスマホを取り出して例のコンテストのホームページを男性に見せると、男性は納得したかのように首を大きく縦に振った。
「それは残念ながら私じゃないよ。少し待っててくれ」
 男性は隣の幕に向かって「おーい」と呼んだ。しばらくすると、幕が開いて中から一人の青年が現れた。
 彼を見た晴香は思わず息をのんだ。すっきりとした短髪だが柔らかい髪、澄んだ薄茶色の瞳、見た目は普通だが、彼の内側から並々ならぬ雰囲気を感じた。
「お客さんだよ」と目の前の男性が立ち上がって奥に消えた。机の前に佇む晴香を見て青年は小さく会釈した。
「初めまして」
 消えそうなほど透明感のある声だった。
 目の前の青年を見て晴香は確信した。
 間違いなく彼が晴香の探していた写真家、蒼井詩だということを。
 机に残されたアイスコーヒーの氷がカランと音を立てて溶け出した。

 簡単に自己紹介を終えた晴香が先にソファーに座って待っていると、部屋の奥からお盆を持った詩が出てきて、そのお盆を晴香の前のテーブルに置いた。お盆の上にはアイスコーヒーの入ったグラスとストローが二つずつ載っていた。
「ミルクとガムシロップは?」と訊かれたので結構ですと答えると、詩も向かい側のソファーに腰を下ろした。彼もコーヒーはブラック派のようだ。
「それで、私に用というのは?」
 詩は話ながら、お盆からグラスの一つを晴香の前に、もう一つを自分のもとに持っていく。
 グラスにストローを入れてコーヒーを飲み始めた詩の姿を見て晴香は言葉を詰まらせた。半ば衝動的に押し掛けたのはいいものの、用と言われたらなんと返せばいいのかわからなかった。それに当の本人に自分の不満を話したところで彼には身に覚えのない話だろう。考えている間に、順子から言われた伝言を思い出した。
「コンテストの授賞式、出られないんですか?」
 ああ、と言った詩は遠い記憶を思い返すように頭を掻いた。
「通ってたんですね。あれは社長に言われて仕方なく応募しただけですから、出る気はないですよ。他の仕事もありますし」
 話を聞いているうちに、しばらく頭の片隅に忘れていた苛立ちがふつふつと湧き出てきた。「通ってたんですね」ということは、詩はコンテストの結果など眼中になかったと言いたいのか。それに『仕方なく』応募した人に負けるのは屈辱でしかない。
 静かにコーヒーを飲む詩に我慢ができなくなった晴香は一息で半分以上のコーヒーを飲んで、グラスを軽く叩きつけた。
「もしよろしければその仕方なく、応募した写真を見せていただけませんか?」
 さらりと笑って見せたが、心の中は目に見えぬ炎がたぎっている。晴香の炎の温度が上昇しているのにもかかわらず、詩は「わかりました」と淡白に言って再び幕の奥へと消えた。
 待っている間、晴香は足を組んでコーヒーを飲む。先ほどは一気に飲んだので気が付かなかったが、詩が淹れてくれたコーヒーは花のようにふわりと香る芳ばしさと、口にとろける程よい苦みが効いていて美味しかった。絶品のコーヒーを前に惑わされたと晴香はすぐに首を横に振る。どれだけ評価されようと、大賞を獲ったのは晴香であって、詩は晴香には及ばないのだ。
 すぐに詩は戻ってきて、手には六つ切りサイズの用紙を持っていた。どうぞ、と渡された写真を見て、晴香は驚愕した。写真は水辺のある草原を象が歩いている瞬間を撮ったものだが、奥で力強く光る夕陽の逆光で夕日のオレンジ色以外の色彩を失っている。ところが、その夕陽の効果により枝葉の繊細な面や、鬱蒼としている面、そして象の力強さがはっきりと表現されていた。さらに興味を惹かれたのは水辺に映った反転した景色の儚さだった。水辺に映った象は現物よりも少し小さく角度によって頭を垂れているようにも見え、その姿が力強さと反対に自然界で生き続ける命の尊さを訴えている。
 全体のバランスから細部へのこだわり、そして何よりもメインの象が際立って見える。自然を相手に写真を撮るときは光の当て方や角度など自分の思うようにいかないことが難しいとされている。そのはずだが、詩は気まぐれな自然も操ることができるのかと、そう疑わないと納得できないほど、見せられた写真は完璧だった。


 悔しくも、一瞬見ただけで晴香は目の前の写真の虜になった。言葉を発するにも口が震えて言葉にならない。同時に自分の大賞を受賞した写真が恥ずかしくなってきた。これを見れば誰だって惹き込まれる。審査員たちはどうしてこの写真を大賞に選出せず、自分の写真を選んだのだろう。
 晴香は写真から目の前の詩へと視線を移した。外見から見る詩は晴香と同年代に見える。どういう経験をしたら、どのような感性を抱いたらこんな写真が撮れるのだろう。
「あ、もう時間だ」
 コーヒーを飲み終わった詩は奥から鞄を掛けて出てきて、そのまま店を後にした。残された晴香はその場から動けず、向かい側のソファのくぼみをただ見つめていた。まだ詩という人物のことが知りたいし、何より一緒に仕事をして傍で見てみたいと強く感じた。
 すると、奥から先ほど新聞を読んでいた男性が微笑しながら現れて、詩の座っていたソファーに腰を下ろした。この人がこの写真館の社長、笹崎ということだ。
「彼の写真を見てどう思ったんだい。力の差を痛感させられた?」
 笹崎さんに心の内を読まれてぎくりとする。確かに見事な敗北だった。実際どちらが優れているかは人それぞれの意見だが、少なくとも晴香は自ら白旗を上げていた。ここに来る前に豪語していた自分が恥ずかしい。しかし、それよりも強く思うことがあった。
「彼と一緒に働いてみたいです」
 晴香は見つめてくる笹崎さんの視線から目を離さなかった。同年代の人がこれだけの写真をどうやって撮っているのか、また自分と何が違うのかを間近で見ておきたいと強く思った。しばらく見つめ合ったのち、笹崎はグラスを片付けて何も言わず奥へ消えた。そして一枚の紙を持って出てきて、その紙を店の前に貼った。紙を貼り終えた笹崎は振り向いて、白い歯を見せて笑った。
「やってみなさい。二人ともまだ荒削りの原石なのだから。ほら、私はもう磨ききったダイヤモンドだから、詩君とぶつかれば逆に傷をつけてしまう。だから、二人で磨き上げて、各々の光を出しなさい」
 店先に貼られた求人のチラシを見た晴香は勢い良く立ち上がり、その勢いのまま笹崎さんに向かって深くお辞儀をして店から走り去った。
 帰るなり晴香はその足でスタジオに赴き、その日に辞表を提出した。

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