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「しゃぼん玉に舞う」第三章 無題③

 曇天の空とは一転して、地上には真っ白な雪が深々と降っていた。歩く人は厚手のコートにマフラーを顔半分まで巻いて寒そうにしている。
 病院に入った順子は息が上がるも、肩や頭に積もった雪を払いながらかまわず受付に行き、面会の手続きをした。前のめりになる気持ちのせいか、それとも悴む手のせいなのか、書いている字が震えている。
 手続きを済ませた順子は急ぎ足で病室へ向かう。なぜなら今日の昼、詩から個展に展示する写真が決まったと連絡が来たからだ。会社で見た順子は興奮してデータを送ってほしいと連絡したが、『実際に見に来てほしい』と返ってきたので仕事が終わるなり走ってきたのだ。
 個展の作業が進むのとは違い、純粋に写真が見たかった。詩が選んだ写真がどの写真か、そしてなぜそれを選んだのか聞きたかった。
 エレベーターを降りてひやりとする廊下を歩いている中、一つの部屋を通り過ぎるときに足が止まった。ドアは開いていて中を覗いてみると、看護師がベッドをきれいに片づけていた。
「おお、順子さん」と詩の病室がある方向から同室の男性が声をかけてきた。詩の病室に頻繁に通っているので、すっかり彼とも知り合いになった。会釈を返して男性に尋ねた。
「ここにいた方、退院されたんですかね」
 いや、と男性は首を左右に振って病室を寂しげに見つめた。
「あそこにいた女の子がね、今日亡くなったんだ。今朝まですごい元気だったんだけれども、突然ね」
 うつむいた男性が何か思い出したように顔を上げた。
「ほら、蒼井君の棚にしゃぼん玉があっただろう。あれをくれた子さ。まだ小さかったのにな」
 順子の脳裏に夕陽に輝く紗香の笑顔が、そしてしゃぼん玉のケースを大事そうに握る詩の姿がよぎった。
「彼は、詩君はどこにいますか?」
「そういえば見かけね――ってちょっと」
 男性が呼び止めるのも聞かずに順子は詩の病室へ急ぐ。詩の病室を乱暴に開けたら、部屋はがらんとしていた。いつも棚上に置いてあるカメラも、そして紗香が渡したしゃぼん玉のケースも見当たらなかった。詩は今も体調が良好とはいえない、むしろ最近は良くなかった。冬だというのに額に汗が流れる。嫌な予感が何度も頭をよぎってしまう。
「どうしたんですか。院内では走らないでください」
 木原が慌てた様子でドア前にいる順子に注意を呼び掛けるが、当の順子は固まって見向きもしない。
「あの、どうされたんですか?」
 ドアの隙間から病室を覗いた木原は詩がいないことに小さな悲鳴を上げた。そしてすぐさま院内PHSで現状報告をする。こういう時の看護師の対応は順子のような素人と違って迅速だ。悲鳴を上げたのが嘘のように的確に連絡を取っている。
「私たちも探しましょう」
 肩を軽くたたかれた順子はやっと我に返り、二人は病棟の反対側へと早足で急ぐ。

 ほかの病室、自動販売機前、ナースステーション、あらゆるところを探したが詩の姿はどこにも見えない。
「もう一度探しましょう。もしかしたら見落としているところがあるかもしれません」
 ええ、と木原の後を追う順子はふと足を止めた。詩ならどこへ向かうだろう。もしかしたら……。
「どうしました?」
 顔が引きつる木原と目が合う。
「あそこにいるかもしれません」
 木原も『あそこ』が分かったのか、目を大きくさせて頷いた。
「行きましょう」
 二人はどちらからともなく頷いて走り出した。病院の最も高い場所へ。

 ドアを開けると、痛いほど冷たい風が吹きつけてくるので順子はコートのボタンを慌てて閉めた。薄いカーディガンだけ羽織っている木原はより寒そうで、目を固くつぶっている。二人とも呼吸をするたびに白い息が形となって空へ上っていく。
 普段色鮮やかな屋上は雪化粧となっており、本来あるはずの芝生や花壇は姿が見えず、葉をつけていない寂しげな木々は雪を被っており、返って華やかに見えた。
 そんな寒空の下、ジャンパーを着た詩がぽつんと立っていた。声をかけようと口を開いたとき、順子たちの前に透明の球体がどこからともなく流れてきた。よく見ると詩の口には緑色のストローが咥えられており、その先端から膨らんだしゃぼん玉が次々と空へ飛んでいる。紗香が詩にあげた、あのしゃぼん玉だ。
 本当は無断で屋上へ来た詩を叱らなければいけない木原も、詩としゃぼん玉が織りなす幻想的な景色に言葉が出ないようだ。
 誰もが動かない中、しゃぼん玉だけが順子たちの周りを自由に舞い、上空へ飛んでいく。そのしゃぼん玉を目で追っていた順子は空を見上げて思わず感嘆の声を漏らした。
 ここに来る時までの曇天とは一変して、頭上には数えきれないほどの星たちが煌めいていた。
 冬の空は澄んでいる。光の強弱や大きさまではっきりと見える。通常、雪が降っているところに星は見えない。同時に見ることのない二つの景色に吸い込まれてしまいそうだ。
 しばらく順子が夜空に魅了されている最中、視界の端に見えていた物体がぐらりと揺れた。いまだ陶酔したままの視線を流すと、詩の体がまさに雪の中へ倒れる瞬間だった。
「蒼井君!」
 息をのんですぐ木原が駆け寄る。順子も続いて傍まで行くと、詩はあおむけに倒れて時折苦しそうに咳をこぼしていた。それでも詩は震える手を動かして首から下げていたカメラを手に持つ。
「何しているの。早く病室に戻るわよ!」
 木原の怒鳴り声を無視して詩はゆっくりと震える手でカメラを眼前にもっていく。静かに呼吸を繰り返す詩の息が消えそうなろうそくのように白く上る。
 注意を訊かない詩を見て、木原が胸ポケットに入っているPHSに手を伸ばした。
「待ってください!」
 順子はボタンを押そうとする木原の手を咄嗟に掴んだ。掴まれた木原はひどく驚いた様子で順子の顔を睨んだ。
「どういう状況なのか分かって言ってますか? すぐにでも室内に戻して検査をしないと」
 掴まれてもなおボタンを押そうとする木原の手にさらに力を加えて、今度は完全に動きを制した。
 順子は自分でも何をしているのか分からなくなった。目の前に倒れている詩の弱弱しい姿を見れば、誰だって危険な状況ということは理解できる。今すぐ屋内に引きずりこんで検査でも手術でもしないと詩の命が消えてしまう。そんな状況にもかかわらず、順子は虚弱な姿の中に写真家としての詩を垣間見てしまった。詩が泣いたあの日、普通だよと言ったのに、まだどこかで期待している自分がいた。あの蒼井詩が写真を撮ろうとしている、順子に止められるはずがなかった。
「撮って、詩君。自由に」

 順子の言葉の後に一度だけ、微かにシャッターを切る音が屋上に響いた。見届けた順子の力が緩まると、すぐに木原は院内に連絡を入れた。
 木原がPHSから耳を離したと同時に、詩の手がだらりと垂れて、カメラが顔から流れて雪の上へ優しく落ちた。カメラで隠れていた詩の顔は微笑しており、もう雪は降っていないのに目じりから耳にかけて濡れた跡が一筋残っていた。
「蒼井君、蒼井君!」
 何度も詩の名前を呼ぶ木原の声はただ夜の闇に溶けていった。
 もう、詩の鼻から白い息は見えなかった。


 意識を失った詩はすぐに手術室へ運ばれた。その間も順子は待合室の椅子に座り込んで気が気でなかった。自分はなんてことを言ってしまったのだろう。あの場面で絶対言ってはいけない助言を口にしてしまった。黒い巨塔に光が射してきたころ、ようやく疲弊しきった医師と木原が現れた。医師の説明によると、幸い対応が早かったため、詩は一命をとりとめて今は病室で寝ているとのことだ。その場で崩れ落ちるほど安堵する順子を前に医師が厳しい顔をする。
「まだ安心はできません。昨夜の件が病気の次のステージに移行する引き金になることは十分あります。場合によっては容態が急速に悪化することも考えられえます。今回のようなことはくれぐれも注意していただきたいです」
 では、と言って去ってゆく医師と木原に深々と頭を下げる。本当に謝らなければいけないのは詩だったが、今は寝ているようだし、順子も仕事がある。
 外へ出ると、白い地面に朝日の力強い光が反射して眩しかった。目を細めながら病室があるはずの場所を見上げる。詩は紗香の訃報を聞いて何を感じたのだろう。なぜ、屋上にいたんだろう。
 順子はコートに身を包んで雪道を歩いて行った。
 仕事の最中も詩のことが気になって仕方がなかった。仕事が終わればその足で病院へ向かおう。デスクに戻って手帳を確認した。そこで一旦家に帰らなければいけないことに気づいた。今日は息子の習い事が休みなので早く帰ってくる。順子は頭の中で計算する。夕食を作ってから病院に車で向かえば何とか面会時間に間に合いそうだ。たまの時間、息子との時間を大事にしたい気持ちもあるが、今は詩への心配が募っていた。
 わき腹を押さえながら病院に入った順子は一息つきたい気持ちを我慢して受付へ向かう。
「……あのお、まだ面会できますか」
 若い看護師は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに表情を戻して「しばらくお待ちください」と言って面会の手続きをしてくれた。冬なのに汗だくで、髪も乱れたアラフォーの女が聞いてくるのだから彼女が驚くのも当然だ。
 順子は額やあごを伝う汗を拭いながら看護師に渡された書類を記入して病室へ向かった。指定された病室が今までの場所と違うので、詩は個室にいるのだろうか。
 ここに来るまで考えていなかったが、面会できるということは詩が目を覚ましたということだ。一瞬でも命を止めた詩と会うと思うと気まずいし、緊張した。また閻魔様に見放されたと思っているのだろうか。この世で生きることを苦痛に思っていないだろうか。
 様々な憶測が浮かぶが、順子は詩に欠けてあげる言葉をすでに心に決めていた。病室の前で乱れた身なりを整えてから、順子はドアをそっと開けた。

 詩は広い部屋で口にマスクをして静かに横になっていた。一瞬嫌な想像が浮かんだが、詩の隣で規則的になる電子音でとりあえず安堵する。これが詩の生きている証拠だ。
 詩を起こさないように忍び足でベッドの横に座ろうとすると、「ああ、どうも」とか細い声が聞こえて思わず涙が出そうになった。消えかかっていたが、どうにか風をしのいだ炎のように、声に温かみを感じられた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いえ、目を瞑ってただけなので」
 体を起こそうとする詩の肩に手を添えてそのまま寝かせる。枕に頭を預けた詩は「すみません」と小さく謝った。昨日のことを言っているのだろう。
「私こそごめんなさい。あんなこと言ってしまって」
 順子は立ち上がって深々と頭を下げた。とにかくまずは謝りたかった。彼の命が頑張ってくれたおかげで謝ることができている。もし、あのまま別れてしまったのなら順子は一生後悔を背負って過ごすことになっていただろう。
 しばらく床のタイルを見つめていると、「あの時」と詩の声が聞こえてきた。顔を上げると、詩が鍵盤のように白い指でマスクを外していた。すぐに点けようとすると、詩が大丈夫と手で制してくる。
「あの時、ようやく死ぬんだなと思いました。自分の意志ではなく、心臓の音がだんだん遅く小さくなっていくのがわかりました。でも、目を開けて病室の天井を見た時、心から死なずに済んでよかったと思いました。本当に順子さんたちが屋上に来てくれてよかったです」
 詩は話している間、順子は彼の手を握って彼の言葉に耳を傾けた。
「それは違うよ」と順子はかぶりを振る。首をかしげる詩に順子は口を開く。
「きっと詩くんをこの世に戻してくれたのは、君のご家族、そして紗香ちゃんじゃないかな。まだこっちに来たらだめだよ。寂しいかもしれないけど、もう少しそっちで頑張ってって」
 目を見開いた詩は柔和な笑みを浮かべた。
「そうか、僕が閻魔様だと思っていたのは家族だったのか。あっちに行ったら怒られそうだ」
「そうね」と順子は涙を浮かべながら頷いた。詩がゆっくり頭を傾けて順子を見つめる。
「俺、生きます。これから何があるか分からないけど、周りがつないでくれたこの命、最後まで存分に生きてます」
「自分の個展は自分の目で見ないとね」
「はい。余命の日ですから、まずはその日を目標に頑張ります」
「その時はご褒美でもあげようか。その方がやる気出るでしょ」
 苦笑した詩はしばらく考えてから口を開いた。
「そしたら、お好み焼きかな」
 予想外の返答に思わず聞き返した。
「どうして? ご褒美と言えば、お寿司とか焼肉とかだと思ったけど」
「お好み焼きは一人じゃしないから。それに、よく家族でしてたんです」
 詩はこめかみを掻きながらはにかむ。そうか。順子の家では休日のお昼によくお好み焼きを焼くのだが、確かに一人で食べる印象はない。あれはみんなで作る過程が楽しい料理なのだと改めて気づく。
「じゃあ個展が終わったらうちでお好み焼きしよう。笹崎さんたちも呼んで」
「そうですね。だったらビールも忘れずに。あの人、ものすごい酒豪なんで」
 二人は見合って同時に笑った。長い夜が明けた気がした。
 宣言通り、詩は生まれ変わった。
 次の日から退院を目指して治療に専念した。「仕事はほどほどに」と木原に言われた通り、詩は体を最優先に、出来る範囲で個展の話を進めるようになった。
 初めは順子も頻繁に病室に通っていたが、詩が頻度を減らしてくれと申し出た。もちろん自分の身体のこともあるが、その真意の中には順子の家族を想っての言葉だった。おかげで順子は家族と時間を共有できるようになり、家の中の雰囲気も良くなっている気がした。


 年齢を重ねると、時間の流れる速さに驚くことがある。少し前まで順子より背の低かった息子が、今や夫を追い越す勢いで成長している。入学当時は大きすぎると思っていた学ランも今では少しきつそうだ。
 長い梅雨がそろそろ終わり、来月から本格的な夏が始まる。ハンカチで汗を拭う順子が足を延ばす先はもちろん病院だ。
 生暖かい病院へ着くと、すでに詩がロビーのソファに座っていた。周りには看護師の木原と担当医もいて、三人で静かに談笑していた。遠くから見える彼もこの二年半で大分変わった。まだ全快とは言えずとも、治療のおかげでずいぶん顔色が良く見える。パジャマ以外の歌を見るのが久しぶりで思わず涙が浮かぶ。彼と医師の努力によって今日の外泊許可が認められたのだ。
 三人で話している最中、順子に気づいた詩が小さく手を挙げる。
「ごめん、遅くなって。もう行く準備は万端ね。車すぐ近くに停めてあるから」
 順子は三人に会釈を返しながら歩み寄った。今日は詩の希望で個展を開催する場所を視察することになっていた。個展開催まで一ヶ月を切った今日、準備は着々と進んでいる。
「あの、せっかくここまで来てもらって申し訳ないんですけど、古典の場所までは一人で行ってもいいですか」
 先導して歩く順子の後ろで詩が微笑していた。順子は心配のまなざしで詩の隣にいる医師の顔を確かめた。彼が小さく頷くのですでに相談済みなのだろう。
「分かった。でも、途中できつくなったらすぐにタクシーでも拾うのよ」
「はい」
「外すごく暑いから、こまめに水分補給してね」
「さっき病院の購買で買いました」
「私の電話番号知ってるわよね。困ったら何でもいいから電話して」
「了解です」
「えっと、それから」
「大丈夫ですから。ゆっくり行くんで先に待っていてください」
 詩は少し迷惑そうに、でも嬉しそうに順子の横を通り過ぎて入口へ向かっていく。周りを見て年月を感じていたが、順子も二年半分年を取ったのだと感じた。それでもお節介が止まらない順子が詩の元へ駆け寄ろうとすると、詩の方から振り返って来た。
「まだ少し先の話ですけど、あの約束憶えてますか」
 順子は考える間もなく口を開いた。
「もちろん。この二年でだいぶ上達したんだから。詩君食べたら舌とろけるわよ」
 順子が両手でお好み焼きをひっくり返すそぶりを見せると、詩は歯を見せて笑い、そのまま久しぶりの外へ歩き出した。
 順子もすぐに車に乗って目的地へ向かった。車で走ること十五分、順子は一足先に目的地に到着した。室内に入らず、玄関で詩の到着を待っていたのだが、いつまでたっても詩はやってこなかった。
 うっそうと鳴り響く蝉の声を聞いて待っていると、順子が手にもつスマホが震えた。表示された番号を見ると、詩のではなく病院からだった。
「もしもし」と出て医師の話す内容に耳を傾けた。集中していたのに何を言っているのか理解できなかった。通話を終了してだらりと手を下ろす。
 詩が亡くなった。
 ナイフを持った犯人が詩の胸めがけて飛び込んだ。
 犯人はその場で取り押さえられて連行されたらしい。
 あれだけうるさかった蝉の声がずいぶん遠くに聞こえた。
 犯人は、前川勇気と言う無職の男だった。

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