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「しゃぼん玉に舞う」第二章 旅人③

「ちょっと、早く歩かないと間に合わないって」
 晴香が振り返った先には苦しそうにネクタイを締めながら重たい足を上げて気怠そうに階段を上っている詩がいた。普段着慣れていないスーツに相当違和感があるようだ。そういう晴香も紺のドレープドレスにハイヒール、髪も上品にアレンジしており、時折ガラス窓に映る自分の姿を見て恥ずかしくなる。ドレスは家にあった一張羅を引っ張り出してきて、ヘアメイクは美輝にしてもらった。
「間に合わないって、まだあと十分もあるよ。しかも会場は駅からすぐらしいし」
 スマホの時計を見た詩が階段の途中で足を止める。なかなか前に進まない詩を見かねて晴香は階段を足早に下りていく。
「でも、私たち受賞者なのよ。時間ギリギリに行ったら――」
 あ、と口から声が出る前に慣れないヒールのせいで足が滑り、身体が傾いていく。それまであるべきところに収まっていた内臓が体内で自由に移動して妙な浮遊感に襲われた。反転していく視界の端で誰かの悲鳴が聞こえた。しかし、晴香の身体はしゃぼん玉に包まれたように音が聞こえづらい。怖くて思わず目を瞑った。
 これから無様に転んで擦り傷や打撲、出血もするかもしれない。その痛みで悶絶するのかと思えば、晴香の身体は大きなものに支えられて静止した。浮遊感は一瞬で消え去り、代わりに重力を感じる。恐る恐る目を開けると詩の顔が目の前にあって驚いた。どこまでも見透かされてしまいそうな薄茶色の瞳が見下ろしていて目が離せなかった。しかし、背中にしっかりとした男の腕の感触が伝わった晴香はその腕に押されるように立ち直った。
「……ありがとう」
 恐怖で乾ききった口を開いて言うと、詩はふっと微笑した。
「せっかく綺麗にしてきたのに傷だらけになったら台無しだ」
行こう、と言って周りにいた人たちが固まっている隙に詩は晴香の手をしっかりと握り階段を駆け上がった。
 地上の鮮やかな明かりに照らされた詩は幻想的だ。
 軽やかな革靴と少しぎこちないヒールの音が階段に響いていく。


「……えー、今後もいち写真家としてより一層邁進し、見てくださる方々の心に残る作品を撮り続けていきます。本日はありがとうございました」
 晴香が深く頭を下げると一斉に拍手で会場は包まれた。体の前で重ねている手は小さく震えていた。まだ緊張しているのか、拍手の音よりも自分の鼓動の方が大きく聞こえてくる。
 壇上から降りて、自分の席に着いたところでようやく胸をなでおろした。のどが干からびていたので目の前のグラスに入っている水を一気に飲みほした。そして手汗がひどかったのでバッグからハンカチを取り出して念入りに拭いた。
 後は士気が終わるのを待つだけかと思えば、受賞者に落ち着く時間など設けられていなかった。「しばしご歓談を」というアナウンスが入った拍子に次々と人が押し寄せて、その人たちと会話を交わしていく。こういった式に晴香はこれまで参加したことがなかったが、受賞者は相当神経をすり減らして疲労を蓄積していることを痛感させられる。よく、映画祭の授賞式などがテレビで流れていて、客観的には華やかで、受賞者も素敵な時間を過ごしているのだろうと見ていたが、もしかしたら彼ら彼女らも今の自分のように緊張と疲労で今にも倒れそうなのかもしれない。普段輝いて見える芸能人も自分と同じように人間なのだ。
晴香は自分の手汗を見てほっとした。このように賞賛される空間にいると自分が何者かわからなくなりそうだ。しかし、手汗のように人間らしい部分を見るとどうしてか心が落ち着く。少しだけ笑みが自然体になってきた。
 目の前にいる男性との会話が終わったとき、「江崎さん」という声がしたので振り向くと、後ろのドアから順子が逸る気持ちを抑えるように歩いてきた。仕事終わりなのか、ジャケットにパンツ姿だ。
「改めておめでとうございます。すみません、仕事が片付かずにこんな時間で」
 順子は足をそろえてゆったりと頭を下げる。そして顔を上げるとすぐに話を変えてきた。
「聞きましたよ。彼のいる写真館に転職したんですね。そういえば、彼来ました?」
 興味津々にあたりを見回す順子に首を左右に振って見せる。
「このホテルの近くまでは連れてきたんですけど、やっぱりやめとくってどこかに行ってしまいました」
 そうですか、と順子は残念そうに視線を落とす。驚かない様子を見ると、少しは想定していたのだろう。
 地下鉄からの階段を上った晴香は詩に手を引かれてホテルの前まで来たのだが、いざ入ろうとする前に詩は握っていた手を離した。
「やっぱりやめとくよ。こういうところは苦手だし」
「何子供みたいなこと言ってるのよ。笹崎さん怒るよ」
 晴香が前にいる詩の手を掴もうとすると、するりと躱された。詩は引いた手を口の前にもっていき、人差し指を立てた。
「さっき助けたお礼に黙ってて」
 微笑した詩はホテルでも駅の方面でもない道を歩き出した。
「ち、ちょっと――」
 呼び止めても詩は振り返らずにそのまま夜の街へと消えてしまった。
 あの、と目の前の順子が顔を覗いていた。
「蒼井さんってどういう方なんですか?」
 順子の問いに晴香はしばらく考えて、
「……しゃぼん玉みたい」
 と呟いた。
「しゃぼん玉、ですか?」
 順子は首をかしげていた。そうなるのも仕方がない、言っている晴香でさえよくわからないのだから。しかし、そう言うしかなかった。


 この二週間、同じ職場で働いたが詩の人物像ははっきりとは見えてこない。まだ短期間だからということもあるが、つかみどころのない人だった。
 口数は少ないが人が嫌いという訳ではない。詩は何かと町の人に気に入られていた(前のめりの人には気後れしているが)。突き放すわけではないが、近寄ろうともしない。何度か晴香から歩み寄ろうとしたこともあったが、ホテル前みたいにはぐらかされてしまう。
 その姿が、晴香はしゃぼん玉のように思えた。
 しかし、そんなつかみどころのない詩もカメラを持ったら人が変わる。
 あれは写真館で働きだして三日目、特に仕事のなかった写真館を笹崎に任せて詩と晴香は個人の撮影をしに行った。鎌倉には小さな寺や神社仏閣が点在しており、それぞれの雰囲気が醸し出されている。
 一日かけて寺巡りをした晴香は最後に予定していた由比ガ浜へ行った。日も暮れた夏の海は誰かを待っているかのようで、しかし置いていかれているようにも見えて、どこか寂しそうだった。
 しばらく海辺を歩いていると、遠くに詩らしき姿が見えた。詩は海に向かってシャッターを切っていた。
「おーい」と手を振って呼んでみたが気づく様子はないので、諦めて晴香の方から近付いていく。近づくにつれて鮮明になる詩の顔は真剣そのものだった。力強い瞳は決定的な瞬間を逃すまいと光っており、夕日を浴びて佇む姿勢は凛としていて嫋(たお)やかに見えた。
 晴香は突然こぼれてきた涙を拭った。オレンジ色に照らされる詩を見ていたら、とてつもなく寂しく感じた。詩は写真を撮ることに魅了され、とりつかれているようにも見えた。写真を撮ることでしか生を感じていないかのような。
「晴香もここに来てたんだ」
 晴香に気づいた詩はカメラを離して微笑した。潮風が吹いて詩の柔らかい髪がなびいた。風に吹かれてそのままどこかに消えてしまいそうだった。晴香は鼻をすすって歩み寄り、詩の隣に並んだ。
「いい写真撮れた?」
 うん、と頷く詩の足元を見おろして彼が裸足だということに気づいた。近くに靴すら見当たらない。
「どうして靴を履いていないの?」
 晴香は目を丸くした。
「色々足の裏から伝わるんだ。気持ちいいよ」
 詩は微笑して乾いた砂に足を乗せる。すると細かい砂が踝くらいの高さまで音もなく包み込み、足を上げると水のようにさらさらと流れ落ちていく。その一連の動作が美しかった。
「晴香も脱いでみたら?」
 詩に促されるように晴香も穿いていたサンダルを脱いで、二人はしばらく海辺を歩いた。乾いた砂は日中の余韻でほんのりと温かく、波打ち際の砂はしっとりとしていて気持ちよかった。
 そういえば、裸足で外を歩いたのは久しぶりのことだった。小さいころはよく裸足で駆けまわったり、アスファルトでも泥の中でも裸足で遊んだりしていた。手足で直に触れることで自然を感じていた。それがいつの間にか靴を履くようになった。それはもちろん外では怪我をする恐れもあるし、裸足で歩いていたら周りから変な目で見られるので履くのは当然だ。
 だが、晴香は見えない何かに怯えるようになっていた。
 隣で風を受けながら歩く詩を見上げた。詩は体を、命を使って写真と向き合っていた。小さく細い足跡と、大きくしっかりとした足跡、二つの異なる足跡が砂浜に続いていた。

「江崎さん」と順子に声をかけられて、晴香の視界が砂浜から授賞式のホールへと変わった。頬を人差し指で撫でると濡れていた。浜辺で詩を見た時と同じように胸が詰まった。
「何考えているかわからないんですけども」
 晴香は手に持っていたハンカチをぐっと握った。
「写真に対しては真剣な人です」
 向こうで呼ぶ声がしたので、晴香は順子に会釈してその場から離れた。それから何人かと会話を交わしたが、話している間も晴香の脳裏には夕陽を浴びる詩の姿がよぎっていた。詩は緊張するのだろうか。声が震えたり怯えたりするのだろうか。しかし、すぐにその考えは途切れた。詩のそのような姿は想像できなかった。苦手だとは言っていたが、来たら意外とそつなくこなすタイプのはずだ。
 詩は今もどこかで飛んでいる。
 ふと、潮の香りが鼻をくすぐった。そんな気がした。


 これで最後――。
 部屋に積まれた段ボールの上に抱えていた段ボールを置いた晴香は地べたに座った。網戸の外ではセミの命の叫びが今日もけたたましく聞こえている。授賞式から十日後の休日、毎日の電車通勤も悪くはなかったが、やっぱりどうせなら近くに住んだ方がいいと思って引っ越しを決断した。晴香が笹崎さんに引っ越しを考えていることを話すと、知り合いの不動産に問い合わせてすぐに家を借りることができるよう手はずを整えてくれた。家賃は五万円で六畳、トイレとお風呂が一緒のユニットバスは学生時代のアパートを思い出させる。鎌倉は勝手に家賃の相場が高いと思っていたが、探せば安いところはどこにでもあり、都内で借りていた部屋よりも幾分安くなった(その分給料も減ってはいるが。)
 それにしても、と晴香は首に巻いていたタオルで顔から噴き出る汗を拭いた。午前中に電気を通してもらったはいいが、肝心のエアコンが故障していた。すぐに業者に連絡した結果、修理は明日になった。風通しの悪い部屋は外よりも暑苦しい。とりあえず晴香は届いた荷物から真っ先にサーキュレーターを取り出し、窓を開けてできる限りの風を通していたが、肌を撫でるような柔らかい風がそよぐだけで決して涼を感じるものではなかった。
 蒸し暑い室内だが、引っ越し作業を終えた晴香は疲労と睡魔に襲われていた。晴香は溶けるように隣にある段ボールに身を預けた。
 すると、その時を待っていたかのように睡魔がそっと近づいて晴香の耳を塞いだ。あれだけ騒がしかったセミの声が急に遠のいていく。

 地響きのような音で深い眠りから目を覚ました晴香は、大きなあくびをしながらあたりを見回して驚いた。部屋はすっかり薄暗く、月の光が室内に差し込んでいる。外に浮かぶ月が不敵に笑っていた。
 ドンドン、とまた大きな音が古いアパートを震わせた。初め地震かと思った音は玄関から響いていた。晴香は寝汗を吸いきったタオルを傍に置いて立ち上がり玄関へ向かった。宅急便かしら? そもそもまだ住所変更をしていないのに届くものなのだろうか? 晴香が恐る恐るドアを開けると、目の前に晴香を睨みつけている美輝が立っていた。美輝は晴香の半分寝ている顔を見て大きくため息を吐く。
「やっと出た。携帯鳴らしても、何回ノックしても出ないから救急車呼ぶところでしたよ」
 美輝は自分のスマホを晴香にちらつかせてみせた。晴香はポケットの中で手をまわして探ったが、スマホは入っていなかった。記憶をたどっても最後にどこへ置いたのかすら思いだせない。
「ごめん。それで、どうしたの?」
 大袈裟に肩を落とした美輝は呆れたように腰に手を当てる。
「昨日話してたじゃないですか。晴香さんの引っ越し祝いを『灯籠』でしようって。主役が来ないなんてありえないですよ」
 怒っている姿も可愛いなと寝ぼけながら考えていた。そういえば笹崎さんがそんなこと言っていたことを今思い出した。「早く」と美輝に急かされながら、晴香は汗で重い服を着替えて家を出た。
 灯籠とは駅をまたいだ先にある喫茶店で笹崎さんが足繁く通っているお店だ。コーヒーやモーニングトーストはもちろん、酒やおつまみなど夜のメニューのバリエーションが豊富なお店で町の人が集まるところでもある。
 店に入るとマスターと奥さんが快く迎えてくれた。晴香が店内を見回すと、客は写真館の人たちだけで、笹崎さんはすでに奥のソファーで寝息を立てており、カウンターで詩が一人静かにグラスを傾けていた。詩の後姿を見た晴香は目を丸くした。正直、詩がいるとは思わなかったからだ。詩はこういう集まりが苦手だと勝手に思っていた。
「笹崎さん、酒は好きだけど弱くてね」
 詩の隣に座った晴香と美輝の前にコースターを置いたマスターは微笑した。晴香はビール、美輝はリンゴジュースを頼んだ。
「ごめん、遅れて」
 晴香は目の前に来たグラスを手に取って詩の前に見せる。「引っ越しお疲れ」と詩は遅れたことに関しては何も言わずに飲んでいたグラスをかちりと合わせてきた。
 話を聞くと、どうやら詩と笹崎さんは一時間半前に来て飲んでいたようだ。詩の顔もほんのりと紅くなっていた。
「詩がお酒飲んでいるの初めて見たかも」
 晴香は未知の生命体と出くわしたようにまじまじと詩を見つめた。「私も」とこの土地に来たばかりの晴香はともかく、美輝も見たことがないと言うので驚いた。黙って飲み続ける詩をちらりと見て奥さんがこそこそと晴香のもとに近寄ってきた。


「寡黙でしょう、詩君。せっかくみんなで仕事以外に集まるんだからお酒を飲んだら少しは話しやすいかなと思ってしれっと薦めたのよ」
「自由にさせてあげなさいよ」とマスターが顔をしかめてフライパンを振っていた。中ではケチャップライスがバレエのように華麗に舞っている。
「だから強制はしてないわよ。あくまで頼んだのは詩君だものねー」
 はい、と詩は小さくうなずいた。詩の顔を見た奥さんは勝ち誇った顔をしてマスターにふんと鼻を鳴らして見せる。
「そんな不必要な気遣いをしているとすぐにおばさんになるぞ」
「どこがおばさんよ!」と声を荒げる奥さんの手に、マスターは出来上がったオムライスの乗った皿を渡す。
「そういうところだよ。はいよ」とマスター。
「私がおばさんならあんたはおじさんだからね。はいよ」と奥さん。
「お待ち同様」と晴香と美輝の前にオムライスが置かれた。ふっくらとした卵の山からは柔らかい湯気が立ち上っている。早めの昼食を食べてから何も口に入れていない晴香の食欲がそそられる。
 マスターと奥さんはいつもこうして小競り合いをしながらも息の合った連携で店を切り盛りしている。以前店を訪れたときにその光景を見た晴香は「夫婦漫才みたいですね」と言ったことがあった。その言葉にマスターは「夫婦だしね。それに面白いのはあっち。あの人と一緒にいたら喧嘩話もお客さんとの会話の小ネタになるんだよ」と苦笑いを浮かべて言っていた。そんなやりとりを日々繰り広げている二人はこの周辺では有名で、晴香も出会ってすぐに二人のことが好きになった。
しばらく晴香たちがオムライスを堪能していると、美輝が思いだしたようにスプーンを皿の上に置いた。
「そういえば今日も来てましたよ。例の」
 美輝は自分のリュックから紙束を取り出して机にばらまいた。いきおいのあまりに何枚かは下へ落ちていく。晴香は目の前の一枚を手にとって裏表を確かめる。差出人は不明で、ドラマや推理小説でよく見る新聞の切り抜きで『早く消エろ』や『蒼井詩は才能無シ』と書かれている。またか。これで何度目だろう。
「なにこれ?」と奥さんが机にばらまかれた紙を気味悪そうに覗いている。
「全部詩さんに対する嫌がらせですよ。他にも写真館のメールに同じような文面が送られたり、詩さんの写真をびりびりに破いたものが届くんです」
「この人はどうやって詩君を知ったんだろうね」
 奥さんの素朴な疑問は意外な視点だった。確かに詩のことを知るタイミングなんてあっただろうか。お客さんとか? いや、お客さんならここまで執拗な嫌がらせはしないだろう。もっと、もっと決定的なタイミング。
「授賞式」と自然に口が動いていた。あれで詩のみならず晴香の名前は確実に広まった。思えば、嫌がらせが始まった時期も授賞式後すぐではなかっただろうか。少しずつつながりが見えてきたが、糸の先端はまだ闇に包まれて姿が見えない。
「だったらこの送り主は写真関係者だね」
 奥さんが断言したことにすかさず美輝が立ち上がる。

「どうしてそんなことが分かるんですか。授賞式なんてホームページやYouTubeでも公開されていたんだから、誰でもありうる話ですよね」
「確かに可能性はあるね。でもね、よく考えてみてよ美輝ちゃん。言っても写真家さんの新人賞でしょう。私も詩君とか晴香ちゃんが近くにいたから見たものの、普通の人がその存在を知るって大分確率低いんじゃないかな。それだったら写真関係者の方が濃厚だと思うけどねえ」
 奥さんの名推理に晴香も、そして腹を立たせていた美輝も感心していた。写真関係者か。晴香は改めて散らばった脅迫状や写真に目を通した。どれからも憎悪と嫉妬が感じられて気味が悪い。この送り主が今もありったけの怨念を込めながら新しい脅迫状を作っていると思うと鳥肌が立った。
 晴香はちらりと隣にいる詩を見た。詩は変わらず静かにお酒を飲んでいる。あなたのことを心配してみんな話しているんですけど、と平然としている詩に少し呆れた。
「詩はどうするつもり、これ。これだけ物証があれば警察に届けて捜査してくれそうだけど」
 詩がテーブルを一瞥して首を横に振った。
「少し経てばきっと治まるよ。もし、この人が写真家なら、今葛藤しているんだ。すべてを否定したくなって、どこでもいいから気持ちをぶつけたいんだよ。その矛先がたまたま俺だったってだけ。また写真に集中したら、嫌がらせする時間や気持ちなんて無くなるよ」
 何か言いたげな美輝を押さえて晴香は視線をテーブルに戻す。本心では晴香も言ってやりたかった。甘すぎると。もっと事態が悪化したら取り返しのつかないことになるかもしれない。相手が更生するのを願うなんてと喉まで出かかっている。しかし、あくまで詩は様子見するらしい。本人が動く気がないなら晴香たちもじっとしているしかない。勝手に動くと、返って詩の迷惑になる。
 晴香は散らばった誹謗中傷の紙を片付け始めた。


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