見出し画像

「しゃぼん玉に舞う」第二章 旅人②

 立て看板を店頭に置いた晴香は吹き出る汗を手の甲で拭った。都内のスタジオに辞表を出してから早二週間、晴香は『笹崎写真館』で働いていた。
 笹崎写真館での業務内容の基本は前のスタジオとほぼ変わらない。店に着いたらまずパソコンでメールや今日の予約の確認、それからお客が来る時間を逆算して機材のセットや構図を事前に考えて準備しておいて、撮影に臨む。
 辞表を出した時、全員が晴香に呆れていた。「なんでそんなところに」とか「もったいない」と言う小言も耳にした。特に衝撃を受けていたのはアシスタントの前川勇気だった。
「どうして急に。こんな恵まれた環境の何が不満なんですか」
 前川君はまだ学生で、晴香がずっと面倒を見ていたから余計にショックを受けているようだった。別に前のスタジオに不満があったわけではない。きっと、技術も人脈もあそこにいれば手に入れやすいはずだ。
 しかし、ここは前のスタジオと明確に異なる点がいくつかある。それは地域に根付いた写真館だということだ。
 笹崎写真館は館内での撮影の依頼もあるが、外部から撮影を頼みたいという依頼も多数ある。もちろんこのような仕事は前の仕事場でもあったのだが、以前のような某有名ホテルでの結婚式やモデルを起用した雑誌の撮影とかではなく、地元の小学校の行事や祭りなど、地元に関連した撮影を頼まれることがほとんどである。こういった依頼を受けるのは偏に社長の笹崎さんの人徳のおかげである。
 写真館には近隣の人のみならず、街の人や以前ここで写真を撮ってもらったお客さんが誰かしら談笑をしに店に顔を出していた。もともと地元の小さな写真館なため、前のスタジオほど忙しくはなく、笹崎さんは来た人たちを快く店に招いて店内で話したり、将棋を指したりしていた。
 初めてその光景を見たときは驚いたが、広くとらえればその時間もきちんとした仕事だ。笹崎さんは将棋やどうでもいい世間話を進めながら相手のことを聞きだしていく。彼の手にかかれば、どれだけ堅物な人でも自然と口を開いてしまうのだ。
 さらにもっとも異なる点は自らほぼすべての構図を考えることだ。
前のスタジオでは人気の写真家がいて、その下には晴香よりも技術力の高い同期や先輩が何人もいたので、晴香のしていたことと言えばカメラアシスタントだった。
 しかし、ここは働き始めた初日からほぼ丸投げ、よく言えば自由だった。光の当て方やセットや背景の設定など、一人前のカメラマンがするようなことを若手の自分たちでしなければいけなかった。
 不安を伝えると笹崎さんは笑って、
「とことん悩みなさい。悩んで、相手のことを考えて、いい写真を撮ってください」
 と言うばかりだった。


 笹崎さんに訊いたところ、詩もここに来た初日から構図を考えてシャッターを切っていたらしい。詩は二年前から海外で旅をしながら撮影をしており、今年の初めに帰国してたまたま北鎌倉の喫茶店で笹崎さんと出会い、この写真館で働くようになった。詩は笹崎さんの人柄と写真館の仕事がない場合は自分の撮影ができることに魅力(あくまで笹崎さん個人の意見だが)を感じたそうだ。
 都内から約一時間の通勤だが、晴香はここで働くことにやりがいを感じていた。
 笹崎写真館は社長の笹崎さんを除くと、三名が働いていた。詩と晴香、そしてアルバイトの美輝だ。彼女は地元の高校に通う学生で、土日や長期休暇の日に手伝ってくれる。手足のすらりとしたスタイルと小さく可愛らしいお人形のような顔、彼女が店に来るときは毎回、学生が数人店頭から彼女を覗いていた。
「おはようございまーす」
颯爽と自転車を降りながら美輝が手を振っているので晴香も挨拶を返した。最近は夏休みということもあって美輝が来る頻度も高い。
「今日も暑いですね」
自転車を店のわきに停めた美輝は鞄の中から暗記用の赤シートを取り出して、顔の前で出来る限り速く振る。真夏の太陽よりも眩しい美輝のしぐさはシャンプーかトリートメントのコマーシャルのように見える。
「暑いよね。まだ午前中だってのにもう肌がひりひりしてきたよ」
「私もですよ。ほら見て!」
 美輝が見せてきた細い腕はほのかに紅くなっていたが、晴香の日焼けした肌とは潤いとハリが違うように見えた。
「美輝ちゃんは大丈夫よ。今は太陽を目いっぱい浴びる年ごろよ」晴香は美輝の肌を軽くたたく。晴香は一瞬息を吸ったような声を発して苦悶の表情を浮かべる。
「そんなこと言って私が大人になってシミだらけになったら、晴香さんどうしてくれるんですか!」と言いながら美輝が晴香の脇腹を小突いた。
 しばらく言い合っていたが、次第にお互いの声の大きさも動きも鈍くなる。今日はここ二週間で最も暑くなる日だと、今朝のニュースで言っていたことを思い返した。しまいには蝉の声だけがやけに響いていた。
「……仕事、しようか」
「そうですね……」
それから二人で猛暑の中、店頭や館内を掃除していると二階から笹崎さんが下りてきた。ここは一階が写真館であり、二階は笹崎さんの住居となっている。笹崎さんはこんなに暑い日にもかかわらずスラックスとシャツ、さらにシャツの上にはベストを着ている。これで汗一つ流さないのだから不思議で仕方がない。
「おはよう。しかし、毎日暑いね。とりあえずこれでも飲みなさい」
 そう言い、笹崎さんはグラスを二つ取り出してその中に氷とオレンジジュースを入れていく。オレンジジュースを見た美輝は掃除を中断して嬉しそうに笹崎さんの元へ駆け寄った。
「それにしても最近よく来るねえ、美輝ちゃん。今日シフト入れてなかったよね?」
「はい!」と力強く答える晴香を見て笹崎さんは腕を胸の前で組んでうーんと唸る。
「来てくれるのはうれしいけどね、ここはそんなに忙しい職場じゃないからなあ」
「笹崎さんも仕事はみんな詩さんと晴香さんが持っていっちゃうから暇でしょう。だから、私の仕事は笹崎さんの話し相手」
 笹崎さんは眉を下げて、
「失礼な。私は私でやることが多すぎてだね、仕方なく若者に仕事を回しているんだ」
 と言ってから不意に口角を上げて、
「でも、私の話し相手は必要だね」
 そう言って、笹崎さんは美輝に向かって微笑を浮かべる。笹崎さんは人の話を聞くのも得意だが、何より話を咲かせることが好きなはなさかじいさんなのだ。美輝がいない日でもちろん詩は素っ気ない返ししかしないので、必然と笹崎さんが晴香のもとにやってくる。仕事が暇なときはいいけれど、撮影の予約が入っているときはなかなか厄介なのだ。なので、こうして美輝が来てくれることは晴香にとってもありがたい。


 後ろで手を組みながら笹崎さんは受付奥の壁に貼られた日めくりカレンダーをめくった。今日の日付を確認した笹崎さんはふと首をかしげて、それから何かを思いついたように「ああ」と呟いた。
「そう言えば、今日はフォトコンテストの授賞式じゃないか」
 笹崎さんに言われて晴香も今日がその日だと気づいた。この二週間で生活が大きく変化したのですっかり忘れていた。箒と塵取りを用具入れに閉まってオレンジジュースに手を伸ばすと、笹崎さんがぐっと顔を近づけてきた。驚いて危うくグラスを倒しそうになった。
「もしかして行かないつもりかい?」
 笹崎さんの視線に臆してぎこちなく首をかしげる。曖昧な反応を示す晴香を見た笹崎さんは目を丸くした。
「どうして?」
「だって、あの賞を受賞したのは少なからず前のスタジオで働かせていただいたおかげなので、そこを裏切るような形で退社した私が式に出席していいものか。それに」
 喉まで出かけた言葉を寸前で飲みこんだ。晴香の中でまだ詩の写真の余韻が離れなかった。あの写真を見た後で、大賞受賞者として多くの人の前に立つことに委縮していた。
 テーブルで汗をかいているグラスを見下ろしていると笹崎さんがソファーを手で指すので晴香はそこに腰かける。笹崎さんも向かいのソファーに腰を下ろして、かけていた眼鏡をくっと持ち上げた。
「君は授賞式に出なさい」
 泰然とした声で笹崎さんは言った。
 でも、と言おうとする晴香を笹崎さんは手で制して続ける。
「君が前の仕事場の方に申し訳ないとか、受賞される器ではないなど思っているかもしれないが、それはいらぬ心配だ」
 真剣な顔をしていた笹崎さんの顔がふっと緩み、優しい表情になった。
「誰が何と言おうと今年の大賞は君なんだ。それにいま、君が放棄しようとしているものは、一万人以上の人が欲しかったもので、誰もが得ることはできない。それだけ重く、代えがたいものなんだよ。だから、君は大賞を獲った者としてきちんと出席をして選んでくれた方、君の写真を見てくれた方、さらに一緒に競い合った人たちに感謝と敬意を伝えなさい。そして、多くの祝辞を受け止めてきなさい。それが受賞者の責任だよ」
 笹崎さんの言葉は蛍の光のようだ。路頭に迷っている晴香に一点の光を差し伸べてくれる。
「まあ、今日の仕事はきちんとしてもらうよ」
 笹崎さんはにやりと笑ってから、ゆっくりと立ち上がった。
彼とともに立った晴香は「はい」と力強く返事をしてから幕の中へ向かう。幕の中は小さな撮影場所となっており、機材や資料が所狭しに置いてある。
今日の準備をしていると幕が少し開いて笹崎さんが顔を出してきた。
「それから、行くときは詩君も一緒に連れて行ってくれないか」
 そういえば、まだ詩の姿を見ていなかった。きっとどこかで写真を撮るのに夢中で出社時間を忘れているのだろう。晴香が数えているだけで五回目のことなので驚きもしない。もっと早く出たらと進言して、詩も言われた通りに実行しているようだが、時間があればあるほど撮り続けてしまうらしい。その気持ちは晴香も分からないでもないが、今日は小学校からの依頼で、五六人の小学生が笹崎写真館に社会科見学に来ることになっている。段取りとかを事前に話し合いたかったが、そんな時間はなさそうだ。
「それは自分が行くことよりも難しい頼みですね」
 高らかに笑声を上げた笹崎は「頼むよ」と言って幕を閉めた。
 軽く息を吐いて、晴香はカメラの準備に集中した。
 窓の外で鳴くセミの鳴き声が次第に遠のいていった。


 写真館で一通り仕事についての説明を終えた晴香は小学生を明月院の境内に連れて行った。街中は被写体が多様で撮影に好ましいと思ったけれど、細い路地で車の往来も激しい場所で預かっている子供の面倒を見る自信がなかった。その点、境内なら多少の融通が利くので晴香は説明をしながら撮影場所をここに決めた。総門の両脇に咲き誇るアジサイの時期は終わって紅葉とハナショウブの開花時期だけ公開される庭園も入れないが、緑の多い明月院は夏を感じることができる絶好の場所だと晴香は思っていた。
 子どもたちとは少し離れた場所で見守っていると、一人の女の子がはるかに近づいてきた。彼女の手には晴香が写真館で渡したストラップ付のインスタントカメラが握られている。さすがに高価なカメラを子供たちに持たせるのは危険なので、晴香は事前に用意していた。とりあえず、子供たちには写真を撮ることの楽しさを知ってもらえたらいいと考えていた。
「あのお兄さんも写真家ですか?」
 晴香の目の前に来た女の子は橋の上にいる詩を指して訊いてきた。詩は空を仰ぎ見て風で葉擦れしている木々を撮影していた。その周りで四人の男の子たちが詩を真似るようにカメラを空に構えている。傍から見れば年の離れた五兄弟にしか見えない。
「そうだよ。どうして?」と訊くと彼女は渋い顔をして答えた。切れ長の目がさらに鋭くなる。
「何を聞いても『分からない』とか曖昧な答えしか返してくれないんです」
 なるほど。晴香はその場で頭を抱えた。彼女が困るのも無理はない。しかし、口数の少ない詩は教えるというより体感させているように見えた。初めは欠伸をしていた男の子たちも今では「おもしれー」と詩の姿に目を輝かせている。
 晴香は頭の中でちりばめられた言葉を整理してから彼女の目を見た。言葉で理解したいといった表情だ。
「写真ってね、分からないの」
「なら、どうして江崎さんは写真を撮っているんですか?」小学生の直球に危うく目を背けそうになったが、何とかこらえる。
「やっぱり写真を撮ることが好きだからかな」
 まだ納得できない彼女は難しい顔をしている。構わず晴香は話し続けた。
「だって自分の撮った写真がほとんどの人に無視されたとしても、たった一人の心を突き動かすことができたらすごいことじゃない?」
 彼女は考えてから小さく頷く。
「そのたった一人がいる限り私は撮り続けられるの。だから、あのお兄さんも好きだから撮っているけれど、好きな理由は人それぞれだから言えなかったんだと思う。。だって見てよ、あんなに夢中になって嫌いには見えないでしょう?」
 詩を見た彼女は「確かに」と大きく頷いた。
「だから、あなたもまずは撮ってみて。そしたら知らなかった世界が見えてくるかもよ」
「わかりました」
 そう言って彼女は晴香のもとを去って行った。ちょっとクサすぎたなと鼻の頭を掻く。別に彼女が無理やり写真を好きになる必要は微塵もない。ただ、考えるより先に動いてしまうような、夢中になれるものに出会えたらいいと思って言ったまでだ。
 そういえば、と晴香はいまだ撮影に没頭している詩を見つめた。詩が写真を撮る理由とは何なのだろうか。
 詩を、そして詩が見ている空を見上げていると、晴香の頬にぽつぽつと冷たい何かが落ちてきた。今一度空を仰ぎ見る。空は依然として晴れており、濃厚な雲がのらりくらりと流れている。それなのに地上にいる晴香の髪や服は次第に濡れていく。周りに生えている草木がいきなり生い茂ったかのように新緑の香りが鼻の先まで膨らむ。
「みんなこっちに集合ー!」
 晴香が手を上げて呼ぶと橋の上にいた男の子たちが両手を頭の上に置いて走ってくる。それでも写真を撮り続けていた詩だったが、一人の男の子に手を引っ張られて橋を降りてくる。
 気まぐれな天気雨だった。


 晴香たちは入り口付近にある喫茶店『月笑(げっしょう)軒(けん)』で二十分ほど雨宿りをすることにした。ここは抹茶や甘酒が飲めるのだが、子供たちはすかさずジュースを頼んだ。ジュース一杯六百円、七人分を払った晴香の財布が空腹で瀕死状態となった。
「晴香は何も飲まないの?」
 向かいに座った詩がアイスコーヒーを飲みながら訊いてくる。彼が払ったのはもちろん六百円、つまり一人分だ。
「七人分で四千二百円よ。私のを頼めば四千八百円。ディズニーは無理だけど、ユニバならアフターシックス行けるんだよ」
 子どもたちとは離れた席に座っているとはいえ小声で話す。一応領収書はもらっているので経費で落ちるだろうが、実際に寂しい懐を見ると肩を落としてしまう。それを聞いた詩は苦笑した。
「どちらもいいお金の使い方だよ」
「そんなに言うなら半分出してよ」
「晴香の奢るからそれで許してよ。何がいい?」
 珍しく優しいので変に胸が騒がしくなる。いやいや、晴香は心の中で慌てて首を左右に振り、詩が飲んでいるアイスコーヒーを指さした。この気持ちは恋ではない。たまに訪れるギャップに驚いただけだ。外で振る天気雨みたいだ。それでも、詩に優しくされると妙に緊張してしまう。別に普段から優しくないことはないけれど、不意にくる優しさモードは晴香の脳を少し勘違いさせてくるからできればやめてほしかった。
 そうだ、と晴香は受け取ったアイスコーヒーを一口飲んでから口を開いた。さらりとした口当たりの中で深い香りが口の中で広がる。
「笹崎さんが今日の授賞式、詩も絶対行きなさいって」
「授賞式?」と詩はきょとんとした顔で首をかしげて見せる。晴香でさえ今日まで忘れていたのに、詩が覚えているはずがなかった。
「ほら、コンテストの授賞式。笹崎さんに言われて詩が出したじゃん」
 ようやく何の話か理解した詩は「あれかー」と遠い昔のことのように呟いた。詩の奴、はぐらかす気だな。もとより想定済みだった晴香はすかさず話し続ける。
「『行かない』っていう答えは無しだからね。詩が忘れていると思ったから確認」
「俺は大賞を獲ったわけでもないし、そういう場は苦手だからやめておくよ」
「受賞者の責任」と気付けば笹崎さんに言われたことを口にしていた。
「詩にとっては知らぬ間に受賞していて迷惑なのかもしれないけれど、受賞を目指して必死に努力してきた人たちが何千人といるの。私たちはその人たちを代表して出席する義務があると思う。まあ、全部笹崎さんの受け売りなんだけどね」
 少し舌を出してからコーヒーを飲む。今の言葉は詩のために、そして晴香自身のためでもあった。晴香だって本当は授賞式に行くことは前向きではなかった。前の職場の人が来るかもしれないし、晴香もそういった場所とは縁遠かった。でも、詩となら頑張れるかもしれない。一人ではなく、二人なら乗り越えられるかもしれないと思った。


 詩はしばらく沈思してから「わかったよ」と一言だけ言った。晴香が目を大きくして顔を上げると、詩は涼しげに笑っていた。詩はよく笑う。しかし、その心の内はまるで読めない。その笑みはどういう感情なのだろうか。
「雨、止みましたよ」
 考えていると、隣に来ていた男の子が晴香の肩を叩いて教えてくれた。窓を見ると、いつのまに雨は上がっていて、再び強い日差しが降り注がれていた。
「じゃあ、また外で写真撮りに行こうか」と生徒たちを促してから晴香たちも店を出た。
 雨のせいでむわっとした暑さに息苦しかったが、それでも子供たちは楽しそうに写真を撮り続けた。
 その様子を傍観する中、あの切れ長の目をした女の子に変化があった。先ほどまで頬を膨らませていた彼女だが、今ではしゃがみ込んで土や苔、そしてその上を歩く虫たちを撮っていた。一度、彼女の後ろに立ったのだが、晴香がいることになど目もくれずに真剣に取り組んでいた。
 一時間ほど撮った後、晴香たちは写真館に戻って写真を現像した。今はインスタントカメラもデジタルプリントできる時代ですぐに写真はものとして誕生した。
 自分たちの撮った写真を手にした子供たちは歓声を上げて出来上がった写真をまじまじと見つめていた。その顔は溌剌としていて眩しかった。晴香の中で初めて写真を撮った遠い記憶がよみがえる。お世辞にもうまいとは言えない写真だったけれど、当時の晴香は嬉しくてしばらくは学校にもトイレにも、そして寝るときも肌身離さず持っていた。お守りのように持っているだけで、見ているだけで勇気が湧く。今ではすっかり職業と化した写真だが、本質はやっぱり楽しいから続けているのだと今日を通して再確認できた。
「ありがとうございました!」
 手を振って帰る子供たちを見送る中、彼女だけが晴香と詩の前で立ち尽くしていた。彼女は俯いて何か言いたげに両手を固く握りしめている。
「どうしたの?」
 晴香が声をかけると、はっと顔を上げた彼女は一瞬口を真一文字に閉じたが、意を決したように開いた。
「この、このカメラ、もらってもいいですか?」
 すごく緊張していたのか、彼女の声は予想よりはるかに大きく、顔は真っ赤に染まっていた。晴香の代わりに詩が中腰になり、彼女と目線を合わせて大きく頷く。
「もちろん。写真を撮ったらまたうちにおいで。いつでも待ってるから」
 詩が彼女の髪をくしゃくしゃと撫でると彼女は照れ臭そうに、そして嬉しそうに破顔した。
「うん!」と言って彼女は待ってくれていたと元へ去って行った。
「あの子、きっと詩さんに惚れちゃってますよ」
 後ろからひょっこり出てきた美輝がにやにやとした目を詩に向ける。
「そんな風には見えなかったけど?」
「絶対そうですよ。女の子が頭撫でられて、優しく笑いかけられて嬉しくないわけじゃないですか。そういうの気付ける男じゃないと詩さん一生独身ですよ。あ、まさか写真が恋人なんて寒いこと言わないですよね?」
「以後努力するよ。それに恋人なんて素敵な関係じゃないよ」
 少しも包む気配のない美輝の言葉に詩は少し俯いて乾いた笑い声をあげた。その横で晴香は二人の会話を聞いていた。別にどうでもいいけど、無視することもできなかった。詩にも恋愛感情があるのだろうか。誰かのことを想う瞬間があるのだろうか。詩からそういった話を聞いたこともなければ、誰かのことを想う素振りもない。
それに今の言葉が気にかかる。恋人はあれだけど、素敵な関係じゃないってどういうことなんだろう。詩は写真を撮って楽しいのかな。


 さりげなく詩の顔を覗いた晴香は固まってしまった。笑っていたかと思えば、詩の表情はなんとも柔らかかった。長い睫毛が汗で濡れて煌めいており、茶色の瞳は懐古するように遠くを眺めていた。
 意表を突かれた晴香は気づけば、詩のことをまじまじと見つめていた。
「何かついてる?」
「え、いや、なにも」
 あからさまに動揺していた。本当はいろいろ聞いてみたかったけれど、見えない扉が固く閉じている気がして、晴香は次の言葉が出なかった。
「お疲れ様」とお店からの階段を降りてきた笹崎さんの声で変な空気がいつも通りに戻った。
「子供たち喜んでくれたみたいでよかったね。これで将来、うちで働くなんて言ってくれたら私も早くあの世に行けるのにね」
「変な冗談はやめてくださいよ」と美輝が笹崎さんの肩を軽くたたく。晴香は内心ほっとしていた。勝手だが、先ほどの一瞬で詩からの距離を感じた。ここから入ってくるなと警告されている気がした。
 笹崎さんは晴香と詩の顔を見てから腕に着けていた時計で時間を確認した。
「二人はそろそろ準備した方がいいんじゃないかな。会場は東京だから余裕を持っておいた方がいい」
 晴香もスマホで時間を確認した。一日中外にいたのでシャワーも浴びたかったし、着る服も何も用意していないので今から準備しないと間に合わない。
「それじゃあ、お先に失礼します!」
 そう言って自転車にまたがり颯爽と緩やかな坂を下った。先ほど感じた距離は何だったんだろう。詩の顔に何があったのだろうか。
 胸のざわめきは頭上の木々が擦れる音が静かに思うほどほど大きかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?