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「しゃぼん玉に舞う」エピローグ②

 個展の協賛企業であり、先ほど出会った恵の教え子である衛の母親、植木順子は仁美と目の前にある写真を見比べていた。
「詩君とはお知り合いだったんですか?」
「ええ、まあ」
 そうですか、と優しく笑う順子はどこか嬉しそうだ。「詩君」と呼ぶ彼女の話しぶりや微笑みから、順子は自分とは違う詩への想いがあったのだと察した。
 突然現れた順子に驚いたのは仁美だけではなく、隣で固まっていた恵はクラスの生徒の保護者に言葉が浮かばず、口が軽く開いてしまっていた。慌てて自分が中学校の教師で衛の担任をしていることを告げると、順子の顔が母親へと変わった。
「そうでしたか。息子が大変お世話になっております」
 先ほどと同様に頭を下げる順子を見て、恵はさらに深く頭を下げる。担任なら一度くらいは会っていても不思議ではないはずだけれど、二人は初対面のようだ。詳しいことは分からない。
 二人の挨拶が終わると、順子は室内をぐるりと見まわした。
「ここにある写真はほとんど詩君が生前時に選んだもので、詩君が病室で楽しそうに写真を見ていたのを今でも思い出します」
 それから順子はこの個展を始める経緯から詩の最後の瞬間までをゆっくりと語りだした。
 一度だけ感情を露わにして自分の過去を話し出した詩、写真を撮ることで人を知ろうとしていた詩、順子の語る詩は仁美の知る詩とは別人のように聞こえた。あの達観した、超越した詩からは想像もできなかった。
「私の知る詩とは似ても似つかないです」
「きっとあなたにしか見せていない彼の顔もあるのでしょうね」
 そう言って順子は目の前にいる仁美をまじまじと見つめた。まさか写真の中の彼女に会えると思っていなかったので見つけた時は驚いた。生前、詩と『夢中』を見ていた時の記憶がよみがえる。

「この写真、詩君の部屋?」
 順子が現像された写真の一枚を渡すと詩は小さく頷いた。窓から吹く隙間風が秋の香りを持ってくる十月ごろの話だ。
「随分前に住んでいた部屋です」
 写真を受け取った詩は懐かしそうにその写真を眺めていた。少しの寂しさがちらつく、優しいまなざしだった。
「素敵な写真ね。この子は恋人だったの?」
 詩は微笑んで小さく首を左右に振った。
「俺等はそんな関係じゃないです」
 詩の瞳が何となく淋しそうだ。いつもは明るい茶色なのに陰りが見える。
「俺は彼女の淋しさと優しさに甘えてました。たったひと夏だったけれど、恋人がいたらこんな感じなのかなって勝手に思ってました」
 詩は後頭部を掻いてはにかんだ。自分の過去を打ち明けた時から、詩は少しずつ順子に自分のことを正直に話すようになった。順子も詩が受け入れてくれているようで嬉しかった。
「いいじゃない? 恋なんて大方どっちかの勝手な理想から始まるんだから」
 詩は隣に座っている順子を見て静かに笑った。順子も笑みを返して詩の持っている写真を覗き込む。
「彼女は詩君のことどう思っていたのかな?」
「さあ。あまりの反応の悪さに辟易していたんじゃないですかね」
「どうして? 愛情表現は無償なんだからしたいときにしたい分だけやったよかったのに」
「怖かったんです。彼女の優しさが。久しぶりの人の温もりが俺には熱すぎました。だから俺は彼女から逃げてしまったんです。最低ですよね」
 詩は写真を掛布団の上に置いた。モノクロの写真は秋の柔らかな日差しを浴びてオレンジに光っている。
「でも」と順子は写真の中で笑っている仁美を指さした。
「詩君の気持ちは一方的なものじゃなかったと思うよ。だって彼女、恋している顔だもの」
「どうしてそんなこと分かるんですか?」
「分かるわよ。女だし、それにあなたの写真をずっと見てきたんだから」
 順子がウインクして見せると、詩は微笑して写真を見下ろした。
「だとしたら、俺は尚更彼女を傷つけてしまったんですね」
「そう思うなら、ちゃんと謝ればいいだけの話よ」
 詩は顔を上げてきょとんとした顔を順子に向けた。
「もし会う時があれば、『あの時はごめん』って謝ればいいの」
「鉄拳の一つでも喰らわされそうです」
「それは受けなさい。彼女が怒鳴れば全部聞いて、平手でも鉄拳でも飛び膝蹴りでも受けて、きちんと彼女の痛みを受けてから、あなたの気持ちを伝えなさい」
 苦笑する詩は朗らかな表情で写真を見つめる。もしかしたら詩君はまだ――。順子は詩の組んだ両手の上に顎を乗せて詩を覗き込んだ。順子にとって詩は年の離れた弟、いや二人目の息子のような存在だ。その息子がただ純粋に恋をしている。もう十分大人なのに、恥ずかしげもなく、一人の女性を慕っている。応援してあげたい。
「……個展に来てくれるかな」
 詩が写真を手で触りながらつぶやいた。それと同時にカーテンが風で揺らめいて、写真はより明るく光った。それはモノクロに色がつくように、動かない彼女が答えるような光だった。

 つい昔のことに浸りすぎてしまった。順子の視界がオレンジ色の光に包まれた病室から座敷へと変わった。
 写真を眺める仁美に順子は一歩近づいた。あのね、詩君ね、本当はあなたのこと―ー。
 口を開きかけた順子が、仁美の後ろを見て「あ」と声を洩らした。声につられて仁美も振り向くと、入り口付近にいる一人の女性が軽く会釈をしていた。彼女は展示されている写真を一瞥して近寄ってきた。白いブラウスに足のラインがくっきりと出るデニムを履き、毛先が少し跳ねているショートヘアの彼女は仁美や恵よりも二、三歳下に見えた。
「やっぱり順子さんが関わっていたんですね」
 順子と親しい様子の彼女は周りを見渡して納得したように大きく頷く。冷静な彼女とは反対に、順子は驚いて瞬きを繰り返して目の前に現れた彼女を確認した。
「晴香ちゃん、よね?」 
 はい、と目の前の女性、晴香が頷くと順子はいきなり晴香を抱き寄せた。いきなり抱擁させられている晴香は当然困惑していた。
「あなたのこと、あれからずっと気にしていたのよ。元気にしてた? 今は何しているの?」
 少し体を離した晴香は興奮する順子を見てくすりと笑った。
「その節はご心配をおかけしました。この通り、無事元気に生きてます。あの時実家に戻って、しばらく何もしてなかったんですけれど、さすがにまずいなって思って今は地元で観光案内の仕事をしています。地元の景色は見飽きるほど撮ったので」
 シャッターを押す真似をして晴香は白い歯を見せて笑った。その朗らかな笑顔は本当に幸せそうに見える。
「そうなの。写真撮ってるのね。それならよかった」
 順子は優しい眼差しを晴香に向けていた。その姿は独り立ちした娘の帰省に安堵している母のように見えた。
「順子さんもお元気そうで」と言いながら晴香はきょろきょろと首を巡らしていた。
「ところで、詩はどこにいるんですか?」


 あ、と仁美の口から声が漏れた。晴香は入り口からすぐ仁美たちの元に来たので写真はおろか、入り口のところにあるパネルもろくに見ていない。つまり、晴香はまだ詩の死を知らない。
 空気が変わったのを察したのか、首をかしげる晴香に順子は、仁美たちに話した内容をもう一度語った。その間、晴香は驚いたり、どこか腑に落ちたように微笑したり、様々な表情を見せて順子の話を聞いていた。晴香と詩の間に何があったのかは仁美が知る由もないが、彼女も彼女の中の詩を思い返しているようだった。
 中でも晴香が驚いたのは、詩の死因だった。刺殺というだけでも衝撃なのに、順子が犯人の名前を口にした途端、晴香は悲鳴のような短い叫びを口にした。
「前川って、あの前川君?」
「知ってるの、彼のこと」と順子も心底驚いている。晴香は未だに震える口を押さえて小さく頷いた。
「写真館の前に働いていたスタジオの後輩です。でも、そんなことをするような人には見えませんでした。それに無職だったなんて」
「捕まった後、彼はすぐに自白したの。あの当時、詩君に嫌がらせをしていたのも彼だったと」
「……そんな」
 晴香は絶句した。嫌がらせのことはよく覚えている。あれは写真が好きな人のする行為ではない。それをあの前川君が。いまだに信じられなかった。
「どうして、そんなことに……」と呟く晴香を前に、順子は心の中で前川のことを考えた。晴香を尊敬して、その尊敬の中には恋心もあったのかもしれない前川は晴香がスタジオを辞めたことに少なからずショックを受けた。その落胆は次第に嫉妬や怒りに変わり、矛先は晴香を笹崎写真館に引き寄せた蒼井詩に向けられた。嫌がらせも初めは冗談半分だったのかもしれない。しかし、続ける中で後に引けなくなってしまった。嫉妬の気持ちは膨らみ続けてとうとう破裂してしまった。それがあの日、あの悲劇につながる。


「そうだ。ちょっと来て」
 しばらく沈黙が続いたのち、順子が思いだしたように手を叩き、晴香の手を引いて会場の左奥、先ほどご婦人たちが凝視していた付近へまっすぐ歩いていく。とりあえず仁美たちも後をついていくと、前の二人はちょうど角になっている右側の写真を見ていた。
「これって北鎌倉の駅じゃない?」
 恵が言うように、確かに写真には北鎌倉駅横の踏切の景色が写っていた。小さな石橋から円覚寺の階段まで伸びた直線の両側を瑞々しい緑が覆っている。澄んだ空気に柔らかく光る橙色や水色から夜明け後に撮ったものだろうか。新たな一日が始まる、そんな新鮮さと何かの決意の固さを感じる一枚だった。
「この写真……」
 仁美が写真を鑑賞している隣で晴香が息をのむ音が聞こえた。隣を見ると、晴香は口元を手で押さえて写真を凝視している。誕生日にサプライズをされて上手くリアクションができないように、茫然と固まっている。
「これ、晴香ちゃんでしょう? 詩君が『これは俺が忘れちゃいけない景色だ』って選んでいたの」
 順子が指さすところを仁美も見ると、確かにキャリーバッグを引いた女性の後ろ姿が踏切の中に見えた。その後ろ姿は晴れ晴れとしている中にも葛藤にもがく様子が切実に表れていた。景色全体から伝わった対極の印象は彼女から引き出されていたものだった。
『君は旅人』、これがこの写真のタイトルだ。
「人のことを知ろうとしてたって、十分知ってるじゃん。じゃないとこんな写真撮れないよ」
 潤んだ瞳を拭いた晴香はふっと笑みをこぼして写真を見つめていた。
「やっぱりあなたは良い写真家で、良い人ね」
 晴香は写真に向かってそっと話しかけた。その時ふと昔の記憶がよみがえった。詩と北鎌倉の勝上嶽で富士山を撮っていた時、詩が何かつぶやいたが晴香が聞き取れなかった言葉だ。もしかしたら、あの言葉は……。心の中で訊いてみるが、もちろん返事が返ってくることはない。晴香は一度口角を上げて他の写真に視線を移した。それに続くように順子も写真を鑑賞していく。二人の後姿を仁美は眺めていた。
 それぞれの心の中にそれぞれの詩がいる。そして全員前に進むことができている。なら詩は? 詩はどうだったのだろう。詩は――。
「詩は幸せだったんでしょうか?」
 仁美のつぶやきが妙に室内に響いた。隣にいた恵も、前にいた晴香も順子も同時に振り向いた。
「どうなんでしょうね。やりたいことを仕事にできて、それで暮らしていけた。詩は生きたいように生きていた気がします。ただ、彼の新作の写真がもう見られないのは残念ですね」
「でも、詩君が自分の話をしてくれた時、彼の中でも人には見せていない葛藤や苦悩はあったんだと思うよ」
 各々が話していると、突然壁の向こう側から声が聞こえた。
「この世で故人が幸せだったかどうかなんて、考えても答えは出やしないさ」
 その低い声に隣にいた恵は驚いて変な声を発する。仁美たちが恐る恐る縁側に行くと、眼鏡をかけた白髪の老人が腰を下ろして丁度茶を啜っていた。

「笹崎さん……」
 ひどく驚いた様子の晴香はぎこちない会釈をして笹崎さんのところへ行く。
「久しぶりだね、晴香ちゃん。うん、元気そうで何よりだ」
 笹崎さんと呼ばれた老人は晴香を見て優しく微笑んだ。そのまなざしはまるで娘を見ているようだった。晴香はこの人たちに見守られていたんだと改めて実感する。
「ちょっと笹崎さん。ここは端ですけど一応通路なんですから。こんなところでくつろがないでください」
 呆れたように注意する順子の声は届いていないのか、笹崎さんはゆっくりグラスを傾けて茶を口に入れる。カランと氷の溶ける音が涼しい。
 どうやら二人の知り合いである笹崎さんは一歩下がったところに立っている仁美たちに向かって小さく会釈をした。
 仁美も慌てて頭を下げて顔を上げたら、笹崎さんが自分の隣の板をとんとん、と優しく叩いた。
「君たちも座りなさい。冷たい麦茶しかないがご馳走するよ」
 仁美は笹崎さんに吸い込まれるように、気づけば足が動いていた。

 結局注意していた順子も含めて、四人は笹崎さんの隣に腰を下ろした。笹崎さんが麦茶をグラスに注いでいる間、仁美は笹崎という名前をどこかで見た憶えがあると考えて続けた挙句、パネル横で見た詩の仕事場である笹崎写真館のことを思い出した。どうやら彼がそこのオーナーのようだ。
「はい、どうぞ」
 隣から麦茶の入ったグラスが回ってきた。持つと手のひらが一気に冷たくなり、中で氷が音を立てて溶ける。外は相変わらず強い日差しだが、縁側の上は屋根で遮光されている。加えて座敷に向かって吹く風が肌を優しく撫でて心地いい。
 いただきます、と言ってから仁美は麦茶を一口飲む。するとたちまち体にこもっていた熱が冷やされて内側から抜けて行くように涼しくなる。
「詩君はね」と唐突に笹崎さんが独り言のように話し出した。笹崎さんの声に呼応するかのように外で鳴り響く葉擦れの音や蝉の声がぴたりと止まる。仁美も笹崎さんの声に耳を澄ました。
「詩君はね写真に生かされ、写真に殺されたのさ。それが彼にとって幸せか不幸か、それは私たちでは計り知れない。そんなことは詩君しか、いや詩君でさえも分からないかもしれないなあ。私たちがどうこう言ったって議論の終着点はないのさ。だからね、詩君の生きた二十六年間を讃える。それだけでいいのさ」
 再び蝉がうるさく鳴きだした。笹崎さんの話を聞いている間、仁美は夢の中にいるような感覚に落ちていた。笹崎さんの言葉が仁美の心を的確に射してきた。そうだ、人間は神ではないのだから、亡くなった人の真意なんてわかるはずがないのだ。そもそも幸せだから生きているわけではないし、苦しいからって死ぬわけでもない。それならば、彼の生きてきたすべてを受け入れてあげる、私たちにできることはそれくらい些細なことだ。
 笹崎さんが徐に腰を上げて写真が展示されている座敷へ歩いていくので、仁美たちもグラスをその場に置いて後をついていく。
 笹崎さんは順路と書かれた手前、この座敷の最後に位置する写真の前に立ってぼんやりと眺めた。仁美も同じようにして目の前の写真を見た。
 濃紺に包まれた世界に散らばる青白い星、そしてどこからともなく振っている白い雪、二つの光が儚く、でも清らかに輝いていた。タイトルはこの部屋で唯一『無題』とされている。
「これだけはタイトルを付けなかったの」
 笹崎さんの隣に立つ順子が仁美たちの気持ちを察したように説明してくれた。詩が見た景色、仁美は心の中で「良かったね」と写真に向かって話しかけた。家族が引き戻してくれた世界が無機質な白い天井ではなくこんなにも美しい空で、きっと詩は笑って撮ったのだろう。この目で見たわけではないので実際のところはわからないが、口元を緩ませてシャッターを切る詩の姿がぱっと思い浮かんだ。
 笹崎さんは長い時間写真を見つめた後、かけていた眼鏡をそっと外した。

「良く生きたね」
 笹崎さんは誰にも聞こえないくらいの小声で呟いた。それからくるりと振り返って仁美たちを一人ずつ見渡した。
「それじゃあ、会いに行こうか」
 どこへ行くのかを仁美が尋ねる前に笹崎さんは出入り口に向かって歩き始めた。その後ろ姿がどこか小さく見えたのは気のせいだと仁美は笹崎さんの後を追った。
 順子はみんなの後姿から視線を座敷へ向ける。そして座敷をぐるりと眺めた。お客は先ほどより増えて、今では側面にあるはずの写真が人で見えない。皆、一枚一枚立ち止まってじっくり鑑賞して、また一歩隣へ進んでいく。
 順子は座敷の奥にある小さな庭を見た。屋根のある座敷とは異なり、光に包まれていた。小さな池も岩も、草木も白い空間に飲まれて姿かたちがうっすらとしか見えない。そんな眩い景色に思わず目を瞑る。しばらくして目を開けた順子の視界の先には、詩の姿があった。入院中に着ていたパジャマにスリッパを履いた詩がこちらに笑みを浮かべてただ眺めていた。
 幻だ。詩はもうこの世にはいない。
分かっているのに、順子の目から涙があふれてくる。
 きちんと約束を果たしたよ。あなたの個展、予定通りできたよ。
 こんなにもたくさんの人が見に来てくれたね。あの子、仁美さんも来てくれたよ。
 ごめんね。彼女に詩君の気持ちを伝えようと思ったけれど、彼女の左手の薬指、綺麗に光ってたから言えなかった。ごめんね。
 強かった日差しはすぐに弱まり、庭の原型が目で見えるようになった。もちろん詩の姿はない。
 しかし、光が消えていく瞬間、詩の口が確かに動いた。
『ありがとう』と。
 順子は涙を拭ってみんなを追って座敷を去った。

「こんなに大勢だと詩さん喜びますね」
 バックミラーを一瞥した美輝の明るい声が車内に響く。
 家を出た仁美たちを待っていたのは六人乗りのフリードとそばで待ち構えていた大学生の女性、それが美輝だった。日本人離れしたスタイルと整った顔はどうも古風な風景とマッチしない。笹崎さんの話によると、美輝は高校まで北鎌倉で暮らしており、ここにいた当時は笹崎写真館にアルバイトで働いていたという。現在は関西の大学付近に下宿していて、夏休みの間だけ帰省しているそうだ。
「すまないね。学生を呼び立てて」と笹崎さんは深く座りなおす。
「いいんですよ。私も詩さんに挨拶したかったし、こうして晴香さんにも会えたし」
 ハンドルを握る美輝はウインカーを鳴らしながら真ん中のシート右側に座っている晴香を見て笑みを浮かべる。
 車は明月院通りを抜けて左に曲がり、鎌倉街道のなだらかな上り坂を進む。そのまま進むこと三分、車は建長寺の駐車場に停まった。仁美がドアを開けて外へ出ると、懐かしい学校のチャイムがちょうど鳴り響いていた。どこからかと首を巡らせると、総門のすぐ右にきれいな校舎が隣接していた。荘厳な門の隣にそびえる真新しい校舎はどこか溶け込んでいて可笑しかった。
「仁美、行くよ」
 すでに総門をくぐろうとしている恵に言われて仁美もすぐに門をくぐる。前を歩く笹崎さんたちは拝観者がちらほらと歩く並木道ではなく、門を入って左側の通路を歩いていく。緩い坂を進んでいくにつれて新緑が深まっていく。いくつかの塔頭たっちゅうを通り越していくと右に曲がる分岐点に着いた。八月の日中はさすがに暑くて仁美の髪も汗で毛先が濡れていた。息が少し上がったところに前方からからりとしたそよ風がなびいて思わず顔を上げた仁美は目の前に広がる光景に息をのんだ。
 奥へ緩やかに伸びる参道は両脇に伸びる杉並木の葉がトンネルのように囲まれていた。雲を寄せ付けない鋭く強い日差しがその幾重にもなる杉の葉のおかげで和らいでいき、参道には波紋の湯に静かな木漏れ日が射していた。
 まるで誘われているような、不思議な参道から先ほど吹いたそよ風が流れてくる。茫然と佇む仁美の前にいた笹崎さんや晴香たちがその参道を上っていた。少し遅れて仁美も階段を一段一段ゆっくりと上っていった。
 参道の先にあるのが建長寺の塔頭の一つ、正統院だ。光が全体的に新緑の色に包まれたその場所は人があまり足を踏み入れていない、神聖な空気が漂っている。
 仁美たちはその正統院本堂の裏手に回った。すると、緑の垣根で仕切られた一角の端に一本の木が植えられているのが見えた。笹崎さんは通り過ぎていくお坊さんに会釈を返しながらその中へ入っていく。


 仁美も小さく頭を下げて中へ入っていくと、その木の周りに広がる芝生に円状の敷石のようなものが均一に並べられていた。いったいここはどこなのかと思ったが、一本だけ植えられた樹木の隣に生けられた花と香炉を見つけてここがお墓だと気づいた。よく見ると芝生の間にある通りにも二つ同じように香炉が設置されていた。しかし、仁美の知る墓地とはだいぶ景色が異なる。細長い墓石が一つも見たらない。
 笹崎さんはゆっくりと通りを歩いて片方の芝生に並べられている意志を眺める。そして一つの石の前にしゃがみこんだ。
「久しぶりだね、詩君」
 そう言って笹崎さんは一つの石の表面を優しく撫でた。その間に晴香と美輝は、美輝が事前に買っておいた仏花を花立に差していた。
仁美はその石から目が離せなかった。敷石と思っていた一つ一つが故人の眠るプレートだったのだ。
「ここは墓地ですか?」
 仁美の問いに振り返った笹崎が「ああ」と首を縦に振る。
「樹木葬といってね、墓石の代わりに樹木を墓標とする墓なんだよ。ここでの墓標はあの木だね」
 笹崎さんが指さしたのは垣根から少し見えていた二メートルほどの木だった。生ぬるい風に吹かれてゆるりとなびいている。
「一人で入る墓よりもこうしてたくさん周りにいたほうが詩君は喜ぶと思ってね」
「どうして詩の墓をここにしたんですか?」と仁美は笹崎さんに訊いた。詩の両親の墓は九州にあるだろうし、祖母の墓もここではないだろう。多くの人がいた方が喜ぶのは確かだが、どうせなら家族のもとに帰してやりたいとも思った。
「詩君が頼んできたのさ」と笹崎さんが答えた。
「詩君のお見舞いに行ったときにそう言われたんだよ。私も君と同じで、家族の眠っているお墓に入ることを勧めたさ。でも、彼は首を縦には振らなかった。『地元は思い出の中にちゃんとある。自分が住みたいと思った場所、そして帰ってくる場所はここなんだ』。そう言われたときは……」
 言葉が途切れたので笹崎さんの顔を見ると、皺の刻まれた親指で目頭を拭っているのが見えた。仁美は透き通る空を仰ぎ見た。今は笹崎さんと詩が対話する時間だと思ったから、仁美はただ黙っていた。
 ごめんね、としばらくして笹崎さんは話し続けた。
「そう言われたときは、嬉しかったなあ。もう一通り経験したと思っていたが、この年になっても新しい感情は芽生えるんだねえ」
 そう言って笹崎は先ほど撫でていた石を見下ろした。
この下に詩が眠っている。確かにプレートに詩の名前が書かれていたが、それでも仁美に実感が湧かなかった。なぜなら—―。
「写真の世界で有名になった人も墓に入ればただの仏か」
 仁美の代わりに近くに座っていた恵が呟く。恵の言葉に笹崎さんは小さく頷いた。
「それでいいのさ。どんな人でも終着点は同じ。それが分かってるからこそ、そこまでの間をどうにかしようともがくのさ」
 でもね、と笹崎さんは一拍置いて話し続ける。


「身体は死んだが、心はいつまでも残っていくのさ。詩君の心は私たちや彼の写真を見た大勢の人たちの胸の中にずっと居続けるんだ。死ぬことは、無くなることではないんだよ」
「あ」と隣で手を合わせていた晴香が言ったのでみんな顔を上げた。空を仰ぐ仁美たちの頭上に大小二つのしゃぼん玉がどこからともなく流れてきた。軌道の読めない、でも向かうべき場所を目指すかのように空中を舞うしゃぼん玉を仁美たちは目で追う。仁美は初めて詩と会った時のことを思い出した。あの時も詩が作ったしゃぼん玉に魅了された。もしかしたら今飛んでいるしゃぼん玉も詩が、と仁美は周りを見まわしたが、もちろん詩の姿はなくしゃぼん玉を飛ばしている人すら見当たらない。
「詩はしゃぼん玉のように舞っていましたね」
 仁美が言うと晴香と順子が頷いた。
「本当にどこまでも行っちゃうんだから」と順子が髪をかき上げる。
「人を躱すのが上手なのよ」と晴香が苦笑して言う。
 仁美、晴香、順子がそれぞれの詩に話しかける。その様子を見ていた笹崎さんがふと呟いた。
「そんなしゃぼん玉に私たちは舞っていたのかもね」
 はっと仁美は笹崎さんの顔を見た。彼は何とは言わず目を細めて、ただ空へ上るしゃぼん玉を眩しそうに眺めていた。その口元は和やかに微笑んでいた。確かにそうなのかもしれない。
 よし、と順子さんが手をたたいた。空気を変える大きな音が響いた。
「これからみんなでお好み焼きを食べに行きましょう」
「どうしてお好み焼きなんですか?」
 みんなの気持ちを代表して美輝が首をかしげている。確かに昼時ではあるけれども、お好み焼きは突飛な話だ。
 腰に手を当てて順子さんが肩をすくめるように笑った。
「今日はお好み焼きよ。約束だから」
 そのほかの質問を受け付けないように踵を返して歩いていく。石畳に響くパンプスの音は意外にも軽やかだった。
 帰り際、仁美はもう一度しゃぼん玉を見上げてその軌跡を追った。
 しゃぼん玉は空高く、どこまでも舞い上がっていつのまにか姿が見えなくなってしまった。





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