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「しゃぼん玉に舞う」エピローグ①

 北鎌倉駅のホームへ降り立ち、端に置いてある一つだけの改札口に交通系ICをかざして駅を後にした仁美は照り付ける日差しを一瞥して額に手を置く。後ろで先ほど乗っていた電車が鎌倉へ向かってゆっくりと走りだしていた。混みあっている乗客はほとんど鎌倉行きで、仁美と同じく北鎌倉に降りた人は数人しかいない。
「あっちじゃない?」
 恵が指さす方を見て仁美たちは歩きだした。
「珍しいよね。恵が食事以外で誘ってくるなんて」
「私はそんな食い意地張ってないから。お互い仕事を忘れる時間も必要でしょ」
「でもよく見つけたよね。恵が写真に興味があるなんて今まで知らなかった」
 仁美は頭に両手を置いて日差しから守っていた。こんなことなら帽子でも被って来たらよかったと今更ながら後悔している。
「私じゃなくてクラスの生徒が偶然これを見せてきてね、見たときはびっくりしたわ」
 そう言って恵が渡してきたのは一枚のチラシだった。チラシには泡がデザインされており、懐かしい名前が載っていた。来る前に一度メールで送ってもらっていたが、現物を手に取ると今から行く場所がより実感できた。
 まじまじと見つめていると、恵がチラシを取り上げた。思わず「あ」と声が漏れた。
「まさか、まだ気があるなんてことないよね?」
 訝しい目つきで見てくる恵に仁美は左手を堂々と見せた。薬指には太陽にも負けないほど輝く指輪がはめてあった。
「まさか。いつの話よ」
 円覚寺の門を通り過ぎて仁美は微笑した。
 正直、詩の姿が消えてから他の男性と一緒に生活をすることになると、当初は考えもしなかった。気持ちも落ち込み、公私混同しないようにと努めてきた仕事も手に着かない時期があった。
 あの頃の仁美にとって詩という存在がそれだけ大きかった。
 しかし、仁美もこれではいけないと仕事に邁進しているうちに詩のことを思い返す頻度は減っていった。詩のことが薄れていくと周りにも目を向けられるようになり、一年半前に現在の社内の先輩と交際を始めて、ついに先月婚約した。周りにもそうだが、自分のことも冷静に考えられるようになった。仁美は転職活動を一度中断して仕事に集中した。まだこの仕事のことをすべてわかってもいないから、まずは続けていこうと思ったのだ。そして三年後に要約したい仕事が見つかり、転職をした。
 この頃には詩のことはほとんど忘れていたが、街を歩く中で見かけるポスターや雑誌の広告を見るたびに胸の奥がかすかにざわめいていた。どの写真も『泡沫』という名前の写真家だが、仁美は蒼井詩の写真だと確信していた。
 初めて広告を目にしたとき、六年前に一度だけ見せてもらったアルバムの写真の数々が記憶の片隅から鮮明に浮かび上がってきた。あの頃の衝撃とは比較にならない、より洗練された写真が載せられていた。

 まず、初めに仁美が思ったのは「元気そうでよかった」ということだ。あの頃から詩は写真を撮るために命を削っているような生き方をしていた。急に姿を消した詩がいつどこで死んでいたとしても不思議には感じられなかった。
 安心の次に来るのが詩は仁美のことをどう思っているのだろうか、今でも少しは彼の記憶の片隅に残っているのだろうか、ということだ。別にいまさら何か展開を期待しているわけではないが、詩の写真を見るたびに心につっかかっているしこりが疼く気がした。それは婚約者といるときも時々疼き、そのたびに平然を装っている。
 しこりが肥大することはないが、消滅することもなかった。
 そんな時に恵から誘いの連絡が来た。連絡とともに添付されたチラシを見たときは驚きで目を見張った。
 拡大して何度も目を凝らしたがチラシに書いている名前に間違いはなかった。ここに行けば詩に会えるかもしれない。確信はないけれど、直感でそう思った。そして、詩と会うことこそが仁美の心に残るしこりを消す方法だと感じた。仁美はメールを見て三分とかからず返信を打ち込んでいた。

「それにしてもよく覚えていたよね」
 線路沿いに続く一本道を歩いてきた仁美たちだが、ここからは分かれ道。恵は立て看板に描かれている地図を険しい顔で睨み、顔を上げて左に折れる小道を指さした。
 照り付ける日差しは葉のレースによって柔らかな木漏れ日と化し、涼しい風が吹き抜けて張り付いたシャツが軽やかになびく。電車の音は遠のいて、代わりに左側に流れる川のせせらぎが清らかに響いている。なだらかな上り坂の続く明月院通りは真夏とは思えないほどひっそりと静かだ。
 明月院を通り越して進むこと五分、一軒の立派な日本家屋が奥に見えた。そこで詩の個展が開かれているようだ。近くまで寄ってみると、確かに表札のあるべき場所に個展名が書かれているが、人がいる気配がまるでしない。この通りのような現代に置いて行かれたような厳かな雰囲気がする。
「本当にここで合っているよね?」
 恵が竹で出来た門扉から体を覗かせていると、徐に玄関が開いてカジュアルな服に身をまとった女性が一人現れてこちらに歩み寄ってきた。
「あの、この個展はここで合っていますか?」
 仁美の見せたチラシを見た女性は柔らかな笑みを浮かべて丁寧にお辞儀をした。
「はい、そうです。すみません、ちょうど席を外しておりまして」
 どうぞ、と女性は門扉を開けてくれた。玄関まで続く敷石を歩きながら仁美は周りを見回した。左右は緑で覆われて、草木の間から白い蝶が優美に舞っている。森閑としたこの場所を選んだのが詩らしいと恵の後に続く仁美は一人で笑みをこぼしていた。
 玄関の戸を開けると別の女性がいて、彼女に促されるまま靴を脱いで靴箱に入れる。
「二名様ですね?」
 ゆったりと話す案内役の女性に返事をしながら鞄から財布を出そうとすると、彼女の声が仁美たちを止めた。
「当個展は無償でご覧出来ますので、どうぞこのまま廊下を進んでください。突き当りを左に曲がりますとお座敷がございまして、そちらに多くの展示物がございます」
 無償と言うことに驚きを隠せなかった。詩ほどの写真家の個展が無償と言うことはどういうことなのだろう。彼女たちは今ボランティアで案内をしているのだろうか。色々考えることはあるが、仁美にはわかりようもなかった。
 案内役の女性に会釈をして仁美たちは狭い廊下を進んでいく。すると、向かいから鑑賞し終えた客が来るのが見えた。
「あ、先生!」と言って前を歩いていた女の子が小走りに近づいてくる。仁美は咄嗟に後ろを歩いている恵を振り返る。会社員である自分が『先生』と呼ばれる覚えはないし、恵が中学校の教師だから呼ばれるなら彼女だ。
「こんにちは。先生来てくれたんですね」
「こんにちは。元気がいいのは良いけど、こういうところでは静かにね」
 普段話す口調より落ち着いた声色で女の子を注意する恵は仁美の記憶にわずかながらに残っている担任教師を彷彿させる。学生時代を共にした友人がきちんと教師をしていることが可笑しくて口元が緩む。
「ここは教室じゃないんだからドタバタするなよ」
 遅れてきた男の子は呆れたように小さく溜息をついていた。どうやらこの男の子は無理やり連れてこられたようだと勝手に推測した。

「植木も来てたのね」と言い恵が仁美と中学生の間に立つ。
「この子たちは私のクラスの子で、古賀綾乃さんと植木衛くん」
 恵の紹介に従って綾乃ははきはきと挨拶をして、衛は小さく会釈をする。仁美も自己紹介をして綾乃の首に提げられているカメラを指さした。あったときから気になっていた深紅色の一眼レフを。
「綾乃ちゃんは写真撮るのが好きなの?」
「最近始めたんですけど、なかなかうまく撮れなくて。私、この個展を開いた蒼井詩さんの写真を見てカメラを始めようと思ったんです」
 綾乃はカメラを手に取って目を輝かせながら語った。突然綾乃の口から詩の名前を聞いた仁美は一瞬身体が固まったが、すぐに気を取り戻して「そうなんだ」と相槌を打った。まだここにいることが現実とは思えなかった。
「それで、勉強にはなった?」
 恵の問いに綾乃の目が一回り大きくなった。
「勉強になるというよりは圧倒されました。まあ、素人の私が何言ってるんだって感じですけど。でも、これだけ多くの蒼井さんの写真を近くで見られたことだけでもいい経験でした」
 見てきた写真への興奮が再燃したのか、綾乃は一歩前に出て仁美たちに熱く語り続けた。
「あれ?」
 綾乃の話を聞いている途中で隣にいた衛がふと声を洩らした。その声につられるように衛を見ると、首をかしげて仁美をじっと見つめていた。
「どうしたの?」
 仁美が少し首を傾けて優しく尋ねた途端、衛は目を大きくして何か納得したかのように大人二人を見て頷いた。
「だから先生たちは来たんだね」
 言葉の意味が分からず困惑している仁美たちを置いて衛は綾乃の手を引いて玄関へと歩き出す。
「ちょっと、どういうこと?」
 たまらず恵が振り返って尋ねると、靴箱からスニーカーを出した衛がこちらをまっすぐ見ていた。
「ゆっくり見てきてください」
 質問の答えとは思えない言葉だけを残して、衛は玄関から姿を消した。すぐに綾乃も衛を追って出て行った。
「だからどういうことなのか聞いたんだけど」
 肩をすくめて先に進む恵とは異なり、仁美は先ほど衛が出ていった玄関から目を離せなかった。
 どういう訳か、衛は仁美に向けて話していたような気がした。
「仁美、行くよ」
 先に奥へ進んでいた恵から呼ばれて我に返った仁美は手を上げて追いかける。
 二人で廊下を歩いている間、先ほどの衛の言葉がやけに頭に染みついて離れなかった。


 長い廊下は足を置くたびにその年月を音で表現していた。壁に窓はなく、明かりは天井から吊り下げられている照明のみだ。しかも照明のカバーは雨や花柄がデザインされたステンドグラスで出来ており、廊下はその模様によって水色やオレンジ色に柔く照らしていた。
 ここからすでに個展は始まっており、左右の壁に間隔に余裕をもって写真が飾られていた。仁美たちはその一枚一枚をじっくり鑑賞しながらゆっくりと進んでいく。写真を見ていた仁美はなんだか懐かしく感じた。確かにこれまでも詩の写真は広告やポスターで見てきたが、ここに飾られている写真はそれよりも自由に見えた。仕事としてではない、詩が見たままの景色が広がっている。 それはあの頃の、仁美が出会ったころの詩の写真に似ていた。
 写真の下に小さく撮影された日にちが書かれていたが、どれも詩が姿を消した後に撮られたものだった。詩はあれからこんな景色を見てきたんだ、この景色を詩はどんな表情をしながら撮っていたのだろう。仁美は写真を通して一心にレンズを覗く詩を想像した。
 一歩進むごとに鼓動がゆっくり、そして大きくなっていく。果たして今日、詩は来ているのだろうか。会ったらまずなんて話しかけよう。「久しぶり」、それとも「おめでとう」。そもそも自分のことを覚えているのだろうか。こんなことなら案内係の女性に聞いておけばよかった、と仁美は今更後悔する。
 余計な緊張を高めながら写真を見ているといつの間にか突き当りまで来ており、目の前の壁には左側に矢印が向いていて『順序』と記されていた。
 順序に従って左側を覗くと薄暗い廊下とは反対に、光に視界を奪われて仁美は思わず目を瞑った。しばらくして目が慣れてくると光の射す方向には畳の部屋があり、奥に庭のようなものまで見える。まだ一部しか見えないが、座敷の間は奥行きがあって随分広く感じられた。
 光に吸い寄せられるように座敷に足を踏み入れた仁美と恵はどちらからともなく感嘆の声を洩らした。
 座敷は仁美たちのいる場所から右奥へと続いており、少なくとも三十畳はあるのではないだろうか。座敷の中央上部に大きな梁があるので本来は二つの部屋に区切られたのかもしれない。
 さらに座敷と庭の間には縁側が続いており、玄関で見た外見からは考えられないほどの大広間となっていた。
 その大広間の壁一面に写真が飾られており、今もご婦人たちが三人でちょうど対角線上に当る左奥の写真を鑑賞しているというよりは、鑑定しているかのように前のめりになって見ていた。
「すごい家ね、ここ。空き家だったのかな」
 恵の声も部屋の壮大さにひるんで自然と小さくなっていた。仁美たちはとりあえず入り口すぐの壁に目を向けた。そこには写真ではなく、壁一面を覆う大きな解説パネルが張られていた。パネルには文字とともにチラシと同じ、モチーフの泡が背景にデザインされている。
 何気なく目を通していた仁美はあるところで目が留まった。そしてその文字を理解するのにしばらく時間がかかった。
「仁美、これ……」
 どうやら恵も同じ箇所にたどり着いたようで、口は半ば開いているが言葉が出てこないといった様子だ。仁美は一歩パネルに近づいてその文字に触れようとして、寸前で伸ばしていた指をぎゅっと握った。
 蒼井詩の名前の下には西暦が書かれており、そこには確かに『没』という字が書かれていた。何度見ても没は消えないし、もちろん事実も変わらない。先ほどまで高鳴っていた鼓動が一瞬で静まった。
 詩はすでに亡くなっていた。しかも今年に。
 縁側から差す陽光が急に明るさを失い、部屋が薄暗くなる。先ほどまで輝いていた写真たちが俯いたように見えた。薄暗い時間は一時で、またすぐに部屋は光に包まれたが、同じ写真が先ほどとは別物に見えてしまう。
「仁美、このこと知ってた?」
 絞るような声で訊いてくる恵に小さく首を横に振る。それが精いっぱいだった。仁美の記憶に残っている詩の顔が脳内で上映された。柔らかくて長い髪、心を見透かすような澄んだ薄茶色の瞳、消えてしまいそうな後ろ姿、片隅に置いていた記憶は鮮明に映し出されていく。
 仁美の記憶の中でまだ詩は生きていた。心臓を動かして呼吸をして、カメラを構えていた。しかし、どれだけその姿を探そうとも、この世では見つからない。
 信じられないという気持ちが半分で、もう半分は不思議と理解できてしまう自分がいた。もともと普通の人とは異なる雰囲気、人ならざる者の気配をまとっていた詩は写真で周りの人たちを惹きつける存在であり、どこか危ない存在だった。いつ何が起こってもおかしくない、カメラ以外のことを恐れていないといった詩の姿を見てきた仁美からすれば、妙に納得している部分もあった。
 自分でもおかしいと思いながらもわかってしまうのだから仕方がない。まだ茫然と、そして心配そうな目で見てくる恵を置いて、仁美は解説の続きを読み進めた。
 詩が生まれたのは九州の長崎県、坂の多い街で生まれた。両親と兄との四人で暮らしていた詩に突然訪れる家族の死。
 母方の祖母のいる東京に越して小学校に入った詩が初めてカメラで撮影したのが小学三年生、祖母が偉く褒めてくれるので好きになり、誕生日、お年玉、クリスマスを三年我慢して中学一年生の時に初めて自分のカメラを購入した。
 しかし、詩が中学二年生の修学旅行から帰ってきた時、ただ一人の身寄りである祖母が玄関先で亡くなっているのを目撃。詩は本当に一人ぼっちになってしまった。
 独りになった詩は中学卒業後、定時制の高校に通いながら写真を撮り続けて卒業する。卒業後もアルバイトをしながら写真を撮り、二十一歳の時に単身で南米に渡る。
二年の渡米を経て、詩はここ北鎌倉にある『笹崎写真館』に勤め、半年後に審査員特別賞を受賞した。それから云々……。

 最後まで読み終えた仁美は軽く息を吐いた。詩が九州の生まれだということはもちろん、幼少期の出来事、あの日突然姿を消した後南米、二年後には北鎌倉にいたことなど、あまりに知らない情報が多すぎて誰のことを読んでいるのか一瞬分からなくなってしまいそうだった。標準語を滑らかにしゃべる詩が九州の生まれなんて微塵も想像しなかった。
 一緒にいた当時、仁美は詩のことがもっと知りたくて過去のことを聞こうとしたが、あの時はどういうわけか心にストップがかかり、結局聞くことができなかった。柔らかな瞳の奥から踏み込んではいけない光がくっきりと見えたのだ。
 詩がなぜ人ならざる者の気配を醸し出していたのか、ようやく結びついた気がした。
「北鎌倉って、意外と近くにいたんだね」
 普段の調子を取り戻して恵は解説を目で追っていた。妙に干渉せず、適当な距離を取って接してくれる恵はやはり十年来の親友だ。仁美の苦手なことやしてほしいことを、恵は言葉を交わさずとも瞬時に感じ取ってくれていた。
「そうだね」と返して、仁美は奥へ進んで展示されている写真をゆっくり眺めていく。廊下の写真とは異なり、座敷に展示されている写真には一枚ずつタイトルがつけられていた。
 三枚目の写真を見た仁美の足が止まった。静寂な空間で思わず「あ」と声が漏れた。目の前に飾られている写真には、濃淡のまばらな灰色の雲が滲むように写っていた。実物は見えないが、それだけで雨が降っていることが分かる。この曇天の空は仁美も見覚えがあった。詩の家に泊まった朝、確かあれは土曜日の朝だった気がする。家から急に飛び出した詩が傘もささずに夢中になって撮影したあの空だ。
 Tシャツや髪がぐしょ濡れになっても撮り続ける詩の姿がありありと目に浮かぶ。写真を撮っている時こそ、詩が生き生きとしている瞬間だった。
 何年も前のことなのに思い出す景色に懐かしさを覚えながら、ふと顔を上げた仁美の目に隣の写真が留まった。追いついてきた恵が微動だにしない仁美を見て不審に思い、写真を覗くとはっと息をのむ音が耳元で聞こえた。
 仁美はこぼれてしまう感情をとどめるように唇をぎゅっとかみしめて写真の前に立つ。写真は白黒で、タイトルは『夢中』と名付けられていた。
 写真の中には陶酔した眼差しを向けている仁美の姿があった。ずいぶん前のことなので若干若く見えるが、確かに自分がこちらを見るような構図になっていた。カメラを意識しているわけではない、この後に起こることを何も知らない、純粋に魅了されている。今が一番幸せだ、と言わんばかりの表情だ。
『きちんと見せられるものにしてから見せてあげる』
 詩の言葉が体の奥から聞こえてきた。詩がこの言葉を覚えていたかどうかは分からないけれど、詩はきちんと約束を守ってくれたのだ。

「本当に夢の中にいるみたいな顔しちゃって」
 若かりし頃の自分に話しかけても若かりし彼女は何の返事もしない。仁美は先ほど玄関から出ていった衛の姿を思い出した。きっと彼はこの写真を見た後に仁美と会ったから、首を傾げていたのだろう。
「『ゆっくり見てきてください』か……」
 改めて仁美は『夢中』を鑑賞した。今この写真を見てもあの当時、詩が仁美の前から姿を消した時に抱いていた悲しみや喪失感は一切浮かび上がってこない。むしろ感謝をしているくらいだ。あの時あのタイミングで詩と出会ったから今の自分がいる。仁美にとってかけてはならない大切な一つのピースだ。
「うわ、仁美綺麗に撮ってもらってるじゃん」
 写真を見た恵も「……はあ」と感嘆の息を洩らす。被写体として写っている仁美もそうだが、見る人さえも夢見心地にする、そんな魅惑的な写真だった。
 仁美たちがしばらく『夢中』の前で佇んでいる間にご婦人たちが出ていき、新たに数人が座敷に入ってきた。仁美たちの後ろを通るときに「素敵ねえ」と呟く声が聞こえると、自分が言われているようで嬉しくなる。詩の写真の一部になれた気がした。
「あのー」と自分に声がかけられていると気づくまでに数秒かかった。はっと顔を上げると、一人の女性が目を丸くしてこちらを覗いていた。胸あたりまで伸びているウェーブのかかった茶髪を後ろで一つに束ねた女性の姿はドライフラワーのように大人びて見えた。目じりから薄く刻まれている皺や柔らかな表情からは親のような親しみを感じられる。
「突然声をかけて申し訳ございません。私こういうものでして」
 茫然とする仁美に女性は名刺を渡してきた。隣にいた恵ももらって二人で名刺に書かれていた名前を見て、再度彼女の顔を見つめた。某有名企業の社名よりも彼女の名字に注目が向いた。この名字と同じ人を先ほど紹介されたばかりだから鮮明に覚えている。
「今回開催された個展の協賛企業でして、植木順子と申します」
 順子は仁美たちに向かって凛とした姿勢で深く頭を下げた。


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