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萩原治子の「この旅でいきいき」vol.1

アイルランドを往く

萩原治子の「この旅でいきいき」シリーズの第1弾、「アイルランドを往く」をお送りします。

プロフィールにもありますが、私は10年ほど前まで、アメリカでキャリア・ウーマンを20年くらいやっていました。退職後、食文化関係の本の著作、翻訳に関わりましたが、健康上の問題もあり、4年ほど前それを卒業して、旅に出ることにしました。もともと旅行好きでしたが、ほとんど、まだ観ていないことに気づいたこともあります。父母が高齢なので、年に2回は日本に帰国し、もう2回は大旅行を試みました。初めはジャーナルのようなものを書いていただけでしたが、その内にもっと、突っ込んだことを書きたいという欲望が湧いてきました。それを4年くらい書き溜めたものを、今回ブログという形で順次公開することにしたのです。順序は気ままとも言えますが、私なりに考えて決めています。

第一弾にアイルランドを選んだのは(実際に旅行したのは2017年の8月)、その頃すでにBrexitへの準備が進行中で、その時理解したことが、今この問題の成り行きを見守るのに役立っていること、そしてもう一つ、カトリック神父の性的アビューズの問題から、アイルランドが真に変わってきていることで、これから1年くらいの間に、アイルランドは南北統一された、精神的にも近代化された国に生まれ変わる可能性があり、この国に注目する価値ありと見たからです。

変わると言っても、アメリカや中国のような影響を世界に及ぼすことはないと思いますが、アイルランドの歴史を知ると、この成り行きは大変なことということがわかります。私も司馬遼太郎さんのようにアイルランド人にすっかり愛情を持ってしまったようです。これが旅の効果です。皆さんはいかがでしょうか?

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世界中に「ツテ」があってラッキーなアイルランド人 2017年夏

アイスランドまで行ったのに、1週間でニューヨークに戻るのは勿体無いので、どこかに行こうと考え、近くのアイルランドに行くことにする。アメリカにはアイルランドからの移民が多く(特にニューヨーク、ボストンなどの東海岸北部の都市)、アイリッシュ文化には馴染みが深く、今まであまり興味が湧かなかった。しかし一度はこの目で見ないと、と出かける。

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8月6日(日) アイスランドからアイルランドへ
北部アイルランドのベルファースト

アイスランドのレイキャビックから北部アイルランドのベルファーストへの飛行機は週に2回しか飛んでいない。私の移動日の日曜日が幸運にもその一つだった。私が選んだ10日間のアイルランド共和国ツアーは月曜日から始まるので、間の一日、ベルファーストを観光することにしたのだった。

1970年代、80年代のテロといえば、舞台は北部アイルランドだった。ロンドンデリー、ウルスター、ベルファーストなどは暗いイメージしかなかった。ところがアイルランド共和国に行くためにLonely Planetの旅行書(700ページの分厚いもの)を買うと、当然のごとく北部アイルランドも含まれていた。テロも治まって、あまり最近のニュースに出てこないせいか、またもともとあの辺りのgeopoliticsに疎かったことで、今回の旅で勉強するチャンスとなった。

まずはちょっとおさらいをすると、北部アイルランドというのはUnited Kingdomと英語では呼ばれる英国の4つの自治体の一つ。エリザベス2世を頂点とする王国がこの4つを統一支配している。私が今回目指したのはアイルランド共和国で別の国。昔も複雑だっただろうけど、現在の状態も複雑。全て人工的に分けられ、unitedされている。結果実に複雑なことが起こっている。

ちょっと陰気なベルファーストの町

正午前に街中にある空港に着くと外は雨、そして気温も10度Cと低い。ベルファーストの観光案内を見ると、一番のオススメはタイタニック・ミュージアム。そのミュージアムまで近い。時間も早いし、ホテルに行く前にここを見る予定にしていた。タクシーで着いて見ると、超満員。クルーズ船が3隻も入っているかららしい。それに夏休みの雨の日曜日、このお天気では他に何ができようか?長い間の英国との闘争の過程で、テロが日常となり、この街は荒れに荒れた。20年前一応和平の取り決めがあり、平和が戻った。イギリス政府も北部アイルランドも傷ついた町の復興とイメージアップを図って、このミュージアムができた。開館は2012年というから、タイタニック完成百年記念事業ということもあった。このミュージアムは北部アイルランドの誇りで、だから今日ミュージアムに来ている人々の中にはここの市民も沢山いるよう。

タイタニック号の造船地だったという意味

タイタニック号はここで造られた。今でもH&Wという造船所のドックはこの町のラーガン川の河口にある。このミュージアムとは目と鼻の先。この町は20世紀初頭の造船技術の先端をいっていたのだ。1909年発注、1912年4月2日にここを出航して、イギリスとアイルランドの間の内海を南に下り、サウサンプトンでロンドンからの客を乗せ、アイルランドの南岸のコルクの東にあるコブ港を最後に北大西洋に出て、4月14日に氷山にぶつかって沈没。なんという短命! なんというドラマティックな展開だろう! それにしても驚くべきことは当時最先端を行く豪華客船を製造する技術がこの町にあったことだ。多分技術者の多くはイギリスやスコットランドからきて、ここの安くて、優秀な(?)労働力が都合よかったのだろう。しかしその産業は100年後すっかり、疲弊してしまっている。この事実に現代の悲劇を感じる。彼らのスキルは多分第2次大戦までは十分活躍しただろう。しかしその息子たちはそれでは食べて行けなくなってしまった。スティングという90年代に人気絶頂だったイギリスのシンガー・ソング・ライターは、2015年に“ラスト・シップ”というミュージカルをニューヨークのブロードウェイに立ち上げた。あまり評判は上がらず、半年くらいで閉めてしまったが。彼はグラスゴー育ちで造船業で活気あったふるさとを嘆いているのだ。あそこもすっかり寂れてしまったらしい。次の花形産業の自動車製造だって、デトロイトがダメになったのは1990年代、日本の豊田市は大丈夫か? 時代の流れ、時代の技術の流れ、主要産業の流れ、これからは1代も続かないのではないだろうか?

タイタニック・ミュージアムはチケットを買うにも午後2時まで待たないといけないというので、見るのを諦め、ホテルに行って、チェックイン。ホテルはインターネットで予約したところで、町の真ん中、そう高くなかったのに一流のビジネスホテルの感じ。多分物価が安いのだと思う。(その点アイスランドは高かった。観光客用のものはことに)
ここを選んだもう一つの理由はダブリン行きのバスが出るバス・ターミナルがすぐ後ろにあるから。チェックインして、しばらく休んで、バスの時間などを調べに行く。

街を少し散策する

お天気のせいもあって、ベルファーストはあまり魅力的な町には見えなかった。しかし、雨も上がったので、少し街を散策することにする。まずは青銅色のドームがついた立派な建物に向かう。シティーホールだった。陰気な感じのこの町にはそぐわない。多分タイタニックを建設していた景気の良い頃に建てられたのだろう(本当に1906年建設だった!)。ルネッサンス様式で、左右対象、ガーデンもあり、立派な鉄のゲートも正面にある。市庁舎というより、宮殿。ローカルの人々、観光客が周りにたむろしている。私は興味がなく、そのまま河口に向かって歩く。途中は中世から続く商業区域だったようで、狭い路地の両側に商店が続く。こういうのをエントリー(entry) というらしい。なんとか横丁とか、なんとか小路とかいうものらしく、小路の両側には2階建ての古くそして安普請の店が並ぶ。

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マクヒューズ・バーで夕食

この国も緯度が相当高く、まだ8月初旬だから、日が長い。気がつくとすでに6時。それで夕飯をどこかで食べることにする。適当なところを探していると、古い2階建ての煉瓦造りの店の看板にマクヒューズ・バーとあるのに気づく。案内書をもう一度読むと、建物はこの町で一番古く(1711年)、内装は伝統的雰囲気を保持し、パブとしてはギネスの上等ビールと昔ながらのアイリッシュ料理がいいとある。入ってみると、なかなか変わっているし、ライブ・ミュージックもやっている。虹色の旗があっちこっちにかかっている。ゲイの集会場? まだ夕方も早いので、混んでなかった。メニューから私はアイリッシュ・ラム・シチュウを選ぶ。それに地ビール。ラム・シチュウはここのがベストだった。大きめの肉片にポテトと人参、薄茶色のソース。日本のカレーの発祥ではないかと考えながら、食べる。ビールがよく合う。美味しい本物マッシュポテトも全部食べて、お腹がいっぱいになったけれど、デザートメニューをみると、バタースコッチのプディングとあるので注文する。これがまた美味しかった。私はカラメルとかが好き、さらにブレッドプディングも好き。ここのは正真正銘混ざりけなしのローカルフードだと思った。それを私は旅行書を読んだり、写真をとったり、隣のテーブルの家族を観察したりしながらスローフードで楽しむ。この隣の家族のように家族3世代で食事をする(特に日曜日には)というのはここの習慣のようだった。きっと全員同じ町、それも近所に住んでいて、お互い助け合いながら、生活しているのだろう。これでたった21ドル。

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食後散歩を続ける。川の河口には立派な19世紀らしい建物がある。カスタム・ハウスという19世紀の関税事務所。現在はミュージアムになっている。その隣には派手な感じの新建築のアパートらしいハイライズがある。この町にはブラック・タクシー・ツアーというのがあり、英国との闘争中に町中に描かれたグラフィティー(落書き)を回って見せてくれるという。一応考えたが、やめにする。美しいものでもないし、平和になったのだから、もういい。

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8月7日(月) ダブリン空港へ、そしてツアーの始まり
アイルランドという国の複雑さに気づく

ホテルをチェックアウトして、彼らオススメのバス会社の8時発のダブリン行きの長距離バスに乗る。バス会社がいくつもあり、競っているらしい。ダブリン行きは何本もあり、私が乗ったバスも90%フル。こんなにダブリンに行く人がいるのだと、驚く。後で聞くと、毎日2万5千から3万人が国境を超えて通勤しているとのこと。国境にはもちろん何もない。1922年の和平協定(クリスマス協定)で北部アイルランドが英国の一部となったとき、アイルランド国との国境に壁塀のようなものを造らないのが条件だった。そして今は両国ともE.U加盟国で、シェネンゲンでパスポート・コントロールもなしなのだ。しかし予定されている英国のE.U脱退はこの人工的な隔離をさらに複雑にしていることを知る。

日本語の「イギリス」または「英国」という国名は十分ではない(この国名は明治から使われているのでは?)。英語ではUnited Kingdomで、もっぱら U.K.と呼ばれる。England, Scotland, Wales, Northern Irelandの4つの自治体から成り立っている。最初の3つがある島をグレート・ブリテンと呼び、内海を挟んで西にその半分くらいの大きさの島がアイルランド島。アイルランド全島には32州あり、北の6州が北部アイルランドとしてU.K.の一部。イギリスが17世紀に侵略して以来、この地方が一番イギリスの政治力が強かったところで、従って何世紀の間には住民の半分以上はアングリカン・プロテスタントだった。19世紀後半にアイルランド独立運動が起こり、多数の犠牲者が出て、1922年に解決策として、島の一部がU.K.の北部アイルランド、残りがアイルランド国となった(実際の独立はもっと後)。ベルファーストのタイタニックを造船する産業基盤などで、イギリスは手放せなかったのだろう。

人種的にはケルト人の末裔。彼らは3千年前にはヨーロッパの東部にいた民族。古代ギリシャ人、ローマ人に西に追いやられて、とうとうアイルランド島にまでくる。イングランドにはドイツ系(アングロ・サクソン)が入り込んだので、アイルランド民族と共通の言語、ゲール語を持っているのはウェールズだけ。フランス人はローマ化したケルト人と言われている。

現代に話を戻すと、英国がE.Uを脱退すれば、当然出入国の手続きが必要になる。ところがアイルランド共和国と北部アイルランドの間の境界には塀を建てられない。となると、U.K.に不法侵入するにはE.U加盟国のアイルランド共和国に入れば、あとは北に移動すればよいのだ。これは今メイ首相の頭も悩ましている問題の一つ。テレビのニュースは毎日その問題を取り上げていた。

この人為的な隔離は住民の日常生活を複雑にしている。まず貨幣。イギリスはE.U加盟中もポンドを使用していたから、アイルランド共和国に入るとユーロが必要。その他アイルランドはE.U加盟国として、メートル法を採用。距離はマイルでなく、キロメートル、温度も華氏でなく、摂氏。よく考えてみると、英国がE.U加盟国だったにも関わらず、自国の習慣を維持してきたことに矛盾があった。大英帝国の子孫としての誇りだろうか? 脱退を予測してからか?

ハイウェイのサインを見ていると、北部アイルランドにはThe North 、共和国には The Southという表現が使われている。住民は別の国という認識があまりないのかもしれない。ここもいつかは南北統一を目指しているらしい。しかしUnionist (統一論者)は弱いし、政治問題を話したくないらしい。ここの国民は国のあり方に不満なら、アメリカとか、カナダとかオーストラリアとかという自由が保障され、民主主義がうまく作動している国に親戚、知人を頼って移住することも比較的簡単。そうすれば、あの暗い、長いイギリス支配の傷と矛盾が残っているアイルランド社会をオン出ることは可能。そう思って、残っている人々は静かに暮らしているのだ。かげでヘラヘラ笑っている、そんな印象をすぐに私は持った。

ツアーのガイドと会って、ポートマーノックのホテルへ

ダブリン近郊の保養地ポートマーノックの海岸 (Google Map)

アイルランド共和国のダブリン空港でバスを降り、ツアーのバス運転手兼ガイドのトニーと会う。彼のバスでもう1組のアメリカ人夫婦と東岸にあるリゾートホテルへ。ここが集合場所。ポートマーノックという海浜地にあるホテル&ゴルフ・リンクスという名前で、とても感じのいいリゾートホテル(「保養地という訳語がぴったり)。ブルフ場もいい。リンクス、つまり、海浜横の砂丘地に造られていて、アイルランド有数のゴルフ場だった。スコットランドのゴルフ場に似て、あの蛸壺バンカーもある。久しぶりにプレイしたくなってしまった。部屋も最近改装したらしく、とても気持ちがいい。全てに手入れが行き届いている感じ。まずは幸先良いツアーの印象で安心する。ツアー・グループは全部で25人。半分以上はその日の朝に終了した北部アイルランドのツアーに参加していた。インド人夫婦とコネティカットとカリフォルニアの3夫婦を除いては、皆アメリカとカナダの中西部から。私とインド人夫婦を除いては、皆アイリッシュの先代の国を見にきたらしい。カナダ人の姉妹は特にルーツ探訪(アメリカではこれが流行っている)の旅で2回目という。

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ポートマーノック・ホテル

午後は自由行動なので、私はタクシーと電車でHowthという海岸の町にあるジェイムス・ジョイスのミュージアムに行こうとしたが、頼んだタクシーが来ないとかいう不都合があり、行けなかった。この問題だけでなく、私はすぐにローカルの住民に人種差別的傾向があると感じた。これはずっと後で、インド人夫婦と話して、確認された。

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代わりにビーチを歩いて、隣村まで行くことにする。リンクスゴルフ場の延長のような砂丘に葦のような草が生えたところから、ビーチをみると、引き潮で100メートルくらいも干上がったビーチが横たわり、水辺の先も遠浅の海のようだった。イギリス本島との間だから、深く険しい海ではなかった。私が持っているアイルランドのイメージではなく、一瞬どこにいるのか考えずに歩いて行くと、中間点に真っ赤なペイントで塗られた小屋があり、この独特な赤がロンドンのダブルデッカー・バスや郵便ポストの色だと気づく。やはりイギリス文化圏内なのだ。

ポートマーノック HOTEL & GOLF LINKS

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8月8日(火) 一途西へ向かって。今晩はゴールウェイ泊まり

ツアー第一日目は朝9時に出発。島のほとんど真ん中を東西に走っているハイウェイに乗って、一路西へ。このコースは司馬遼太郎「街道を往く」第31巻アイルランド紀行(Part II)のコースと同じ。私はこの本を読んで、明治以降、アイリッシュ文化はどういうわけか日本人を惹きつけてきたことを知る。いわゆる大帝国のイギリス、フランス、アメリカ、ロシアなどにはどうやったって追いつかない、同じ島国のアイルランドは気候も温暖で、イギリス大帝国の横に位置し、日本と状況が似ていると思ったのかもしれない。ラフカディオ・ハーンの影響もあるし、「庭の千草」や「ダニーボーイ」などアイルランド民謡も日本的センシティビィティがあって、馴染まれてきたと思う。彼らの国民的悲劇に耐える姿も「もののあわれ」の日本文化に共鳴する。

司馬遼太郎の「街道を往く」アイルランド紀行

司馬遼太郎の一行はアイルランドの首都ダブリンに行く前に、ロンドン、グラスゴーで長い寄り道をする。大英帝国の絶頂期を偲び、100年もしないうちに落ちぶれてきた現実を検証したかったようだ。ロンドンの漱石の足跡とか、感傷的なところもある。感傷はアイルランド人にもっと感じていたようだ。この悲劇の民族のその悲劇振りを味わいたいとしているよう。だから、このハイウェイを西に行ったのは、この島はかなり緯度の高く、そして痩せた土壌で、ヨーロッパ圏の端っこにあるため、それより西に逃げようもない(ケルト人は3千年の間に中央ヨーロッパから実際にじわじわと西に追いやられてきた)。仕方なく、イギリスにどんなにいじめられても、じっと我慢して、岩だらけの土地の、その上にうっすらと乗った表土を飛ばされないように囲って大事にして、なんとか、羊を飼い、バーリー麦を育てて、荒海に小舟で乗り出して、魚を採り、生き延びてきた。司馬さんはなぜアイリッシュがそこまで頑固に何百年もカトリック信仰を守って、スローキリング的なイギリス国の圧政に耐えたのか? そういう疑問を持って、またその非常に暗い状況の中、ケルト民族の土着神のエンジェルたちと遊んだりして、浮世の辛さと向き合わない選択をしたように見えるアイリッシュ民族に対して愛情が深い様子。

司馬さんたちがここを旅したのはもう3、40年も前のこと。1990年代のバブル経済(ケルティック・タイガーと呼ばれた)でこの国も変わったようだ。それが失敗に終わって、元の木阿弥的な近年だが、ドライバーのトニーの話によると、まずこのハイウェイがそれまでなかった。バブルは弾けてもハイウェイは残り、車社会になりつつあるという。そして、ティー一辺倒だったのが、若い人は特にコーヒーを好むという。それも紙コップでと、皮肉っぽく説明する。
農業・漁業中心の国から、バブル期に押し寄せた外国資本のハイテク産業は今も健在している(アップル、ボッシュ&ローム、Google、マイクロソフトなど)。ヨーロッパの西端にあるアイルランド共和国もE.Uのメンバーとなり、近代化には成功した。

クロンマクノイズ、中世の修道院跡

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私たちの最初の見学スポットはクロンマクノイズという6世紀に建てられた修道院跡。島の中央に位置し、東西、南北の主要交通路が交差する地点。アイルランド一のシャノン川が近くを北から南に流れる。修道院の建物はもちろん何回もバイキングなどによって壊され、また何回も建て直された。6世紀には修道院の周りに、一般の人の村ができて、すでに生活共同体をなしていたようだ。石でできたいくつかの建物と教会、高さ50メートルくらいある円柱型の穀物倉庫兼見張り塔、そして墓地。ここにあるケルト式石の十字架が有名。彫刻が施してあるので、良いものは重要美術品として建物の一つのミュージアムに収まっている。このタイプは四十年前スコットランドの西岸でも見た。同じような時代に同じような人々、つまりキリスト教を取り入れたケルト人によって作られた。墓地でガイドの説明を聞いている時、碧かった空が急にかき曇り、雨が降ってきた。気温は12、3度で、雨は氷雨に感じられた。朝は晴れていたので、皆半袖で傘もなし。説明は長く、このままでは肺炎にでもなりそうな寒さで、適当に切り上げて、建物の中に入る。後で、トニーにどうして傘を持って行くように言ってくれなかったの?となじると、彼はここはアイルランドだよ!それくらい知っていただろうという*。イエス、トニー。それからは皆どんなに晴れていても雨合羽か傘を持って歩いた。

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クロンマクノイズ。シャノン川が見える

※ アイルランドの年間の平均日照時間は5時間から7時間

エスカーという氷河が遺した道

さて、ミュージアムの中で有名なケルト式十字架の説明を聞いている時、周りの展示に面白いものを発見。説明によると上に書いた東西南北交通路は大昔からあり、「エスカー」と呼ばれる。辞書には載っていない単語で、Wikipediaによるとヨーロッパ、北米の寒冷地にある氷河が削った路とある。アイルランド語の尾根とか山の背という言葉からきている。アイルランドのダブリンからゴールウェイの間にその巨大なものがある。その昔氷河で覆われていたところが少し温暖になったときに氷が溶け始め、その溶けた水が流れるトンネルができた(氷の中に)。長い間にはその川底に土や枯れ木枯れ草などの沈殿物の層ができてくる。温暖化がさらに進み、まわりの氷が全部溶けたあとその部分が自然が作った道路のようなものとして残った。アイルランドの中部に存在するエスカー・リアダはこのエスカーの交通網。これは皆最後の氷河期1万年前にできたもの。なんと人間に都合の良い自然現象だっただろう。けもの道に次ぐものだと思う。

ピートという自然燃料

またもう一つの北国の産物(?)にピートがある。日本語で泥炭地と呼ばれるもの。植物(特に寒冷地の沼地に)が枯れ朽ちて、炭素化したものとある。アイルランドの元沼地だった地域にこれが層をなしている。アイルランドではそれを地面から切り離し、用途に応じて切り分け(近世は国家事業として)燃料として使ってきた。家庭用はもちろん、発電もこれで行われていたが、公害(煙)がひどいため、現在は行われていないという。これもなんとも都合のいい話。薪を割るのとどっちが簡単か知らないが、少なくとも一年の半分は暖房が必要なこの寒冷地にただの燃料が埋まっていたのだ。これは北海道にもあるようだ。でも少なくとも江戸時代には利用されていなかったに違いない?本州にそんなものがなかったから。

アイルランドの自然

アイスランドと違って、アイルランドには木はあった。それも上等な樫の大木の原始林が島を覆っていた。エリザベス1世のとき、戦艦を作るのにこの樫の木を切り倒したため、ほとんどそのとき全滅したという。1戦艦をつくるのに500本の木が必要だったという。

アイルランドもこの辺りまでは緑が多い。ほとんど全地表面が何かに活用されている。アイルランドは緯度は高いが、メキシコ湾流のおかげで、温暖な気候。雨が多いので日照時間が少なく、小麦は育たない。代わりにバーリー麦が育っている。私が行った8月の半ばの畑は麦秋だった。8月から9月にかけて穫り入れが行われ、そのあとキャベツが植えられるそう。それが翌年の春収穫される。ちょうど聖パトリックのお祝いの頃(3月17日)*。それでアイリッシュはこの日にコーンビーフ&キャベツを食べるのだ! 私もよく作ったこの料理が、春の訪れを祝う料理だということがわかって嬉しくなる。あの派手な緑色のシャムロック(三つ葉クローバー)も春そのものではないか。
麦畑の間には緑の牧草地があり、羊が点々と見える。牧草地は低い石垣で囲まれている。囲い農法という。

アイルランドの川は美しい。ゆるい傾斜が小川の流れを美しく見せてくれる。工業らしい工業がないし、人口密度は低く、川の水は汚染されていないよう。そこには鮭やアークティック・チャー、マスが海から遡上してくる。

※ アイルランドと同義語のようなセント・パトリック。毎年3月17日に祝われる。家庭ではコーンビーフ(塩漬けの牛肉)の塊を2、3時間茹でて、そこに大きく切ったキャベツ入れる料理を作って祝う。

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8月9日(水) コニマラ国立公園

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コニマラ国立公園/入江に浮かぶ養殖イカダ(右)

映画「静かなる男」

ゴールウェイから北に行ったところの大西洋岸寄りの地域は風光明媚でコニマラ国立公園になっている。アメリカ映画には、それも往年の男優・女優、さらに監督にはアイリッシュ系が多い。ジョン・ウェインの映画「静かなる男」(ジョン・フォード監督)は当時評判になった映画。司馬遼太郎もこの映画のことに数ページ費やしている(さらにジョン・フォード監督について数ページ)。この辺りが舞台になっていて、そのロケが行われたという石造りの家に行く。私もこの映画のDVDを借りて、映画を観てみたが、とても最後までおつきあいできなかった。話が馬鹿げているのだ。筋書きはアメリカで成功した(ボクサー?)ジョン・ウェインが親の故郷に行く。そこで気が強くて評判のモリーン・オハラに逢って、恋をする。モリーン・オハラはアイリッシュ・ビューティ。そして両方ともアイリッシュの感情起伏の激しい、ちょっとばかがつく役どころ。ツアーの参加者は皆私より若いので、誰も興味がなかったよう。アメリカに移民したアイリッシュは多いから、成功した人もけっこういるらしい。ガイドのトニーがあげた例はフォード自動車のフォード。オートメーション式製造法で成功して、フォード車が米国ナンバーワンになった後、故郷のアイルランドにも自動車会社を造ろうとした。ちょっと理由は忘れたが、うまく行かなくて、撤退した。でもローカル経済に貢献はしたらしい。

「静かなる男」監督・ジョン・フォード

アラン島

沖にあるアラン島への船がここから出ている。司馬遼太郎はこの島にも非常に興味を持っていらっしゃった。このトップソイル(表土)がもっと少い、岩だらけの島で何世代も漁業を中心にした、厳しい生活を強いられてきた人々。なぜ頑固に島にとどまっていたのか? シングという有名な小説家の戯曲がある。私はニューヨークで本物のアイリッシュ俳優によるワンマン芝居を見た。そういう疑問が主題だ。荒れた海にカヤックのような小舟で漁に出る男ども、彼らを陸で支える母親や妻。アラン・セーターを編みながら。遭難して死体が浜辺に打ち寄せられると、着ているセーターの編み模様でどこの誰ベイかわかる。悲しい、虚しい。だから私はこの芝居だけでアラン島は十分だと思った。アラン・セーターというのは、生成り色つまり、着色していない羊毛色の縄編みのセーターで、昔私が学生だった頃に流行った防寒セーター。皆その頃から当たり前になってきていた香港製だったが、私はなかなかしゃれていると思っていた。今本物のアラン・セーターも買えるが、アイスランド・セーターと同じく、チクチクする毛糸だからダメ。残念!



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8月10日(木) ワイルド・アトランティック・ウェイ

モーハーの断崖の散策道 (筆者撮影)

アイルランドの西岸は”Wild Atlantic Way”と呼ばれ、北端のドネガルから南はコルクまで、断崖絶壁や岩盤剥き出しの風景が続いている。それらの間に海から細長く入江ができている。陸の奥深くまで入り込んでいるので、波は静か。こういうのをフィヨルドというのかどうか?

これらの入江の名前に注意していると、ベイが多いが、リヴァーというのもある。海岸寄りの断崖を行ったり来たりバスで回った後、この入江が深く入り込んだ漁師町で休憩。これだけ入り込めば、水も穏やか。そこにはムール貝、オイスターなどの養殖イカダが並んでいる。海水はきれいだし、野山をくぐり抜けてきた川の水はきっと栄養たっぷりだろうし、海は穏やかで、作業をしやすい。確かこの南にあるリメリック市のあたりはムール貝養殖で世界一だという。

今私たちが食べるムール貝は殆ど全部ファーム育ちだという。海岸で岩についたムール貝を手でむしり取ったり、浅瀬の砂浜でレイクでなどの手道具で収穫するなど、とても現代経済が要求する効率に追いつかない。ファーム育ちだから、貝の間から出ているヒゲも少ないし、砂とか小石が入ってないところがいい。小鍋いっぱいにムール貝を入れ、ワインやガーリックで風味づけした前菜(メインにもなる量)はベルギー風として、ヨーロッパならどこでも、アメリカでもオーストラリア、ニュージーランドでも人気高いディッシュになっている。

モーハーの断崖

さらに南下して、景観で西海岸一番のモーハーの断崖を見に行く。よく観光ポスターで宣伝されているところ。断崖が海から垂直に立っている。てっぺんは薄緑だが、その下は岩の層になっている。いかにも海から垂直に隆起したことがわかる。国内外の観光客で溢れていた。確かに一見の価値あり。私のような怖がりも崖っぷち近くを歩けるように、しっかりした石版の塀がめぐらしてある。その外側(断崖側)を若い人たちは平気で飛び跳ねたりして歩いている。いつこんなに差ができたのだろう。運動神経の老いということを考える。

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ワイルド・アトランティック・ウェイとザ・バレン(右)

キラーニーという300年続く観光地

夜はキラーニーで泊まる。イギリスはいうまでもなく産業革命で18世紀にはすでに中間階級にフランス風に言えばブルジュア生活が浸透しつつあった。それでこのリング・オブ・ケリー半島はその頃(300年前)すでに観光名所だったという。まあ日本にも箱根で湯治とか、お伊勢参りとか物見遊山の旅が江戸時代にあった。当時中流の一般人が旅行できたのは、日本とイギリスくらいだったかも。
着いた夜は夕食後、仲良くなった2夫婦と街に繰り出し、アイリッシュミュージックを聴きに行く。賑やかな通りの両側には金字の店名が入った黒い看板とか、梁が縦、横、斜めに入った壁とかが特徴(アイリッシュ的)的な店がずらりと並んでいる(シャーロック・ホームズが出てきそう)。観光客もいっぱい。歩道で演奏しているグループもあり、人だかりがしている。ホテルで勧められたマーフィーというライブ・ミュージックをやっているパブに入る。アイルランド式バグパイプ(空気袋を腕に巻く)、バンジョー、笛を使った踊りだしたくなるような音楽をやっていた。こういうのをアイリッシュ的というのだろう。やたらと陽気にはしゃぐのだ。

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8月11日(金) リング・オブ・ケリー
楽しいシープドッグ・ショー、そこで考えたこと

翌日のリング・オブ・ケリー観光は半島の北東地点から時計と反対回りで、国立公園になっている半島をぐるりと回る。先端近くに行くとケリングという岩だらけの島も見えるらしいがあいにく、この日は雨模様で何も見えない。途中シープドッグ・ショーを観る。ここはもちろん観光スポット。霧雨の中、土産物屋の後ろの観客席に案内される。前面はなだらかな緑の斜面になっていて、右半分にさまざまな色、大きさ、ツノの形、胴体、毛並みの羊が30頭ほど、草を食んでいる。いかに沢山の種類があるかの見本。まず、その説明。羊によって行動パターンも違うそう。説明するは60代くらいの男性で、ウェイヴィーなグレーヘアのロバート・ミッチャムのようなハンサムなおじさんだった。長身のがっしりとした体躯にダークグリーンの雨合羽を羽織っている。格好いい! アイリッシュは美男、美女の国なのだ(だから美女はアイスランドのバイキングにさらわれた)。羊の紹介が終わると、今度が本命、シープドッグが3匹現れる。大きさはダックスフントくらい。白に黒のブチ。かわいい。ロバート・ミッチャムがピーと笛を吹いて合図すると、斜面の真ん中あたりから駆け下りてくる。ご褒美をもらって、また走り登って、元の位置に。次は10頭くらい羊の群が斜面の真ん中に現れ、笛の合図によって、2匹のシープドッグが羊たちの周りを走り回りながら、斜面をそろそろ下り、我々観客席の前のあたりまで、誘導する。羊にとって犬はオオカミと同じで、獲って食べられてしまうことを恐れて、それを避ける行動に出る。その習性を犬はわかって周りを走り回ってお役目を果たすという。

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多様な羊の見本

見事な羊の群れさばきに皆喝采。人間は賢い、そして、犬も賢い。有益な動物を家畜に飼い慣らし、それを殖やして(オーストラリアでも、ニュージーランドでもアイスランドでも人間の数の数倍)、資産(とは会計用語で利潤を生み出すものの意)を増やす。日本にはなかった経済展開。どうしてだろう? アジア大陸、中国でも戦争用の馬は沢山増やしたが、運搬、農業用にしか、発展しなかった。放牧というコンセプトがなかった(モンゴル以外)。ニュージーランドに行った時、いかに原野を放牧地に変えて行くかのプロセスをガイドが説明する。囲った草地に羊を入れるのだが、ある程度食べさせて草を刺激して、もっと生えてくるのを待つ。羊を入れすぎると、根っこまで食べてしまって、その土地は取り返しのつかない荒野になってしまうという。トライ&エラーで何世紀にも亘って、先人(スコットランドの)が習得した農業法がある。私は日本人がニュージーランドに入植しても、成功しなかったわねと彼に言ったのを思い出す。

フィッシュ&チップスのランチ

その日のランチはツアーに含まれ、全員一緒にこの島一番(トニーによると)のフィッシュ&チップスを食べる。店の名前はBlind Piper Pub。盲目の笛吹きのパブ。何か伝説がありそうな名前。彼が自慢するだけあって、とても美味しかった。美味しさの秘密はヘイクという高級タラを使っていること。もちろん魚はその辺で今朝獲れたもの。そして揚げたてを持ってきてくれた。ちゃんとモルト・ヴィネガーも用意されて。デザートのフレンチ風アップルパイも美味しかった。

午後はまだ残っている半島の南側を回る。ヴィクトリア女王がお気に入りだった場所(レイディーズ・ビューという)とか、つまり明治天皇のご行幸あそばされたところと同じ感覚。

夜はアイルランドのミュージックとタップダンス

夜は隣のホテルでゲイリック・ルーツというグループのミュージックとダンスの公演を観に行く。このダンスのスタイルは「リバーダンス」などという名前でアメリカではここ20年くらい人気のある女性中心のタップダンス。短いスカートのドレスを着て両手を腰にあてるか、まっすぐ下ろして、つまり上体を動かさずに足をあげたりするタップダンス。舞台に立つ5人の女の子たちは皆バービードールのようで、足が細く長く、髪はブロンドかブルーネット、クルクルカールしたヘアーを腰まで垂らして、それが踊るたびに揺れ動く。合わせる音楽は笛、バイオリンとバンジョーなどの楽器で、後ろで2、3人の男たちがやる楽しい典型的アイリッシュ音楽。ダンスに一人、二人の男性が入ることもある。ホテルの結婚式にでも使われるような大ホールに舞台は作られている。テーブルを繋げたような高さ1メートルくらいの簡易舞台で、その前の方でダンスは繰り広げられる。客席は舞台のすぐ近くまで椅子が並べられ、私たちはダンサーを見上げるような感じになる。天井は普通の高さなので、彼女たちの背ギリギリで、飛び上がる毎に頭をぶつけないか気になった。舞台は簡易のものだから彼女たちの足並みで揺れ動く。女の子たちは皆若々しく、清楚な感じで、なかなか楽しいプログラム。

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そのあとは美しいソプラノボイスの女性がハープを弾きながら、アイリッシュの悲しい恋歌を歌ったり、男性がドラム叩きながら歌ったり、3人姉妹の歌など、飽きさせない。単純だが、若々しい陽気さと古風なエレジーの両面がある、心地よい音楽とダンスの2時間を堪能する。
私は何年か前に日本で 青森まで行って、津軽三味線の公演を何箇所かで観て回ったが、このバラエティさはなく、エンターテイメントとしてはこの方がずっと上。
アメリカではアイリッシュ系のエンターテイメントが多いとされている。彼らの陽気さ(哀しさを隠して?)がエンターテインメントの第一条件を満たしているのだろう。

アイルランドミュージック/タップダンス(他の場所で筆者撮影)

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8月12日(土) 第2の都市、コルクへ

アイルランドにキリスト教が受け入れられたのは6世紀。有名な聖パトリック(それはウソという人もいる)が布教した。西暦300年ごろ古代ローマ帝国(東)でキリスト教が認可されたが、それからローマ法王の制度が成立するまでには、何世紀もかかった。どこも民族対民族の対立でキリスト教布教どころではない。ところが一応ローマででも勉強した聖パトリックが4世紀にアイルランド(彼はウェールズ出身で子供の時誘拐され奴隷に売られる)に来て布教を始める。それから数世紀の間、アイルランドでは最初に見たクロンマクノイズのような修道院があっちこっちにでき、修道僧はキリスト教の勉強をし、修行の一環で聖書の写経をした。仏教などと同じような過程だが、彼らはその複本をアーティスティックなレベルに引き上げた。節の初頭に飾り文字を入れ、挿絵やボーダー模様を入れ、それもカラーや金箔を使ったもの。紙はパーチメントという羊の皮を精製したもの。これは「いかにアイルランドが西洋文明を救ったか?」という本を読んで知ったこと。この本によると、その後修道士たちがそれらの複本を携えて、反対にヨーロッパ本土に布教に渡り、すっかり痛めつけられていた教会組織を復興したのだという。

中世以降修道院は皆屋根なしの廃墟となっている。バイキングの襲撃、ウィリアム征服者たちからも攻め込まれた。だが決定的となったのは、あのオリバー・クロムウェル(1648年)の時。その時の破壊で修復不可能となってしまった。それでもその横の墓地は代々受け継がれ、現在も生きている。面白い。屋根のない石造りの廃墟も取り壊す気はない。あのブリティシュめがやったのだと、これからさき何百年でも語り継ぎたいというのが彼らの本音らしい。荒涼とした、岩の多い西海岸を南に下る途中、幾つもの廃墟となった教会や修道院跡を見かける。

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コルクというところ

コルクという都市(州名でもある)は南海岸地域の一番重要な地域。人口もダブリンに次いで2番目(州では一番)。この比較的北に位置しているアイルランド国ではやはり南の方が人口が多い。コルクは昔から栄えていた。アイルランド、イギリスがスペインと濃密な関係にあると気がつく。まず地理的に近いのだ。アルマダ艦隊がやられた頃から2,3百年の輸送は、海の航路が主要だったから、スペイン、ポルトガルはイギリス、アイルランドとのコンタクトが多かった。この南方双国から、ワイン、チェリーなどの果物を輸入し、アイルランドからは毛織物などを輸出していた。だから、コルクの港は栄えた。それにこの港はオーストラリアのシドニーに次いでの良港だった。だから、軍港にもなった。タイタニックはベルファーストで造船され、出港して、内海のアイルランド海を南下して、コルク港(実際には外海に近いコブ)に立ち寄り、ここが最終(船の生涯の最初で最後!)出航地だった。
私はコルクなどというそれまで考えたこともなかっただけでなく、存在さえ知らなかったこの町(というより都市)に二日も泊まることになった事実を噛み締めた。ここのヘイデー(最盛期)はとっくに過ぎている。イギリス帝国の軍港はもともとコルク湾の外側にあるキンセールというところにあった。しかし軍艦が大きくなって、その港ではダメになり、コルクに移動する。そして1921年のクリスマス協定で大英帝国の海軍はここから引き揚げる。
ウィキペディアで読むと、ノルマン人の征服の後、イギリスはダブリンのある州を「The Pale]として直轄地にし、さらに軍事的に貢献のあった自国貴族にアイルランドのいくつもの州にあたる地方一帯を授けた。ダブリンの西南、そしてコルクからさらに西の一帯には、それまでにその地方地方でキングがいた。彼らを攻め落とすと、全ての土地を勝利品として分け与えたらしい。それでコルク辺りは13、4世紀からイギリス貴族のものとなり、不在地主の始まりだったらしい。

ジェイムソンというウイスキー

コルクのホテルに入る前に外海に近いコルク港である、コブに行く。その前に近くにあるジェイムソンというウイスキーの工場兼試飲バーに行く。ウイスキーはスコットランドが有名だが、発明したのはアイリッシュだという説があり、この国ではwhiskeyと綴り、スコットランドでは whiskyと綴る。アメリカでは国産品はアイリッシュ式、輸入品はスコットランド式。アメリカで輸入のウイスキーはスコッチだから、こうなったのではないか? アイリッシュが大勢移民して来た米国では、普通の国産ウイスキーはアイリッシュ式なのだと思う。このジェイムソンというブランドは3大ブランドの一つ。創立1780年で、2回蒸留するのが特徴。このツアーの集合地だったあの海辺の保養地ホテルのゴルフ場はこの会社が造ったものだった。

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そのあと、コブの街へ。ここの港がコルクの港で、シドニーにつぐ自然の良港。タイタニックのラスト・ストップとしても有名だが、その前、1845年から51年にかけて、かのポテト大飢饉で百万人が餓死し、200万人が主にアメリカに移民した。その内7万人がこの港からだったらしい。さらにそれから1950年代までには250万人がここを通って移民したと記録されている。それでアメリカ人相手の観光ツアーとしては大事なところになっている。アイルランド国の人口はこの時から下降の一途で、去年初めて人口が増えたという。この事実をどう解釈すべきか?

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8月13日(日) キンセールのチャールズ・フォート

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コルクからバスで南へ1時間ほどでキンセールという可愛らしい港町に着く。ローカルの人たちが日帰り旅行によく出かけるそう。この手前というか、入江に入る前の丘の上にチャールズ・フォートがある。これは1601年造築、すでにスペインのアルマダがイギリス艦隊にやられた後である。なのにスペイン船がウロウロしているのが見つかり、イギリス海軍が攻撃して撃沈する。それ以来この地は(アイルランドの港にも関わらず)イギリス海軍の重要な軍事基地となる。6角の星型要塞で、一時は何百人という兵隊が駐屯していたので、宿舎など(兵器庫、爆薬庫はもとより)の施設も残っている。屋根がなくなった残骸が多いが赤っぽいレンガ造りの当時の建物が想像できる。ここで私はベルグの「ウーゼック」というオペラを思い出した。あれはドイツの田舎町に駐屯している軍隊村のダメな一兵士の話である。内縁の妻と赤ん坊を養うには給料が足りず、将校の子使いをやっている。このキンセール・フォートでも結婚している軍人でフォート内に住める人数は限られ、その他はキンセールの町に下宿したという。中世時代に戦争が勃発すると封建貴族は家来を従えて君主の元に馳せ参じたが、その後それでは間に合わず、常備軍が必要となり、ここチャールズ・フォートのような仕組みになる。軍人は最初の専属公務員で給与制職業だったのだ。こうした制度から社会は近世に入ったと言える。
帰りの飛行機の中で「ゼット帝国」というブラッド・ピットの出る映画を観た。18世紀末か19世紀初頭に大英帝国海軍の軍人がアマゾン探検・測量を命じられる。彼の基地がコルクだった。それ以外にもキンセールも名高いを知る。

日曜の休息日

コルクの2日目は日曜日で午前中のキンセール・ツアーは代行運転手がやり、午後は自由行動。バスドライバー兼ガイドのトニーは60代半ばなのに、この10日間ツアーを一人で切り盛りしている。ウェブサイトにもそう書いてあったが、私は名所の説明などはきっとレコーディングされたものを流すのかと思っていたが、そうではなく、彼は歴史も文化も全てこの大型バスを運転しながら、説明する。もちろん記憶から。あまりの過酷な労働条件に私は気に入らなかった。なぜそこまでして、お客には安く、そして自分たちには実入りよくと欲張っているのだろう。もう一人ガイドを別に乗せたら、彼らの説明などがどのくらい質的に向上するかはわからない。でもなんか、彼が頑張りすぎて、私は疲れてしまう。この日曜日、多分6日以上通しでやってはいけないという国の規定があるのだと思う。(ニュージーランドでは2時間ドライブしたら、休憩時間を設けなくてはいけない)それでこの日曜日は代行が来たり、自由行動になったりしたのだ。私は日曜日だから、このカトリックのお国柄、トニーも教会に行くのかと思ったが、そうではなかった。国民的スポーツであるハーリングの大事な試合があって、それを見なくてはと言っていた。この国のハーリング熱はすごいらしい。ラグビーとサッカーの間のスポーツ。

ここはバターでも有名で、アメリカのスーパーだったら、必ずある黄金色に緑の三つ葉のクローバー(シャムロック)がついたフォイルに包まれたバターはここ製だった。バター・ミュージアムというのもあった。

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8月14日(月) 石造りの古城などを観てから、ダブリンへ

コルクから島の内陸を北東方向にツアーは続けられ、途中何箇所か古城などを見学して、いよいよダブリンに入る。夕方4時ごろに着き、ホテルに入る前、雨の中を一応くるりと中心部を回る。司馬遼太郎たちはグリシャム・ホテルに泊まり、近くのオッコーネル橋の記述もあったので興味シンシンだったが、歩いて見ることはできなかった。しかし、グリシャム・ホテルの外観は特に特徴なく、またオッコーネル橋はトニーの説明によると、橋の長さより幅の方が広い橋というので、がっかりした。いろいろな都市を見てきたが、大抵大都市には大きな川が真ん中を堂々と、またはくねくねと流れている。このリッフィという川はその川幅10メートルくらいの他愛ない川で、水量も少なかった。これで私のダブリンの印象は良いものでなくなった。ちょっと外側にある、フェニックス公園の大きさには驚いたけれど。

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8月15日(火) ダブリン観光
トリニティ・カレッジのブック・オブ・ケルズ

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翌日は素晴らしいお天気で、トリニティ・カレッジにあるブック・オブ・ケルズを観に行く。この大学キャンパスはチューダー王朝支配の頃、エリザベス一世の命令で建設されたというから、長い歴史をもつ。ブック・オブ・ケルズというものは私が12日のところで書いた修道僧が写経した装飾性豊かな副本の一つ。西暦800年頃にスコットランドで作成されたと推測されている。これの一番有名で、国宝級のものがダブリンのトリニティ・カレッジ内のオールド・ライブラリーに保存されている“ブック・オブ・ケルズ”。8世紀にスコットランドの西端の島イオナの修道院で作成されが、難を避けて一時はダブリン近くの修道院に保管されていた。展示されているのはガラスケースの中に2ページだけで、人だかりの中、2分くらい私が垣間見たのは真ん中にキリストの顔(ブロンドヘアに大きな目)、天使たち、周りに唐草模様や動物、花などの細かいボーダー模様 さらにイルミネートされたゴスペル。装飾性高く、スタイルがあり、素晴らしい。線の外側に点々が着いているのは何かの役目を果たしていると思う。予想される難を恐れて、長い間ボッグ(泥沼)に埋められていたというのに、ほとんど完璧な状態で残っている。装飾性を高める干し草ならぬ組紐のような文様はケルト人のものだそう。そこのギフトショップで買った本はとても興味深い。あの時代の製紙(羊の皮)・製本技術、写本・能筆・装飾アート、その水準の高さは驚くべきものがある。定規、コンパスを使ってページの一様性を保ち、マンガ化された動物などのコミカルな表情とか、深刻な宗教経典とはほど遠い整然さ、美しさ、愛らしさがある。古代のドルイド教徒は改宗してローマに制されながらも、そこから知識、文化を吸収し、自身の文化を高めたのだろう。こうしたゴスペル・ブックの装飾には多分にドルイドの紋様などが取り入れられている。

ケルズの書 / Symbolism in the Book of Kells

オールド・ライブラリーのロング・ルーム

同じ建物の中にあるオールド・ライブラリーは18世紀初期に建設された。中でもロング・ルームは65メートルの長さで2階の高さで真ん中にかまぼこ型の天井(英語では酒樽式という)が一直線に続き、両側に床から2階の高さまでの書棚が並ぶ。2階まで鉄骨の階段がかけられ、書棚にはハシゴがかけられている。書棚には古い皮背表紙の本が並び、その真ん中の通路側にはクラシカル文学者、哲学者などの巨人たちの胸像がおかれている。ここには感激する。

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ダブリンは多くの文学者が住んだ町で、その一人オスカー・ワイルドの像が公園の端の岩の上にある。色物のスモーキング・ジャケットを着て、パイプを吸って横たわっている。何とも変わった彫像。いろいろ物議を醸し出した彼をうまく表しているのだろう。フランス語で発表した「サロメ」がヨーロッパ中に反響を呼ぶ。ゲイ生活をオープンにして投獄され(2年間)、その後健康を害して、また、経済的にも破滅状態で46歳という若さで死ぬ。ここの文学者は内向的で非建設的で日本の大正、昭和初期の私小説文学者と共通したところがあるのではないだろうか?

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よくイギリス国は全くアーティストを生み出さなかったというコメントがある。彼らは大英帝国を築いても、芸術的な面(例外はあるが)は全くダメだったと他のヨーロッパ人は言いたいのだ。イギリスとアイルランドを一緒くたにするのは乱暴かもしれないが、ウイリアム征服王から1922年のクリスマス協定まで、イギリス国はアイルランド国を植民地的に扱ってきたから、文化的には入り混じっている。イギリス人が官僚主義で大英帝国を運営する才能に長けていたとすれば、その陰でアイルランド人は優しい心を維持して、芸術面で歴史に名と残したといえるのではないか?

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帰国後記

このアイルランド旅行で私にとって興味深かったことは、北部アイルランドの存在と、もう一つはアイルランド文化とアメリカ文化の関係だった。
私が最初に渡米した60年代後半は、それまでに確立されたハリウッド的アメリカ文化(TVとか、映画とか、クリシェーとか)がまだ一般的な時代で、アイリッシュというのもお馴染みの民族だった。特に東海岸には、ニューヨークもボストンもアイリッシュは多く、ポリスマンと、消防署は皆アイリッシュという固定観念があったし、事実だった。それ以外の職業でも女性なら秘書とか、中間的仕事をやっているのはアイリッシュだった。そういうステレオタイプがまかり通っていたのだ。だから私にとってアイリッシュ文化とは何かよく調べもしないし、知らなかったけれど、何となく、どういう国民性なのか、薄々わかっていた。だからあまりわざわざアイルランドに行こうという計画は立てなかった。ちょっと暗いイメージだし、カトリックで、真面目だが、頭がいいとか、カッコいいところはなかった。
アイルランドはエメラルド色の島と呼ばれ、確かに美しいけれど、これと言って、アッピールするものはない。よく考えてみるとアメリカと似ているから。70パーセントはオーバーラップしていると今回の旅で実感する。アイルランドに住むアイリッシュにとってもアメリカは近い国なのだ。それは大西洋を渡るだけで行ける国だからではなく、まず英語国だし、英国から常に同化を強いられ、それに反抗してきたアイルランド人には、親戚か、友人がアメリカ(またはカナダやオーストラリア・N Z)に渡って、それなりに成功して戻って来たり、行ったり来たりしている人が多いのだ。だからアイルランドは英国の一部になるというチョイスもあるけれど、アメリカのセカンダリー市民のような気分もあるのではないか?プエルトリコ人は本当にアメリカのセカンダリー市民だが、彼らはスペイン語を話し、ちょっと文化的にもアメリカのFounding Fathersと共有していることは少ない。ところがアイリッシュは近い。アメリカの大統領でアイルランドと関係があるのは、オバマを始め、何人もいる。ポリスマンになったり、消防士になったりして(そういう仕事につけたのも、アメリカの大都市でネットワークを持っていたからだろう)40年も働けば、年金がもらえ、老後は故郷に帰る人も多いだろう。ホテルの話だから、絶対に正しい観察ではないかもしれないが、TVのローカルニュースは殆どイギリス国のB B Cがやっている。ゲール語の放送もあるようだが。
つまり英語圏の国ということは、非常にメリットがあったと思う。それだけにそれ以上の団結(例えば悲惨な痛めつけにあう独立運動とかの)が難しかったかもしれない。

アイルランド共和国の注目される近々ニュース

そんなことを考えていると、今日のニューヨーク・タイムズの日曜コラムニスト、モリーン・ドード(アイリッシュ名)のコラムにアイルランド共和国の新しい首相、レオ・ヴァラドカー氏のことが取り上げられていた。彼女はアイルランドと濃厚に繋がっている人だから、常に動向には注目していると思われる。この新首相は初めてのゲイというだけでなく、インド人の父とカトリックのアイリッシュの母(看護婦だった)、子供はカトリックで育てるという母親の父との約束でそういう環境に育った変わり種。
2015年5月、アイルランドは世界初のゲイ同士の結婚を認める国となった。国民投票で62%が賛成したというから、驚く。1993年まで、アメリカの1950年代と同様、同性愛は犯罪という国だったことを考えると国民の心変わりにはwonder why?  一つはセルティック・タイガーと呼ばれた90年代初頭から、リーマン・ショックまで(2007年)のバブル時代が失敗に終わったことで真の精神的近代化を求めたこと。もう一つはカトリック神父がアルターボーイと呼ばれる少年たちなどを性的にアビューズしたこと。この問題は日本人には一般にどの程度理解されているのか私はわからない(こういうことに全く疎いから)。カトリックの牧師はcelibacy(独身)を強制されているら、性的欲求を抑えられなく、少年たちなどに手を出した悲劇。これは最近の「スポットライト」という映画でボストン・グローブ紙のケースが取り上げられているが、世界中でクリスチャンの宗教離れに繋がっている。また訴訟の結果、または口止め料でカトリック教会は莫大な資産を失った。
この事件はイギリス国に何と言われようと、プロテスタントに改宗しないで、カトリック信仰を守って来たアイルランド人の心を根っこから揺さぶったことは十分想像できる。この問題の頃、今回首相になったヴァラドカー氏はクローゼットから出ることを公表して、政治家として国民の支持を得た。アイルランド人はこの問題でようやくカトリックに失望し、見切りをつけたのだった。

私はニューヨークに帰ってから、北部アイルランドに関する映画を3本観る。「血の日曜日」という闘争時代のドキュメンタリー、「ボクサー」、それに「父の名誉に誓って」は私の好きなダニエル・デイルイスが主演のメロドラマ。両方とも闘争時代(The Troubles)の政治活動家で投獄され、出所後は活動を断念して、イギリス政府と妥協する主義になる。その中でも、希望の光が見え、毎日を平穏に過ごそうとする話。
ダブリンに関しては、「リタの教育」という1980年代の映画。コメディだが、ユニークに面白い。最後アル中の大学教授は放校されるが、ニュージーランドの大学からオファーがある。やっぱり、彼らにはやり直しがきく新天地の逃げ道がある。それが大英帝国だった国に生まれた利点なのだと、日本しか戻るところがない日本人の私は感じる。

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萩 原 治 子 Haruko Hagiwara

著述家・翻訳家。1946年横浜生まれ。ニューヨーク州立大学卒業。1985年テキサス州ライス大学にてMBAを取得。同州ヒューストン地方銀行を経て、公認会計士資格を取得後、会計事務所デロイトのニューヨーク事務所に就職、2002年ディレクターに就任。2007年に会計事務所を退職した後は、アメリカ料理を中心とした料理関係の著述・翻訳に従事。ニューヨーク在住。世界を飛び回る旅行家でもある。訳書に「おいしい革命」著書に「変わってきたアメリカ食文化30年/キッチンからレストランまで」がある。

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