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「しゃぼん玉に舞う」第三章 無題②

 仕事終わり、今日も病室で詩とミーティングをしていると、ドアがゆっくりと開いて紗香が顔だけ出していた。
「お兄ちゃん、今入っていい?」
 人見知りなのだろうか、紗香は初めて会う順子の顔を極力視界に入れないようにしていた。詩が眉を上げて順子の判断に任せるといった顔をするので、
「どうぞ。ごめんね、お兄ちゃん独り占めしちゃって」
と手招きした。優しく笑う順子を見ていくらか警戒心を解いた紗香はドアを開けて入ってきた。後ろにいた木原が会釈をして車いすを順子の隣に移動させた。
「すみません。紗香ちゃんがどうしても蒼井さんに話したいことがあると聞かなくて」
 困ったように見下ろす木原に倣うように順子も隣に座っている紗香を見た。血色の悪い顔、骨の浮き出た腕に数か所の点滴後。息子と同じくらいの年の女の子がこれほど痛々しい姿になっていることが心苦しかった。
「それで、話したい事って?」
 詩が、まだ少し緊張して俯いている紗香に話しかける。
「あのね、お母さんとお父さんと三人で写真を撮ってほしいの」
 顔を上げた紗香はゆっくりと、自分の言葉で話し始めた。

 家族写真を撮りたい、紗香がそう思ったきっかけは両親だった。
 両親は紗香のことを目に入れても痛くないほどかわいがっていた。入院する前はよく三人で公園に行ったり、休みの日は車で遠出をしたりした。家の中でもテレビがいらないほど笑いの絶えない賑やかな家族だった。紗香が入院している今でも笑顔で病室を訪れては面会時間ぎりぎりまで残ってくれている。
 紗香自身、両親の愛をもちろん感じていた。それ故に二人が無理していることに心苦しかった。
 病院で見る二人の笑顔は紗香の大好きだった笑顔とかけ離れていた。二人は紗香に心配をかけないように無理に口角を上げて歯を見せていた。
 以前、検査の後病室へ帰っていると、病室前で両頬をたたいている父の後姿を見かけた。また別の日には見舞いに来ていた母が「お手洗い行ってくる」と言って病室を離れて、紗香も後からトイレに向かうと洗面台の前で声を押し殺してむせび泣いている母の姿があった。
 紗香は二人のそういう姿を見るたびに心がきつく締め付けられ、自分という人間がひどく嫌いになった。
 私は大丈夫、と言えない自分が歯がゆかった。現に最近は体のだるみや高熱で夜中に両親を呼ぶことも少なくない。
 もう一度、大好きな二人の笑顔が見たい。どうすればいいか考えあぐねていた時、こっそり病院に持ってきたあるものを思い出した。

 長く話し続けて疲れたのか、紗香は小さな体を車いすの背もたれにゆだねて大きく深呼吸をした。紗香の言葉を急かすこともなく、大人三人がじっと黙って見守っていた。しばらく安静にして呼吸を整えると、紗香は膝にのせている大きな冊子に手をかけた。
 何度も冊子を持ち上げようとするが、筋力が衰えているため、少し膝から浮かんではまた膝に落としてしまう。順子が手を貸そうかとすると、詩が手で制した。彼の顔を見るとやさしく首を振っていた。
 三人が見守る中、ようやく冊子がテーブルに届いた。
「ありがとう。見てもいい?」
 紗香がこくりと頷くのを見てから詩は冊子のページをめくった。順子も木原も中身が気になって首を伸ばしてのぞき込む。
「……アルバム?」
 順子が訊くと紗香はゆっくり首を縦に振った。順子は再び詩がめくるアルバムに視線を落とす。一ページに二、三枚貼られた写真がどこまでも続いていた。さらに一枚一枚の写真の下には、必ずその時の様子を細かく記録した筆跡が残っていた。決して達筆ではないが、見ていると心をやさしく包み込んでくれる字だ。
 順子たちは時間をかけて紗香の家族の軌跡を辿っていく。一枚として幸せが欠ける瞬間が見受けられなかった。それどころかページをめくるごとに愛や優しさが募っている気がした。
「いい写真ね」
 見ているうちに順子は紗香の家族と自分の家族を重ねていた。思い返せば、ここ二年くらいで撮った写真はサッカーの試合や学校の行事での息子ばかりで、三人で撮った写真はほとんどなかった。
 順子が目頭を押さえているのを見た木原はポケットからハンカチを出して順子に渡した。
「ごめんなさい」と順子はハンカチを受け取って目元をぬぐう。
「おばさん、どうして泣いているの?」
 ハンカチを話して視線を落とすと、隣にいる紗香が不思議そうに首をかしげていた。順子はしゃがんで紗香に笑いかける。
「うれしくて泣いているのよ。人はね、幸せを感じるときも涙を流すのよ。温かくて、やさしい涙をね」
 順子が額を紗香の小さな額に当てると、彼女は照れくさそうに笑う。少しして紗香はいまだアルバムを見続けている詩の顔を覗いた。
「お兄ちゃん、写真撮ってくれる?」
 詩はアルバムからまっすぐ見つめてくる紗香に目を向けた。しばらく見つめあったのち、詩は優しく微笑した。
「わかった。撮るよ」
 詩が頷いたのを見た紗香はくしゃりとかわいらしい笑顔を浮かべた。先ほどより頬のくぼみが深く見える。
 それから紗香と詩、そして木原と順子は家族写真の段取りを話し合った。
 いつの間にか窓外から降り注ぐ太陽の光が、紅く色づいていた。

 外の強風によってかたかたと窓が震えている。その窓の隙間から侵入してくる風が手中にある本のページをいたずらにめくっていく。肌寒い風によって秋が終わりかけ、冬に差し掛かっていることを知る。病院内で生活している詩は季節を感じることが難しい。入院する前に見た大山のような入道雲が懐かしく思えた。
 勝手に進んだページを戻して再び読書にふけっていると、おもむろにドアが開いて二人の夫婦が入ってきた。どちらも三十代半ばと聞いていたが、気疲れした顔や白髪交じりの頭髪など、見た目はもう十歳ほど年上に見えた。
 ベッドで読書をしている詩を見た二人はひどく驚き、動揺を隠せないまま病室前に書いてある名前のプレートと詩を何度も見比べた。
「紗香ちゃんのご両親ですね。ここで合ってますよ」
 見知らぬ青年の声を不審に思いながら、二人はゆっくりと病室の中へ入ってきた。
「あのー、うちの娘は?」と母親が言う。
「今は別の場所にいて。安心してください、看護師がきちんとついていますから」
 いまだ把握できない二人は、はあ、と間抜けた返事をする。かまわず詩は続ける。
「今日は、紗香ちゃんに頼みごとをされまして。こちらを」
 詩は体を反転させて棚からアルバムを持ち上げて二人に差し出す。見覚えのある冊子に軽く目を見張った男性が受け取った。
「どうして、これを」
「まずは見てください。ゆっくりと」
 詩に言われた通り、男性がゆっくりとページを開けた。とたんにこわばっていた二人の表情が緩んだ。男性は唇を噛みしめて笑い、女性は手で口元を覆いながらじっとアルバムに貼っている写真の数々を見つめていた。
「ほらこれ、初めて海に連れて行った時の。あなたは笑顔なのに、紗香ったらひどい顔」
 女性が指さすと、男性が懐かしそうに頷く。
「少しでも水がつくと嫌がるんだ。泣くし、暴れるし、大変だったよ」
「最終的にはしゃいでたけどね」
 ああ、と言って男性がページをめくる。
「幼稚園の入園式だね」
「恥ずかしいのか楽しいのか、あの子じっとしないものだから必死につかんでた」
「そうだった。これでさえも右足が前に出てるもんな」
 二人は写真一枚一枚を見て、懐かしむように語り合った。
 裏表紙を閉じた二人の目はうるんでいてきれいだった。
「すみません。みっともない姿をお見せして。久しぶりに見たものですから」
 まだ余韻から抜けられない二人を前に、詩は体を持ち上げて深く座りなおした。
「写真はビデオと違って瞬間しか残せません。でも、その瞬間さえあれば、人の記憶の片隅に置いてある本当に大切なものを思い起こすことができる。紗香ちゃんはここに写っているお二人の笑顔をずっと待っています」
 はっとした二人はお互いの顔を見合った。写真の頃より年を取っているが、年齢だけではない顔の疲れが見えていた。
「私たちよりも子供のほうが私たちのことを見ていたんですね」
 呆れて失笑する女性に、そうですね、と詩は言う。
「でも、お二人も紗香ちゃんのことを見てきましたよね?」
 固まる二人を見た詩はそよ風のように柔らかに微笑する。紗香からこの話を持ち掛けられたとき、詩は別であることを考えていた。
「紗香ちゃんすら隠している気持ちを理解できるのはお二人だけです」
 行きましょう、と詩はベッドから足を出してゆっくりと立ち上がり、棚上にあるカメラを首に下げた。どこへ行くのかを尋ねられた詩は振り返って言った。
「紗香ちゃんからのお願いです。彼女はモデルでもありながら、演出家のようで」
 ドアに向かって少しずつ歩く詩を茫然と見る二人に順子は「行きましょう」と声をかけて、三人は詩に続くように病室を後にした。

 最上階の一つ手前までエレベーターで上がった出た先で順子は待っていた。順子も紗香のお願いに協力してくれると言ってくれた。四人で屋上までの階段を上り、重たい扉を開けた順子は思わず身震いした。周りを遮る建物のない屋上はひときわ寒く感じられた。後ろにいる紗香の両親も慌てて着ていたコートのボタンを留める。三十代の大人たちが寒さに立ち往生している中、紺色のジャンパーを着た詩が肩を揺らして屋上に足を踏み入れた。
「ちょっと大丈夫?」
 手を貸そうとする順子をよそに詩は奥へと進んでいく。比較的新しいこの病院の屋上は小さな庭園となっており、地面の一部は芝生が広がっていて、側面の花壇には色彩豊かな花が咲いていた。
「お父さん、お母さん」
 さらに奥へ進むと、車いすに座っている紗香が大きく手を振っており、その傍らに立っている木原が小さく会釈をする。紗香は毛糸の帽子にマフラー、さらにどう見てもサイズが大きすぎるベンチコートに身を包んでいた。時期の早い雪だるまのような紗香とは反対に傍らに立つ木原はナース服の上に薄手のカーディガンのみ羽織っており、見ている順子のほうが風邪をひきそうになる。
 紗香の両親は木原に会釈を返して紗香のもとに歩み寄る。二人の困惑した表情に紗香は大げさにため息をついて、まだ奥で歩いている詩に頬を膨らませた。
「お兄ちゃん、ちゃんと伝わってるの?」
 詩は紗香たちから十メートルほど離れたところで足を止めてかすかに口角を上げる。
「きっと伝わっているよ」
 まだ納得のいかない紗香がふくれっ面を浮かべた時、両側から優しく包まれた。目を丸くして左右を見ると、顔のすぐ近くに待ち焦がれていた両親の笑顔があった。
「紗香、ありがとね」
「大きくなったな。本当に、強くなったな」
 でもな、と少し顔を離した父が優しいまなざしで紗香を見つめていた。
「無理しないでいいんだぞ。お父さんとお母さんの前では。我儘でいいんだ。どんな紗香でもお父さんたちの愛は変わらないからな」
 はっと気づいたころにはすでに涙が一筋流れており、視界がにじんで二人の顔がよく見えない。両親を悲しませまいと、紗香も無理に笑顔を作っていたのだ。紗香の氷で固められた感情が二人のぬくもりによって溶けていく。
 紗香は両親にしがみつき、声を大にして泣いた。よく見れば紗香を抱きしめている二人も嗚咽を漏らしていた。
 しばらく感情の流れるままに泣きじゃくった紗香は目をこする。
「もう、せっかく写真撮ってもらうのに、こんなひどい顔じゃ写れないよ」
「あら、アルバムの中のあなたも随分ひどい顔やポーズだったわよ」
 紗香の苦言に涙目の母が笑みをこぼした。両親の顔を見ると、また泣いてしまうと察した紗香は詩のほうを振り向いた。
 あ、と紗香が言う前にシャッターの音が鳴った。少し離れたところでカメラのレンズを向けている詩がいた。振り向いた両親も突然のことに唖然としていた。詩は三人にかまわず再びシャッターを切る。
「なんでこんなところ撮ってるの?」
「すごくいい画だったから。安心して、あくまでこれは私用で写真は後でちゃんと撮るから」
 詩がシャッターボタンに指を置いて三度撮ろうとするので、紗香たちは咄嗟に待ったをかけて急いで涙を拭きとる。三人ともしぐさがそっくりだ。
 三人が準備をする間、順子は詩の隣に並んだ。
「もう少し撮り続けていたかったって顔してるね」
、待っている詩の顔を覗いた順子は顔を強張らせた。ファインダーをのぞく詩の横顔が普段と違って見えた。夕日のせいで少し目を細める横顔はどこか寂しそうな顔をしている。目線はレンズの向こうにいる紗香たち家族ではなく、もっと遠くを見ている気がした。
「詩君?」
 呼びかけて一拍置いた後に詩は顔上げた。放心していたのか、すぐに詩と目が合わない。
「もう準備できたって。大丈夫?」
「……大丈夫です」と通常に戻った詩はファインダーを覗いてシャッターボタンに指を置く。
「それじゃあ、撮りますね」
 詩は満面に笑う紗香たちに向かって数回シャッターを切った。からりとした心地良い音だ。しかし、順子は先ほどの詩の表情が頭に焼き付いて仕方がなかった。
 背中にほのかな温もりを届ける夕陽が消え入る寸前で振り絞るように輝きだす。
 三人の笑顔が夕陽に照らされて紅く、紅く色づいていった。


 夜九時過ぎ、一旦帰宅して夕食を作った順子は再び病院へ戻り、薄暗い廊下を渡って詩のいる病室を目指す。ひっそりと、そしてひんやりとした廊下に順子の靴音だけがやけに響く。
 順子は家に帰ってからも数時間前に屋上で見た詩の表情が気になって仕方がなかった。あの後すぐいつも通りに戻ってはいたが、初めて見せた表情にどこか不安を抱いていた。
詩の病室の前に着き、順子はゆっくりとドアを開ける。病室の左奥、詩がいるはずのベッドの周りはカーテンで仕切られていたが、まだ明かりがついていた。もう一人の男性患者がいるベッドからはいびきが聞こえていたので起こさないように忍び足で詩のベッドまで向かった。
「詩君?」
 カーテンの外から呼ぶと内側の影がゆらゆらと揺らめき、しばらくしてカラカラとカーテンが開いてベッドに座っている詩が不思議そうに見上げていた。
「どうしたんですか、こんな夜遅くに。とっくに面会時間過ぎてますよ」
「そうね。さっき木原さんにばったり会ってひどく叱られたわ」
 ふふっと笑った順子は隣にある丸椅子に腰を下ろした。心の中で詩の姿を確認できて胸をなでおろす自分がいた。やっぱり夕方見たあの顔は順子の見間違いだったのではないか、そう思わせるほど詩は飄々としている。
 ふと掛布団の上に置かれているパソコンに視線が移った。青白く光る画面には詩が撮ったものと思われる写真がずらりと並んでいた。しかし、いつもと違うのはどの写真も人物をモデルとした写真だった。詩は風景も撮れば動物や植物も撮影する。個展の話を進めていくときに見せてもらうファイルは撮影した月ごとにまとめてあるので、様々な写真が混在していた。だから、こうして綺麗に人の顔が並んでいる画面が反対に不自然に見えた。
 またあの寂しげな顔がよみがえる。
「何か良さそうな写真見つかった?」
 いろいろ聞きたいことはあるけれど、詩が自分の身の上話をするのは避けている気がしたので、順子はあえて明るく尋ねた。
 順子が画面を見ていることに気づいた詩は、少し俯いてキーボード下部中央にあるタッチパッドを優しく撫でる。詩の指の動きに少し遅れて画面上に写る写真が粗く上へ流れていく。次々と写真がスクロールされていき、最後に行きついたのか画面が止まった。画面の一番下には今日撮った紗香の家族写真が写っていた。
「良く撮れてるじゃない。三人とも素敵な顔して、幸せそうね」
 何も話さない詩の代わりに順子は最後の写真を指さして語りかけた。その拍子にちらりと覗いた詩の顔を見て動揺した。夕方に見た、あの時の表情が目の前にあった。
「……家族写真は苦手です。特にこういう眩しいくらいの笑顔は」
 微かに笑いを浮かべている顔とは反対に青白い手がシーツをきつく握っており、深い皺が手を中心に広がっていく。その骨ばった手からは一つではない、多くの感情が入り混じって自分でもどうしたらいいか困惑している様子がひしひしと伝わってくる。

 初めて感情を露わにしている詩に順子は少なからず動揺した。一つはいつも飄々として感情の波を立てない詩にも人並みの感情があることに安堵した。
 そして、もう一つはなぜ家族写真が苦手かということに疑問を感じた。これまでも何枚か撮っていると思うが、なぜ今そう思うのだろうか。そういえばここに入院して以来、詩の家族を一度も見ていない。普通、家族が余命宣告をされて入院していたら、どれだけ遠方でも一度は顔を見せるものではないのだろうか。来ないということはもしかして詩の家族は……。
「詩君の家族は撮らなかったの? 家族写真」
 聞いてはいけないと思いながらも気づけば口が動いていた。
「あんまり憶えてないです。家族、もういなんで」
 詩は表情を変えないまま、降り始めの雨のようにぽつりぽつりと呟いた。窓もドアも開いてないのに、冷たい風がすうっと通って背筋が凍る。
 次の言葉が出ない順子を一瞥して、詩は枕に頭を預けた。ぽすっと空虚な音とともに枕が沈む。
「初めは父と兄。その日は土曜日で、二人はドライブに出かけて信号を曲がろうとしたところで逆走してきた車と衝突しました。相手が相当速度を上げて走っていたようで、父たちの後続車も何台か巻き込む大きな事故だったそうです。完全に相手側に落ち度がある事故でした」
 詩はまるで昔話を読むように淡々と語りだした。その口調には怒りも悲しみも感じられない。ただ語り部としてあったことを話している。
「二人の葬式を終えた次の日、学校から帰ってみたら風呂場で母がぐったりと倒れてました。湯船から風呂場のタイルには入浴剤では見たことのない、綺麗な赤色の水が排水溝へ吸い込まれていました。相当時間が経っていたのか、湯気で視界は霞んでいたのに、綺麗な赤色だけがはっきりと見えました」
 穏やかな笑みを浮かべて話す詩の姿を見て、順子は背筋がぞっとした。何をもってその顔をしているのか定かではないが、詩の中で感情が壊れているのだと悟り、順子は黙ったまま聞いていた。
「母が死んだとき、俺はまだ小学校に上がってすぐで、当時住んでいた場所に親戚もいなかったので、母方の祖母がいた東京に引っ越しました」
「東京に……」
 ずっと引っ付いていた喉を無理やり開いて声を絞った。詩は順子の方に顔を向けて小さく頷く。
「距離が離れていたので、ほぼ初対面で一緒に生活し出したんですけど、俺は祖母とすぐに家族になれた気がして、案外毎日楽しく過ごせました。クラスメイトには『お前の家の弁当は古臭い』とか、親のことを執拗に聞かれたりしましたけど、俺にとっては痛くもなんともなかったです。たった一人でも、家族がいたんで」
 順子はできるなら続きを聞きたくなかった。先ほどから祖母のことを話す詩の語尾がすべて過去形だから、その結末が目に見えてしまう。

 拒もうとする順子の気持ちは虚しく、詩の口が滑らかに動く。
「中学二年の秋、修学旅行から帰ってきたら、玄関先で祖母が倒れていました。触ってみたら冷たくて硬かった。まるで冷凍庫に入っていたみたいに。後日聞かされた死因は心臓発作、俺が発見した時にはすでに死後三日目だったそうです」
 溜まらず順子は目を瞑った。中学二年生、十三四歳の少年が抱えるには大きく辛い経験を詩はしてきた。自分ならその重荷に潰されてしまうだろう。その時、ふと思った。詩は頭によぎらなかったのか。家族のいない、一人の世界で生きていくことをやめたいと考えはしなかったのだろうか。
「死にたいとは思わなかった?」
「思いましたよ」と当然というように答える。ぞっとするほど澄んだ声だった。
「そりゃあ思いますよ。一人で生きていける自信もなかったですし、それならここで人生終わらせても別にいいんじゃないかって。自分の意志で生まれたわけでもないので、死ぬ時くらい自分で決めたって親も怒らないかなって」
 でも、と詩は自分の首をさすって、その反対の手首をじっと見つめる。
「死ねなかったんですよね」
 室内の空気がかすかに震えた。まるで泣いているかのように寂しく震えた。
「よく推理ドラマで出るような首つりやリストカットなどあらかた試しはしたんですけど、どれも寸前で怖くなっちゃって。もうこの世に未練なんてないのに、自分の臆病さに嫌になる反面、ほっとしました。まだ俺は生きたいんだって。普通の人みたいに死に恐怖を感じるんだって」
 いつの間にか同室で寝ている男性のいびきは落ち着き、病室は恐ろしいほど静寂に包まれていた。詩は自身で撮った写真が表示されている画面をただ眺めていた。
 順子は息を吸おうにもなかなか体に入ってこない。普通の人のように感じることができて安堵する、とうに詩は中学生が考える範疇を超えていた。それなのに、聞いていた順子が張り裂けるほど心を痛めているのに対して、話し手の詩は不自然な笑みを浮かべている。
「みんな、俺を置いていくんですよ」
 詩は誰に話すでもないように呟いた。
「父たちがドライブした日、本当は俺も乗るはずだったのにいつまでも寝ていたから置いていかれて。母が自殺した日に俺が学校に行かなければ、俺が修学旅行に行かなければ祖母は助かったかもしれない。まだ一緒に過ごしていたのかもしれない。閻魔様は俺を見放したんです」
 そして、と言って詩は手を伸ばして棚上にあるカメラを持った。
「死にたがっている俺に生きさせるように、カメラを残してくれたんです」
 いつもは黒い光沢を放っているカメラが、禍々しいものに見えた。順子は詩の言うおとぎ話のような出来事を否定はできなかった。詩の写真家としての才能はけた違い、神の仕業と言っても過言ではない。しかし、詩の才能はこの世につなぎとめる呪縛のようなものだった。


 詩の寝息が深くなったのを確認して順子は静かに病室を後にした。「帰られる前に一度来てください」と木原に言われていたのを思い出し、順子は出入り口とは反対のナースステーションに顔を出す。薄暗い病院の中でここだけが場違いに明るかった。まるで寝ている間も血液を循環させる心臓のようだ。
「あの」と中を窺っていると、奥からひょっこり現れた木原が歩み寄ってきた。
「やっと終わりましたか」
 腰に手を当てて呆れ顔をする木原に「今日は特例ですけど、二度としないように」と注意され、二人は関係者用の出入り口へと向かった。
 木原がドアを開けると寒風が押し寄せるように入ってきて鳥肌が立つ。病院の中も肌寒かったが、外はより寒かった。まだこの建物には人の温もりがあることに気づいた。
「ご迷惑おかけしました。詩君のこと、よろしくお願いします」
 深く頭を下げてから、家へ向かって歩き出した。
 風は横殴りに吹いており、街路樹が悲鳴を上げながらしなっている。順子も倒されまいと踏ん張りながら家路を急ぐ。
 病室で詩の寝顔を隣で見ていた時、ふと息子の顔と重なった。手のかからない、妙な雰囲気をまとっていて、どこか似ている二人、順子が詩を気にかける理由はそこなのかもしれない。だったら、と順子は歩く歩幅を半歩大きくした。

 鍵を挿してドアを開けると、まだリビングに明かりがついていた。順子は靴を脱ぎ棄ててリビングのドアを開けた。テレビの前にあるソファーで息子が読書をしていた。台所の方からは水の流れる音が聞こえてくるので、きっと夫が食器を洗ってくれているのだろう。ドアの開く音に気が付いて息子は本から顔を上げた。
「おかえり」
 息子の声は吹き付ける風が震わせる窓の音にかき消されてしまうほど小さかった。順子はコートも脱がず、そのまま息子のもとに行って優しく、けれどしっかりと抱きしめた。息子は一瞬驚いたように体を強張らせたが、すぐにほぐして小さな手を順子の背中に回した。
「どうしたの、お母さん?」
「ううん、何でもないの。ただ、お母さんが愛をあげたくなっただけ」
 息子の頭が少しだけ右に傾いた。順子はその小さな頭を優しく撫でた。あなたも自由だから、親の顔を窺わずに好きなように生きてほしい。ただ一人じゃない、お父さんもお母さんもいるから困ったことがあれば遠慮なく言いなさい。順子は心で息子と対話した。
「何してるんだ。帰るなり」
 願いを込めながら順子が抱きしめているところに食器洗いを終えた夫が不思議そうにしてリビングにやってきた。順子は息子から体を離して後ろを振り返った。帰りの電車で今日のことを思い出しながら考えていた。今ある生活を普通だと思えることは幸せで、この幸せは一瞬にしてすべて消えてしまうかもしれない、奇跡の連続なのだということを。その奇跡の瞬間を残したい。
 それをするうえで最適なものを順子は知っていた。眉毛を上げている夫に向かって、そして静かに順子を見ている息子に向かって、順子は明るい声を上げた。
「家族写真撮らない?」


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